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第2話
皆が安心して寝ようという頃、ナエマは旅籠の主人に井戸を借りたいと申し出た。そして、ありったけの縄をくれとも。主人は不思議そうな顔をしていたが納屋にあるものは自由に使っていいと言い、裏にある井戸の場所を教えてくれた。
ナエマはトランクを持って井戸まで行き、シーリュウはそのあとを着いていく。そしてナエマは井戸で水を汲んだ。
その様子をシーリュウは不思議そうな顔をして見ている。
「水、どうする」
「まあ、見ていてください」
ナエマは水桶に右手をかざすと、目を閉じて口を開いた。
「神の光あるところに穢れはなく、あらゆる魔は祓われん」
ナエマがそう唱えると、ただの水が微かに光を放ち始めた。
シーリュウはそれを見て複雑そうな、呆れたような顔をしていた。
「そこらの聖水より効果のある聖水ですよ」
言ってナエマは笑うと、トランクから結び目が何個もある白い紐を取り出し、先ほど主人からもらった縄と一緒に作ったばかりの聖水に浸した。
「これは聖索。魔物や悪霊、悪魔を捕らえるためのものです」
ナエマがそうシーリュウに説明している間に、聖水に浸された縄は黄金に光り輝きだした。
「どうです。私が清めれば、ただの縄ですら聖索となる。私が祓魔院にいられるのも、私が魔に侵されず、私の清めたものは魔に対する強力な武器となるからです」
「武器、大事だ」
シーリュウは頷いた。
ナエマは光り輝く聖索を持つと、その全てを一つになるよう結ぶ。
「これを旅籠の周りに巡らせましょう。魔物は近寄れなくなるはずです。瘴気も断てるでしょう。手伝っていただけますか?」
「わかった」
二人は縄を持ち、旅籠の周りにある木に縄を巻きつけながら進む。
そのとき、シーリュウは何かに気付いたようにある一点を向いた。
それと同時に羽を休めていたはずの鳥が鳴きながら一斉に木から飛び立つ。
「魔物、近い。見てくる」
「一人で大丈夫なのですか?」
「平気だ。ワタシも特別な力、持っている」
言うとシーリュウは胸の前で手を合わせ、口上を述べる。
指輪と同じ真紅の光に包まれたシーリュウの体は鎧の姿と化した。
「ま、魔鎧 ……?」
それを見たナエマはひどく驚いた。
古の領主が最強の軍団を作るべく錬金術師を集め、水銀を核に三百領作らせた鎧。
その鎧は纏う者の力を増幅させ、傷を癒す力を持ち、いかなる攻撃にも耐えるという。
領主はそれを魔鎧と名付けた。
魔鎧を纏った軍団は無敵を誇ったが、人間が持つには大きすぎる力だった。
領主はその矛先が自分に向くことを恐れ、魔鎧を持つ者を集めて処刑し、湖に沈めたという。
魔鎧はそうして葬られたが、何の因果か再び表の世界に現れることがある。
教会にもいくつか保存されており、聖騎士団にも何人かの担い手がいる。
他にも赤狼と呼ばれる赤い魔鎧を持った傭兵の噂や、魔鎧同士を競わせる闘技場があると聞いたことがある。
シーリュウもその魔鎧の持ち主だったというのか。
「お前たち教会が錬金術師、西方から追い出した。東方に錬金術師、逃げた。だから東方では錬金術、発達している。これ、ジュファで作られた魔甲。名を饕餮号 。国の西端に置き、西の魔境から来る怪魔、察知し、民を守る。そのため作られた」
「なるほど……。だから魔物の気配がわかるのですね」
そうだ、とシーリュウは頷いた。
「お前、それ、早く終わらせろ。すぐ戻る」
言うとシーリュウは駆け出した。
「はい!」
ナエマは頷くと、早く結界を作るために走った。
――おかしい。
シーリュウは魔物の気配のするほうに向かいながら、異変を感じていた。
昼間に戦った魔物。あれも強大な力を持つ魔物だった。あと少し獣や人を食らっていたら悪魔になっていたかもしれない。
しかし、魔物は強いがゆえに群れる必要がない。こんなに近くに複数の強大な魔物の気配があるのは妙だ。
何か魔物を誘うような原因があるのか。
饕餮号は宵闇の中でも魔力を感知して物を見ることができる。色こそないものの、何も見えないのに比べれば十分だ。それに、強い魔力ほど光り輝いて見える。そういう意味では夜のほうが魔物に気付きやすいと言えた。
木々の間を白い輝きが横切っていく。魔物だ。幸いにも旅籠から離れて行っている。
――何だ?
その動きにシーリュウは違和感を感じ取った。
何か目的があるように一直線に駆けている。
そして、また一つ大きな光が視界に入った。その光もまた同じ方向に向かっている。
――何かがある。
シーリュウは気配を殺しながら魔物の後を追った。森の斜面を下っていく。
しばらく魔物を追っていると、一つ、また一つと魔物の光が合流する。
その先に目をやると、巨大な光が見えてシーリュウは足を止めた。
光は動いていないから生き物ではない。
シーリュウは慎重に足を進めた。
そして、すぐ足元に鹿の死体が転がっているのを見つけた。魔物に汚く食い散らかされている。辺りを見渡せば、そんな獣の死体がいくつも転がっていた。
魔物たちは巨大な光の淵に集まっている。
できる限り接近してシーリュウは光の正体を突き止めた。
泉だ。
夥しいほどの瘴気を放っており、鎧越しにも瘴気の腐った臭いが漂ってくる。
こうなると魔物の気配も何もない。そこら中に魔物の気配があって数や位置などわかりやしない。
ここは盆地で風も吹かず、その中でも低い位置にある。道からも外れているから誰も異変に気付かなかったのだ。
泉に集った魔物は瘴気を放つどろどろとした水を舐めている。
すると一層魔物の放つ輝きが増し、身に蓄えた魔力が増えているのがわかる。
この泉から力を吸い取り、瘴気を吸って動けなくなった獣を食べて魔物は強大な力を手に入れている。
――この泉をなんとかしなくては。
そう思った瞬間、気配を感じてシーリュウは視線を上げた。
泉の向こう、遠くの木々の隙間に今までの魔物とは比べ物にならないほどの大きな光があった。
その双眸がまっすぐにこちらを見ている。
――気付かれた……!
シーリュウは弓を取り出して構え、気を逸らすように空に向けて真紅に輝く矢を放った。
泉に集っていた魔物は光の行く先を見つめていた。それに気を取られているうちに駆ける。魔物を撒いてから旅籠に帰ればいい。
しかし、大きな光の双眸はこちらを向いたままだ。
そして、その巨体が動いた。
手足のない巨体は蛇のようだった。体をうねらせて一直線にこちらに向かってくる。
今まで魔物は何体も倒してきたが、これほど大きな魔物は相手をしたことがない。
シーリュウは足を止めた。
あの魔物は自分を標的と定めている。どこまでも追ってくるだろう。
下手に攻撃をして傷を負わせると狂暴になる。
――ここで殺すしか道はない。
シーリュウはそう判断した。
幸いにも泉に集まっていた魔物は、自身よりさらに大きい魔物の出現に恐れをなして散っていったようだ。
――一対一ならば、あるいは。
負けることはないが、勝つとは断言できなかった。
魔物は一匹ずつ特性が違う。どんな力を持っているかわからない。さらに、まったく見えないわけではないとはいえ視界の利かない夜、森の中である。
――シーリュウさんは、なぜ戦えるのですか。
――怖くは、なかったのですか。
先程のナエマの問いが胸を過ぎる。
怖くないといえば嘘になる。シーリュウとて死にたくはない。
しかし、魔甲という人より強大な力を得ておきながら情けなく逃げるわけにはいかなかった。
その資格を失ったとはいえ、武門の跡取りとして生まれ、将となるために育てられたシーリュウにとって、強く優秀であることだけが生きる意味、存在証明だった。
そうでなければあの家で生きていくことはできなかった。父に殺されていた。
父の望みを叶えるための道具としてどれだけ厳しく育てられようとも、たとえ父が一度もシーリュウのことを褒めなくとも、強く在れば、いつかは父に認められると信じていた――。
シーリュウは虹色に光り輝く弓を構えた。
三本の光の矢を指に挟み、番えて弓を引く。
「給我大羿的力量 ――!」
口上を述べ、シーリュウは矢を放った。
放たれた三本の矢は一つ一つが三つの光に分かれ、合わせて九本の光の矢が蛇の魔物に向かって飛んでいく。
魔物はそれに怯むことなくシーリュウに向かって進んでくる。
九本の矢は魔物の体に次々と突き刺さり、その巨体を抉り取って黒い血が吹き出す。
■■■■■――!
声にならない声を上げながらも魔物は止まることはない。体に九個も大穴を開けられたにも関わらず、だ。
一回手傷を追わせてしまった以上、もう殺すしかなくなった。
饕餮号でも守り切れないほどの瘴気だ。短期決戦を狙うしかない。長引けば長引くほど瘴気を吸うことになる。
並の魔物なら手足を落とせば動きが止まる。しかし相手は蛇の魔物だ。体が穴だらけになっても止まらない。となると。
――斬る!
シーリュウは弓を指輪に戻すと、別の指輪を光らせた。
その光は長柄の形を取ってシーリュウの両手に握られる。
長い柄の先に分厚い鋼の刃があり、その先は三又に分かれている。三尖両刃刀と呼ばれるものだ。
シーリュウは前に駆け出し森を出た。長柄武器は森の中では取り回しが悪い。
泉に近付くほどに瘴気が濃くなる。腐敗した臭いの瘴気が鎧の中に満ちていた。
魔物は泉の上を体をくねらせて、一直線に進んでくる。
シーリュウは泉の岸に立ち、得物を構えた。
目を閉じ、全身の気を刃に集めると刃が赤く光り輝き始める。
――まだだ。
ごふ、とシーリュウは咳き込んだ。
瘴気に体が蝕まれているのも無視して、魔物が泉の腐った水の上を滑る音を聞きながら、距離を測る。
――もっと引き付けろ。
狙いは一瞬。一撃で頭を落とし、体と切り離す。
――この程度できなくて、何が武門か――!
蛇の魔物が泉を渡り、シーリュウを食うために首をもたげ、大きく口を開いた。その口から勢いよく毒霧が放たれる。その隙を狙ってシーリュウは目を開く。
「給我顕聖二郎真君的力量 ――!」
口上を述べると刃に集った光が真っ直ぐに伸びる。
それと同時に限界まで泉に近寄って蛇の懐に潜り込み、巨大な光の刃で蛇の頭を切り捨てた。
■■■■■――!
断末魔を上げながら蛇の魔物は動きを止め、体がのたうち回りながら泉に沈んでいく。
シーリュウは落ちてくる頭の下敷きにならないように後ろに下がった。
しかし、瘴気に蝕まれた体はわずかながらに反応が遅かった。蛇の血が刀を持っていた右手にかかる。
「ぐ、ああああ……っ!」
焼けた鉄をあてられたような痛みが右腕に走った。
見れば鎧が融かされている。饕餮号の守りを融かすほどの穢れた血。
ただ倒せばいいというわけではないようだ。ここに巣食う魔物は全てがこうなのか。
「は、ぁ……っ」
膝を付きそうになったが、刀の柄で何とか体を支えた。
――やることはやった。戻らねば……!
シーリュウは踵を返して駆け出した。
鎧が完全ではなくなったからか、先程よりも鎧の中に入ってくる瘴気の量が多い。
旅籠まで戻るのが先か、力尽きるのが先か。
――俺が、俺がここで倒れたら、あそこにいる者はどうなるのだ。
自分しか戦える者はいない。
自分は善人ではない。
あの旅籠にいる者たちを救いたいなどとは思っていない。
力なき者から死んでいくのが世の常だ。それは変えられない理である。
ただ、あの程度の人間を守れない無力な人間だと思い知らされるのが嫌だった。
――俺は……、俺は、強く在らねばならない……!
そして。
――何のために強く在るのか、知らねばならない……!
その思いだけがシーリュウの体を動かしていた。
「遅い……」
聖索を旅籠の周りにぐるりと巡らせたナエマは、馬小屋の中でシーリュウを待っていた。旅籠の中にいると、皆がナエマの一挙手一投足に目を向けて落ち着かないのだ。
先程から小雨が降り出している。
雨が降る前、待つついでに、と旅籠の前の広場にも魔除けの紋章を描いておいた。それが雨の中でもぼんやりと光っている。
これだけ対策を施したのであれば、そう簡単にこの守りが崩れることはないだろう。
しかし、暗闇の中でランタンの明かりだけで待つというのは心細いものだ。
先程、何やら遠くで大きな音がしていた。
――何かあったのでは。
そう思うと不安になる。
「神よ……。どうか、あの方をお守りください……」
自分を落ち着かせるためにも、ナエマは祈った。
そのとき、何かを引きずるような音がしてナエマは顔を上げた。
音がどこからしたか耳を澄ませていると、また、ざっと音がする。旅籠の前の道からしているようだった。
聖索の守りの外に出るのは勇気が要ったが、見るだけだ、と自分を奮い立たせる。
ナエマはトランクの中から光を放つ硝子玉を取り出し、地面に叩きつけてそれを割った。すると割れた硝子の中から光球が現れて宙に浮かんだ。
それを確認すると道に出る。光球はナエマの後をついてきていた。
辺りを見回すと、誰かが道の真ん中に倒れていた。
ナエマは慌てて駆け寄ると、それが傷を負ったシーリュウとわかった。
「シーリュウさん! どうしたのですか!」
ナエマはシーリュウを抱き起こすと、肩を貸して急いで旅籠に戻った。
ナエマが旅籠の戸に手をかけようとすると、シーリュウは息も絶え絶えの声で言った。
「中、入るな……。皆、怖がる……」
確かに、皆魔物が倒されたと安心して寝入っているのだ。そこに怪我をしたシーリュウを見ると混乱が起きるかもしれない。
ナエマは馬小屋の藁の上にシーリュウを寝かせると、改めてその体を見る。
服の右袖が焼け落ちたようになっていて、右腕自体も血に塗れ、ひどい火傷のように爛れている。
「魔物の、血、浴びた……、が、は……っ!」
言ってシーリュウは咳き込み、口から血を吐き出す。
「魔物の血を……? 少し待っていて下さい!」
ナエマは水の入った手桶を持ってきた。納屋を覗いたら桶だの甕だの色々と物があったので、水を入れられそうなものには全部水を入れて聖水を作っていたのである。
「魔物の血なら、これで何とか……」
言いながらナエマはシーリュウの右腕に聖水をかけた。
「ぐ、う……っ!」
右腕にこびりついた魔物の血が聖水によって蒸発する。魔に侵されつつあったシーリュウの腕は聖水の力に痛みを感じるようになっていた。
シーリュウは声を殺して痛みに耐える。
魔物の血が洗い流されると、シーリュウも楽になったのか呼吸が元に戻っている。
「大丈夫ですか?」
「腕、平気……。でも少し、瘴気、吸った……」
「で、ではこれも飲んでください!」
ナエマはトランクから聖水の入った小瓶を取り出すと、シーリュウを抱き起こして少しずつ飲ませた。
やがて聖水を全部飲ませると、ナエマは不安そうにシーリュウのことを見た。
「……ああ、楽になった。寝たら、元に戻る」
シーリュウに言われて、やっとナエマは安心した。
シーリュウをまた寝かせてやると、ナエマは尋ねた。
「外の様子はどうでした」
「南の窪地、毒の泉あった。魔物の巣。そこから魔物、力を得ている。強い魔物、いる。何とか倒したが……」
言ってシーリュウは宙を睨む。
「毒の、泉……」
ナエマは息を呑んだ。
いくら魔物を倒したとて、根元を断たねば状況は好転しないということだ。
ここには結界が張ってあるから魔物の侵入は防げるが、いつまでも立てこもっているわけにもいかない。食料もわずかだ。
飯もろくに食えず、外には魔物がうろついている。その状態で皆はどれほど正気でいられるか。長くはないだろう。もって一日か二日。
シーリュウは右手を前にかざし、指輪を見た。ひびが入っている。しかし、それを接ぐように赤い光が灯っている。
饕餮号には多少の損壊を自分で修復する力がある。特に魔の力には強い。一旦装甲が融かされたとはいえ、時間が経てば戻るだろう。
シーリュウは手を胸に置き、ナエマのほうを見た。
「ワタシ、戦う力しかない。あの泉どうにかする。お前の力、必要」
「私の、力が……」
ナエマは震える声で言った。
「お前の力、魔を祓う。今使わないで、いつ使う」
シーリュウの言うとおりだ。
ここで皆を救えるかは自分にかかっている。
ナエマは確かに魔に侵されることのない、神の寵愛を受けた人間である。
だが不死身というわけではない。
魔物の鋭い牙で体を食いちぎられでもしたら。そう思うと体が震える。
だが目の前のシーリュウは、たとえここにいる人間を見捨てたら寝覚めが悪いという利己的な理由でも、自らの体を危機に晒して戦った。
その覚悟が、まだできない。
その覚悟さえ――。
「まだ迷うか、臆病者」
シーリュウの言葉は叱責のようだったが、子供に言い含めるような柔らかい言い方であった。
「誰だって痛い、嫌だ。死ぬ、もっと嫌だ。でも、ワタシ、こんなところで死ぬ弱い人間思われる、絶対に嫌だ」
「っ……!」
ナエマはシーリュウの言葉に息が詰まる。
シーリュウは使命だの良心だのとそういう話をしていない。
一人の人間として譲れぬ矜持の話をしている。
ナエマはどうだ。
このままシーリュウ一人に全てを任せて、危険な目に遭わせて、最悪、彼が死ぬことになってものうのうと生き延びるつもりか。
その犠牲の上で神の寵愛を受けたなどと言うつもりか。
それで悪魔に復讐するなどと嘯くつもりか。
「や、やります……っ!」
ナエマは断言した。
「私にだって、譲れないものくらい、ある……!」
そうだ。悪魔を討伐するのに魔物風情に怖がっていてどうする。
聖職者でありながら、目の前で困っている人間を助けられなくてどうする。
いつまで逃げているつもりだ。
逃げてばかりでは何も掴めない。
自らを危険に晒してこそ何かを得られるのだ。
ナエマは自らを奮い立たせるように拳を握りしめた。
「……よく言った」
言ってシーリュウはナエマの手に自分の手を添えた。
「ワタシ、何があってもお前、守る。饕餮号、人を守るため作られた。たった一人守れなくて、この鎧纏う資格、ない」
「シーリュウさん……」
何がそこまでこの男を駆り立てるのか。
武門に生まれ、育てられた。それだけで説明できるものなのか。
シーリュウの話を聞いていると、どこか危うさを感じる。
跡取りとしての厳しい教育を受け、父に役立たずと言われ、弟が跡継ぎになり、家も国も捨てた。彼はそこで生きる目標、意味を見失った。
その上で、彼は問い続けている。自分が何のために力を持ち、何のために力を振るうのか。何のために生きているのか。
周りに頼れる人間もいない。帰るべき場所もない。だから苦しくとも前に進み続け、その答えを追う道しか選べないのではないか。そんな危うさをナエマは感じた。
「……ナエマ。礼する、言った」
シーリュウが初めて自分の名を呼んだので、ナエマは戸惑いながら続きを聞いた。
「は、はい! 必ずお礼をいたします!」
ナエマが答えると、シーリュウは安心したように目を閉じた。
「シーリュウさん!」
シーリュウがこのまま死んでしまうのではないかと焦り、ナエマはシーリュウの名を叫んだ。
「うるさい。疲れた。眠い、だけ……」
今にも寝入ってしまいそうな声でシーリュウは答える。その言葉にナエマはほっと胸を撫で下ろした。
「柘榴……、腹一杯食べたい」
それだけ言うとシーリュウは静かに寝息を立てて眠ってしまった。
「まったく、あなたという人は……」
ナエマは苦笑した。
命を懸けて戦って、その見返りが柘榴だけとは。どれだけ欲のない人間なのか。
それに、今はまだ夏だ。柘榴の採れる秋まで時間がある。果たしてそれまで待ってくれるというのだろうか。
ナエマは法衣を脱ぐと、シーリュウの上にかけてやった。
「……神よ、どうか、私だけではなく、この方にも恵みを与えてください」
ナエマはメダルを手にそう祈った。
いつしか雨は止み、雲の隙間から月が覗いている。
その祈りを月だけが聞いていた。
――寄るな! 役立たずが!
父はそう言って俺を突き飛ばした。
――お前など生まれたときに殺しておけばよかった! この忌み子が!
申し訳ありません、父上。
――優れた才があって跡取りとして育てていたものの……、肝心なところでお前は私を裏切った! お前が出来損ないだったから縁談が破談になった! あの家の娘と結婚できていれば帝に取り立ててもらえたものを……!
申し訳ありません、父上。この世に生を受けて。
俺は生きていていい人間ではありませんでした。そんな人間が、今まで人として生きていられたのは、父上の慈悲のおかげです。
――お前は用済みだ。シュシャオを跡取りとする。いいな。
はい。父上がそう仰るならば。
嗚呼、俺が今まで耐えてきた全ては。
跡取りとしての教育という名のもとにあった酷い日々は、何も報われなかった。
幼い頃から泣こうが喚こうが厳しい教育を受けた。体罰など当然のように行われた。
どんなに傷を負っても、どんなに戦場で戦果を挙げようと父上は俺を認めてくださらなかった。
俺に■があったから。俺が生まれたときから不出来だったから。
父上は俺より劣っている異母弟のシュシャオを認めた。
シュシャオは俺より劣っていたとしても、ただ生きているだけで上出来だったから。
俺の生きる意味はなくなった。
もうこの家にはいられない。直に追い出されるだろう。
だったら自分で出て行ったほうがましだ。
夜に荷物をまとめ、何も言わずに家を出ようとした。
しかし。
――シーリュウ。
誰かが呼んだ気がして振り返った。
庭の廟から聞こえる。家宝が祀られているから絶対に入ってはならないときつく言われていた。今まで跡取りとして育てられていたシーリュウでさえ、中に何があるか知らなかった。
気が付くと廟の前に立っていた。
手は自然と扉に貼ってある呪符を破り、扉を開けて中に入る。
夜中であるというのに、どういう仕組みかほのかに明るい。
祭壇が赤く照らされている。
――シーリュウ。
また声が聞こえる。呼んでいる。俺を。
祭壇に目をやると、青銅の器が祀られていた。
器には饕餮の模様が彫られている。
饕餮とは、渾沌、窮奇、檮杌と合わせて四凶と呼ばれる悪神。
羊の体に曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔を持つ怪物。
財産も食物も貪り、何でも食べることから魔を食らうと、いつしか魔除けの神として祀られるようになった。
その青銅の器は異様な形をしていた。
中から二本の手が生えているのである。
虚空を掴むように伸ばした指には、真紅の光を放つ指輪が嵌められている。
美しい。今までに見たどんな上等な染物より、宝石より、夕焼けより、血より、鮮やかな赤。
何かに操られるように器に手を伸ばし、その指輪を抜き取った。
十個の指輪を手のひらに乗せて見つめていた。
そのとき、声が聞こえた。
――憎いか。
声は問うた。
父は不出来な俺を生んだ母を詰って毒を煽らせた。
父が叶えられなかった帝に仕えるという望みを俺に託し、ただ強く、優秀であることだけを際限なく求めた。
後妻の生んだ異母弟のシュシャオだけを可愛がっていた。
シュシャオは並の人間だった。悪くはないが人より秀でたところもない。
求められるままに修練を積み、勉学に励み、武勲を上げた俺よりもシュシャオを父は跡取りに選んだ。
俺の人生は何だったのだ。
母の顔も知らず、父に優しい言葉の一つもかけられず、シュシャオだけ幸せそうに笑っている。
振り返ってもいい思い出の一つもない。苦しい日々だけが続いていた。
いつか父上に認められると。そう思って耐えてきたというのに。
――憎いか。
声は再び問う。
いつしか外は雷雨になっていた。激しい雨と雷は何かが怒り猛っているようだ。
俺は指輪を一つずつ指に嵌めていった。
まるで自分に誂えられたかのようにぴたりと嵌まる。
指輪を嵌めるたびに雷鳴が響いた。
そして、残り一つになったとき。
――何をしている!
廟の入り口から父がいつものように怒鳴った。しかし、なぜか廟には入ってこない。
――やめろ! それを外せ!
そんなことを言われても。もう捨てる家族の言うことを聞き入れる義理もない。
最後の指輪を嵌めると、廟に雷が落ちた。地の底から吼えるような轟音が響く。
父がひい、と悲鳴を上げて腰を抜かした。
指輪を通して体に力が湧いてくる。
――請賜予我辟邪的力量 ――。
そう告げろと声が聞こえる。
「請賜予我辟邪的力量 」
声に従うままにそう口上を述べると、指輪が強く光り輝いて体が鎧に包まれた。
――と、饕餮号……! まだ、これを纏える者がいたというのか……! やめろ、それを纏ったが最後、気が狂って死ぬぞ!
父は饕餮号を纏った俺の姿を見てそう言った。
――憎いか。
声は三度尋ねる。
俺に何も報いてくれなかった父を見た。その顔は恐怖に歪んでいる。
――是を纏う者。才に溢れた者に非ず。憎悪を持つ者こそ饕餮号を纏うに相応しい。憎悪こそ饕餮号の力の源。西の魔境より来たる怪魔を、憎悪を以て討ち滅ぼさん。シーリュウ、お前は何を憎む。
俺は父に歩み寄った。
父は、俺を道具としてしか見ていなかった。役に立たないとわかれば用済みとして塵屑のように扱った。
俺はこれからどうすればいい。何のために生きればいい。
――憎め。憎め。その憎悪を怨敵に向け鏖殺せよ。
声が聞こえる。
俺は。
俺は、憎い。
――神の寵愛を受けたと言うからどんな奴かと思えば、とんだ役立たずだな。
また、失望された。
私の人生は失望の眼差しに晒される連続だった。
家族を失って絶望を味わい、教会に保護された。
神の寵愛を受けた御子。
そう言えば聞こえはいいが、裏を返せばそれしか取り柄がないということだ。
生まれは平民で高貴な血を引いているわけでもない。家も貧しかった。読み書きもできなかった。
一通りの祈りの言葉は唱えられても、聖典を読んだことなどなかった。
人より賢いわけでもなく、ただただ普通の人間だった。
皆は勝手に期待して失望した。神の寵愛を受けている人間はさぞ完璧な人間なのだろう。完璧な人間だからこそ、神の寵愛を受けたのだろう。そう思ったのだ。
そんなことはない。
私に聖痕が与えられたのは神の気紛れだ。
私は双子だった。しかし、同じ条件で生まれた兄に聖痕はなかった。
だから、ただの偶然に力を与えられたのだ。
悪魔に復讐すると誓って、司祭に推薦を受けて聖騎士団に入った。
できると思っていた。
悪魔を殺してみせる。そう思いながら訓練で剣を振るった。
しかし、人並みの力しか私にはなかった。私より剣の腕の立つ者は大勢いた。どんなに練習をしても彼らに勝つことはできなかった。
その時点で強い者は私を見限った。私を足手纏いと見做した。
剣の腕もない、目立った才能もないのにお偉方に目をかけられ、特別扱いされている。それが気に食わなかったのだろう。当たり前だ。聖騎士団とは戦うためにあるのだから。
そして、初めての出征。
悪魔の放った魔物と戦った。でも、できなかった。
魔物が襲い掛かってくる。鋼の鎧を着た兵が簡単に食いちぎられる。
その光景を見ると過去の惨劇を思い出して吐いた。手が震えて剣を持てなかった。
優しい仲間は神の寵愛を受けた御子を死なせるわけにはいかないと、何もできない私を命を賭して守った。そして死んでいった。
這う這うの体で前線から逃げてきた私に皆が失望した。
いざ本物の魔物や悪魔と戦う事態になれば本領が発揮できると信じていたのに。仲間に守られながら何もできなかった。
――役立たず。
その言葉を甘んじて受け入れた。そうするしかできなかった。
神の寵愛を受けた御子は戦場で役立たずだった。その噂はすぐに広まった。
聖騎士団の皆の視線が痛かった。それに耐える心の強さもなく、聖騎士団を辞した。 私の使命とは何なのか。
私は、使命があるから生き残ったと言われたのに。
その後は司祭になるための勉強を始めた。聖痕のおかげですぐに准司祭にはなれたが、人を導く司祭となるためには多くの知識と経験が必要だった。それは一朝一夕に得られるものではない。
教会の者が皆善良な人間とは限らない。
ある者は私に間違った知識を教えて神学の席で恥をかかせ、ある者は民に私が神の寵愛を受けた者と知らせ、聖典の引用を頼み、それができない私を嘲った。陰口を叩くのが可愛いくらいの扱いを受けた。
私は特別かもしれないが、特別なのは神の力であって、私自身が優れているわけではない。
ただの無能が、聖痕があるからと特別扱いされているから気に食わない。
それは聖騎士団を抜けても同じだった。
私にできるのはただ耐えることだけだった。どんなことをされても明るく、理想の聖職者として振舞い、何もなかったかのように過ごすこと。だって、教会を追い出されたら私の全てが否定されるのだから。私から神の力を取ったら何も残らない。
私は教会の中でしか生きられない。たとえそこが針の筵であろうと。
神は何のために私に力を授けたのか。
神は答えてくれない。沈黙を返すのみだ。
自分で意味を見出せというのか。
それは強い者だけが行えることだ。私のような弱い者が、どうして答えのない命題を追えようか。
弱い私は問い続ける。
神よ。なぜ私に力を与えたのです。
神よ――。
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