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第3話

 ナエマが目を覚ますと、辺りは霧に包まれていた。  そうだ、シーリュウの様子が心配で隣で寝ていたのだったと思い出す。  しかし寝ていたはずのシーリュウの姿はない。  シーリュウにかけてやった法衣が今度は自分にかけられている。  ナエマは立ち上がり法衣の埃を払って袖を通すと、シーリュウを探しに行こうとした。  空模様は今にも泣き出しそうで、暗雲が垂れ込めている。  そのとき、旅籠の主人が司祭様、と呼びながらナエマのほうに寄ってきた。 「司祭様、こんなところに……。申し訳ありません、魔物がいなくなったと聞いて気が緩んでしまい……。部屋も用意できずに申し訳ありませんでした」 「いいえ、構わないですよ。私は特別扱いされるために司祭になったのではありません。女性に子供、弱った人からよい部屋を使うべきです。それに、寝ている皆様の邪魔をしないように外で神への祈りを捧げていたのです。気になさらないでください」 「そう言っていただけると、助かります」  ぺこぺこと頭を下げる主人の相手もそこそこに、ナエマはシーリュウを見なかったかと尋ねた。 「シーリュウ? あの異国人ですか」 「ええ」 「見ませんでしたが……」 「一体どこに行ったのでしょうか。探してからそちらに向かいます」  言ってナエマは旅籠の周りを歩く。  すると、裏の井戸で顔を洗っているシーリュウを見つけた。さすがに顔を洗うときは仮面を外すようだ。井戸の縁に置かれている。  そういえば、シーリュウは何故顔の半分を覆う仮面などつけているのだろう。  華美な装飾を好む男には見えないので、かっこつけのためではないだろうが。 「シーリュウさん、ここにいましたか」  ナエマが声をかけると、シーリュウはびくりとしたように体を強張らせた。  そして慌てて仮面を取ろうとして手を伸ばし、井戸に落としてしまう。 「あっ……」  シーリュウは珍しく慌てたように声を漏らし、呆然としたように井戸の中を見ている。 「シーリュウさん?」  ナエマが心配してシーリュウに近寄った。 「み、見るな……!」  言ってシーリュウは顔の右側を手で覆い、後退った。その声は震えている。 「わ、ワタシの顔、醜い。見るな……」  シーリュウは俯いてしまう。 「外見など些細な問題です。私はシーリュウさんの心が善良だと知っていますよ」 「……これ、見てもか」  言ってシーリュウは顔から手を放し、顔を上げた。  シーリュウの顔の右半分には大きな痣があり、さらに刃物で何度も斬りつけたような傷があった。  思っていた以上の顔の有様にナエマは微かに目を見開いた。これを隠すために仮面をつけていたのか。隠すのはこの痣を恥じているからだろう。 「醜い、思ったか。お前の痣、神に愛された証。でも、ワタシの痣、違う。この痣のせいでワタシ、父に見放された。ワタシの顔、醜かったから。これのおかげで宮中に上がる、できなかった。謀反起こす悪逆人、そう言われた。何もできない顔のいい弟、家の跡取り、なった」  シーリュウは自嘲するように言う。 「いえ、醜いなど。そんなことは」  言ってナエマは微笑み、シーリュウに歩み寄る。シーリュウは距離を保つように後ろに下がった。 「あなたの父も、周りの方も、何も見えていなかったのですね。あなたは何も悪くありません。悪いのは、顔に痣がある程度でシーリュウさんを見限った周囲の人間です。どんなに優れた美貌の持ち主でも、心が醜悪ならば意味がない。どんな外見をしていても心が善良であり、正しきことを行える。それが一番大事なのです。あなたの父はそれがわからない、目が曇った方だ」 「しかし、父は私を生かした! この痣、家に災いもたらす忌み子、幼いうちに殺せと占い師は言った。今生きている、父のおかげだ。だから、父に報いなくては……」 「シーリュウさん!」  なおも食い下がるシーリュウに、ナエマは大きな声でシーリュウの名を呼んだ。その声にびくりとしたようにシーリュウは体を強張らせる。 「あなたは家も国も捨てたのでしょう。過去のことに囚われる必要がどこにあります」 「っ……!」  シーリュウは何かを言おうとして口を開いたが、言葉が出ることはなかった。 「神の名にかけて誓いましょう。他の誰があなたに何を言おうと、私だけはあなたの味方です。私はあなたの本当の姿を知っている。あなたは人を愛する心を持っている方だ」  ナエマは自身の右手の甲に手を添えて言った。 「違う、ワタシ、そんな人間では、ない……。ワタシ、憎むしかできない、弱い人間……」  シーリュウはナエマの言葉を否定するように首を振った。 「いいですか、シーリュウさん。究極の愛とは自己犠牲。命を差し出す献身。他人のために自分の命を捨てることです。ここにいる人たちはあなたとは何の関係もない。血を分けた同胞でも、同じ神を信じているわけでも、同じ国にいて同じ大義を掲げているわけでもない。そんな人たちを、あなたはこれから命を懸けて救おうというのですよ。これを愛と呼ばずに何と呼ぶのです」 「……愛など……。ワタシ、憎いだけ……」  ナエマはさらに一歩進んだ。 「あなたは何を憎んでいるのです。あなたは立派な人間だ。何かを憎まなくても、一人で立って生きられるでしょう」  ナエマに言われ、シーリュウは苦しむような顔を見せる。 「ワタシ、自分、憎い……! 痣さえなければ、父さえいなければ、そう呪うしかできない弱い自分、憎い……! 何も考えず、ただ父の求めるよう生きる、それしかできなかった。自分で考え、どう生きる、決める。それさえ出来ていれば、全て赦せた……! 痣も、父も……!」 「シーリュウさん……」  この期に及んで何を言うのだ、この男は。  ナエマはそう思うしかできなかった。  痣があったから父に見捨てられた。痣も父も呪ったというのに、自分の生きる道を自分で定められていたなら、全てを赦せたはずだとシーリュウは言ったのか。  ただ強く、覚悟が決まっているだけではない。  己の力の使い道を見定め、何のために生きるのかを問い続ける。そして、自分を害した全てを赦す。その境地に至ろうというのか。  その精神の在り方が、何より眩く美しいものだとナエマは思った。 「シーリュウさん。私は子供の頃に教会に保護されてから、ずっと教会の中で生きてきました。しかし、教会に所属している人間でも善良な人間というのは一握りです。その方々でさえ、怒り、妬み、嫉み、強欲、差別の心を持っている。それらと決別している人間には出会ったことがない。誰もが心の中に悪を飼っている。無論、私もです。そして、それらを手放すことなど無理だと思って見ないふりをして生きている。全てを赦す心を持つことが神の教えのあるべき姿だとわかっているはずなのに。でも、シーリュウさん。あなたは何にも頼らず一人でそれを為そうとしている。今まで会った誰よりも誇り高い人です。皆があなたのように高潔で正しい行いができていたら、この世はもっとよいものであるでしょう。どうか、自分を恥じないでください。憎いなどと思わないでください。あなたは誰より美しい心を持っている」 「ワタシ、は……」  ナエマの言葉を信じられないというような目でシーリュウはナエマを見ている。 「これは、少しいけないことなのかもしれませんが」  ナエマは気が咎めるのを隠すように咳払いをして言った。 「神のためではなく、あなたのために戦いましょう。私があなたを守ります。その高潔さに敬意を表して。あなたはこんなところで死ぬべき人間ではない。もっと大きな使命があるはずです。そのために、あなたは強い力と美しい心を持っているのです」 「…………」  シーリュウは黙ったまま俯いている。 「はっはっは。なんて、私があなたを守ると言ったところで足手纏いかもしれませんが。しかし、やれることはやりましょう! 私とてまったく力がないわけではありません!」  言ってナエマは照れ隠しのように頭を掻いた。 「ふっ……」  シーリュウが笑ったような気がして、ナエマはシーリュウのほうを見つめた。しかし、その顔はいつもの仏頂面に戻っていた。 「お前がワタシ、守る? 逆。ワタシがお前、守る。お前、戦うできない。ワタシ、武人。戦うのが役目。いくら魔物倒しても、泉どうにかしないと意味ない。お前、一番大事。それに、約束忘れたか。柘榴、腹一杯食わせる。絶対守れ」  言ってシーリュウはそっぽを向いた。  シーリュウが元の調子に戻ったようで安心してナエマも安堵の笑みを浮かべた。 「ところでシーリュウさん、体の調子はいかがですか?」 「……体、平気」  シーリュウが言うのと同時に、ぐう、と腹の音が鳴った。あまりに場違いな音にナエマの反応が遅れる。 「ち、違う、今のは……」  シーリュウが慌てて弁解するのを見て、今の腹の音はシーリュウのものだったか、とナエマは気付いた。 「お腹が空いているのですね」  事実を指摘されて恥ずかしいような、恨むような、そんな目でシーリュウはナエマを睨んでいた。 「ははは、私も昨晩は食べそびれまして。お腹が空いているのです。少しでも何かを腹に入れましょう」 「……その、頼み事、ある」  シーリュウはどこか言いにくい様子でナエマに告げた。 「頼み事、ですか?」 「ワタシから、言いにくい。お前が言う、いい」 「はあ……。それで、どんな頼み事なんです?」  ナエマが尋ねると、シーリュウはおずおずと口にした。  旅籠に入ったナエマとシーリュウは、一晩中身を寄せ合って体を休めていた者たちの視線を一気に受けた。その大半はナエマが来たから安心した、というものだった。 「今食事の支度を……。あなた方が魔物を倒してくださったからもう安全だ。すぐに街に買い付けに行かねば」 「ご主人、そして皆様方。お伝えせねばならないことがあります。聞いていただけますか」  主人が厨房に向かうのをナエマは止めて、部屋にいる人間に向けて言う。  皆がナエマが何を言うのかと静かに待っている。 「皆様、落ち着いて聞いてください。この付近にはまだ魔物がいます」  何だと。何ですって。怖い。まだいるってのか。  ナエマの言葉を聞いた人は一様にそのような反応を返した。しかし、一晩ゆっくりと休んだからか混乱には陥っていない。不安げにナエマを見つめている。 「ここから南の窪地に穢れた泉があり、そこから魔物が発生しています。その泉を何とかせねば、いくら魔物を倒してもきりがありません」 「ど、どうするんです……」  困惑した様子で主人は尋ねる。 「はっはっは、安心してください! 私は魔を祓うことが得意なのです! 昨晩のうちに旅籠の周りに聖索を巡らせ、魔物が入ってこられないよう守りを固めました! そして、私がその泉を何とかしてご覧に入れましょう!」  ナエマは皆を安心させるようにあえて大きな声で笑ってみせた。  そして、一歩後ろに下がっていたシーリュウの肩を掴んで前に出す。 「な、何する……!」 「この方、シーリュウさんは魔物退治の専門家です! 皆様も魔鎧の噂は聞いたことがあるでしょう。シーリュウさんも強力な魔鎧をお持ちなのです! 昨晩も危険を冒して森を探り、毒の泉を発見し、ついでに強大な魔物を倒したほどの猛者! 私とシーリュウさんがいれば、皆様は何も心配することはございません!」  ナエマが言うと、皆はシーリュウのことを期待に満ち溢れた目で見つめた。  シーリュウはそんな目で見られるのが嫌なのか、視線から逃げるように顔を逸らした。逃げ出したかったが、ナエマががっちりと肩を掴んでいるので逃げられなかった。 「我々は準備ができ次第、その泉に向かおうと思っております。そこで皆さんに一つだけ、協力していただきたいのです」 「協力、と言いますと……」  主人が問う。 「はい、シーリュウさんにいっぱいご飯を食べさせていただきたいのです!」  卓に何枚もの皿が並べられ、その上にはパン、干し肉、チーズが山と盛られている。  貯蔵が少ないとはいえ、この旅籠にいる全員の一食分全てを集めたのだから相当な量だ。  シーリュウはただ目の前の食べ物を口に入れる絡繰仕掛けのように、一口大に千切っては口に入れ、咀嚼し、飲み込むのを繰り返していた。 「大丈夫なんですか? 司祭様」 「彼が必要と言っているのです。従うのが一番でしょう」  主人が不安げに尋ねるのを、シーリュウの向かいに座るナエマは自信たっぷりに言い切った。そう言われると主人も何も言えず、ただ貴重な食糧をもりもりと食べているシーリュウを訝しげに見てから去っていった。  そして、ナエマも少しだけ眉を寄せてシーリュウを見つめていた。  主人にはああ言ったが、実のところナエマも心配なのである。  ――饕餮号(とうてつごう)、元に戻す、もっと力出す、沢山食べる、必要。  シーリュウはそう言っていたが、ここに残っている食料のほとんどを本当に食べていいのか、と不安になる。もし失敗したら無駄に食料を消費しただけだ。  何としてでも毒の泉の浄化、魔物の退治を成功させなければならない。  シーリュウはその細い体に半分ほどを収め、杯から水を飲んだ。 「……饕餮、悪い神の名前。饕、財産食らう。餮、食料食らう。何でも食べる猛獣。でも、何でも食らう、魔も食らう。今は魔除けの神」  ナエマの視線の意図に気付いたのか、シーリュウはそう話した。 「だから、食べれば食べるほど、饕餮号、力出る。……お前とワタシ、駄目だったら全員死ぬ。今できること、やる。それしかない」 「ええ、そうですね」  言ってまた食べるのを再開したシーリュウにナエマは頷いた。  この攻勢に全てを賭けるのであれば、残りの食糧の心配をしても意味がない。失敗すれば全員死ぬ。成功すれば全員助かる。それだけだ。  やがてシーリュウは全てを腹の中に収めた。その細身の体の中のどこにあの量の食料が詰まっているのか。  シーリュウの提案で、馬を持っている商人達は旅籠の道を東西の二手に分かれて近隣の街に助けを求めることにした。  シーリュウとナエマが泉に手を出して、シーリュウがそこに集まる魔物を倒しているうちに森を抜けようというのだ。  それならば、最悪二人が死んだとて他の誰かが助けに来るだろう。  ナエマは今の状況を手紙に書き、商人達に預けた。これを教会に見せれば話が早いはずだ。 「では、行って参ります! 必ず戻ってきます!」  ナエマは皆を元気づけるように笑って旅籠を出た。シーリュウもその後に続く。  ナエマは聖索の守りと広場に書いた魔除けの紋がちゃんと働いていることを確認して頷いた。 「請賜予我辟邪的力量(我に魔を退ける力を与え給え)――!」  シーリュウはそう口上を述べ、饕餮号を身に纏った。  融けた右腕は直っており、昨晩見たときより気迫が増しているように思える。 「すごい!」  後ろから少年の声がして、二人は振り返った。  旅籠の扉からクレルが顔を覗かせており、二人のもとに駆け寄ってくる。 「シーリュウのお兄さん、その鎧かっこいい! 魔物倒してくれる?」  目をきらきらと輝かせているクレルの頭をシーリュウは撫でた。 「ああ。必ず倒す」 「ナエマのお兄さんも、シーリュウのお兄さんも、絶対に戻ってきて!」  クレルの言葉に二人は頷き、歩き出した。 「これが、毒の泉……」  二人は泉が見えるよう木の上に登り、枝の隙間から泉を目にしてナエマは慄いた。シーリュウも驚いていた。  夜に見た泉は夥しい魔力で白く光っていたからわからなかったが、こうして昼間に見てみると、泉というよりなんとも毒々しい真っ黒な泥沼が広がっている。  遠く離れていても瘴気の放つ腐臭が漂ってくる。 「ナエマ、瘴気、吸って平気か」 「ええ。私は瘴気を吸っても何ともありません。シーリュウさんは?」  ナエマに問われてシーリュウは問題ないと頷いた。  沢山食料を食べて力を溜めたおかげで饕餮号の守りも強くなっているようだ。鎧を通して瘴気が入ってくることはない。これなら長時間戦っても支障はないだろう。  二人は遠くから泉を観察した。  すると、異変に気付く。  地の底から響くような唸り声が聞こえる。  何だ、と警戒しながら見ていると魔物が一匹、二匹と泉のほとりを走っていく。 「魔物は昼間は大人しいはずなのに……」  ナエマが言う。  言った直後、目にした物を見て二人は固まった。  蛇だ。  白い大蛇の頭が地を這っている。  口を大きく開けて威嚇をしながら魔物を追っていた。 「まだ、生きている……」  昨晩首を落として殺したはずの蛇が頭だけとなっても生きているのを見て、シーリュウは息を呑んだ。  蛇の頭は毒霧を吐いて魔物を動けなくすると、その魔物を丸呑みにした。 「魔物が、魔物を食べるなんて……」  信じられないとナエマは言い、吐き気を抑えるように手で口を覆った。  そして蛇の頭がどくり、と脈打っているのが見えた。 「よくない気配、する。あの蛇、先倒す。他の魔物、あれに比べたら小物」 「それはそうでしょうが……。大丈夫なのですか?」 「大丈夫でなくとも、やるしかない」 「……そうですね」  覚悟の決まっているシーリュウに勇気づけられるように、ナエマも頷いた。  シーリュウはナエマを連れて木から飛び降りる。 「ワタシ、あの蛇の注意引く。その隙にナエマ、泉清める。できるか」 「やってみせます。私に祓えない魔はありません」  ナエマはシーリュウの顔を見据えて言った。 「いい返事だ」  言うとシーリュウは歩き出した。  ナエマはその頼もしい背を追う。  すると、蛇から逃げてきたであろう魔物がこちらに向かってくる。垂れた豚の頭に水牛の体、山羊の角を生やした魔物だ。  シーリュウは指輪を光らせ、その光は方天戟――槍の穂先に月牙と呼ばれる三日月状の刃が両側についた武器の形をとった。  シーリュウは戟でその魔物を一閃して切り捨てた。  真っ二つになった魔物の死体はその場に力なく倒れた。  そうして泉に近付くまでにシーリュウは何体も魔物を殺していく。赤子の手を捻るように容易く。  この調子なら上手くいくのではないか。  そう思いながらナエマは泉のすぐそばまで近寄った。  そのとき、蛇の頭が二人のすぐ前を通り過ぎる。蛇はこちらに気付いておらず、毒を吐きながら魔物を追いまわしている。  気付かれないように気配を殺して蛇の動向を窺った。  蛇はまた一匹魔物を食らった。  そして、再び蛇の頭全体がどくりと脈打つ。 「あ、あれは悪魔になる寸前かもしれません……。早く倒さないと泉を清めるどころの話では……」 「わかった。早く倒そう。……ナエマ」  シーリュウはナエマの名を呼んだ。 「何ですか?」 「これを」 言ってシーリュウは黒塗りの鞘に収まった匕首をナエマに渡した。 「東方のナイフ……、ですか?」  ナエマは鞘から抜き、真っ直ぐに鍛えられた刃を珍しそうに見る。 「これ、饕餮号の一部。これ無事なら、私も無事。お前ほどではないが、魔を退ける力、ある。いざというとき、使え」 「わ、わかりました」  刃物を持つのに慣れていないナエマは刃を鞘に戻し、おっかなびっくりという様子で匕首を眺めている。 「必ず返せ」 「は、はい! 必ず!」  ナエマの返事を聞いてシーリュウは頷き、蛇の頭に向かって駆け出した。  鎧越しではあったが、ナエマにはシーリュウが笑ったように見えた。  蛇の背後に迫ったシーリュウは弓を手に取り、真上に大きく跳躍して弓を引く。 「給我大羿的力量(大羿の力を与え給え)――!」  その叫びと共に放たれた真紅の矢は、九本の光の螺旋となって蛇の頭を穿つ。  ■■■■■――!  蛇の頭は悲鳴を上げる。 「っ……!」  シーリュウは蛇の頭の異変に息を呑む。  矢によって穿たれた大穴を塞ぐように肉が盛り上がり、鱗、脳、筋肉、眼球、牙がみるみるうちに再生していく。  死角を突いたとてすぐに再生されるのならば、一体どう倒せばいいというのか。  今の饕餮号は七割ほどの出力だ。全力であれば今以上の威力の矢も放てようが――。  否。  ないものを考えても仕方がない。今できることを考える。  着地際を狙われないようもう一度矢を放ち、蛇が再生している間に地に降り立った。  ――時間稼ぎならば、このまま弓で攻撃して再生させ続けるが上策か。  しかし、いずれはとどめを刺さなくてはならない。どう倒す。  シーリュウは駆け出し、今度は目を狙って矢を放つ。  向こう側が見えるほど見事に貫通した穴でさえすぐに塞がってしまった。  ――再生にも力を使っている。削れているはずだ。  シーリュウはナエマから遠ざかるように、そして蛇とも一定の距離を取りつつ戦いを続けた。  ナエマはシーリュウが蛇の頭の注意を引き付けているのを確認すると、泉のほとりに立った。  真っ黒な泥がふつふつと泡立ち、鼻の曲がりそうな腐った臭いのする瘴気を発生させている。  ――これを本当に浄化できるのか?  そんな考えが頭を過ぎる。 「い、いえ! シーリュウさんにできると言ったのです! やります!」  言ってナエマは自分に喝を入れるように頬を叩く。  そして、改めて近くで泉を観察する。  ただの泉が突然こんなに汚染されたりはしない。何か原因となるものがあるはずだ。  それさえ何とかすれば浄化できるはずである。  ナエマはシーリュウと離れるように泉のそばを走った。  身軽に動けるように荷物は最低限だ。悪魔祓いの道具が沢山詰まっているトランクには頼れない。  首にかけたメダル、帯、腰のポーチには聖水を入れた小瓶がいくつかと、聖索。先程シーリュウにもらった匕首。  これだけで為すべきことをするのだ。  泉を観察しながら駆けていると、瘴気の放つ腐臭とは違った臭いが鼻を掠める。腐った卵のような臭いだ。 「硫黄の臭い……? なぜこんなところに……」  そして、少し先に黒い大きな岩のようなものが泥から顔を覗かせている。そこから一段と濃い瘴気が立ち上っていた。  あそこに何かがある。ナエマは確信した。  近付けば近付くほどに硫黄の臭いも強くなっている。  岩に一番近いところまで辿り着いたが、濃い瘴気のせいで視界が利かない。  そのとき、近くの森の中で何かが吼えた。 「なっ……!」  薄暗い森の中で魔物の目が妖しく光っている。  駄目だ。逃げられない。魔物から走って逃れられるわけがない。  このままでは魔物に食われる。  しかし、――!  ナエマは一か八か泉に足を踏み入れた。  ナエマに触れた泥はじゅう、と音を立て、白い煙を上げながら蒸発していく。  この泥すらナエマを侵すことはできなかった。  一歩が重い。泥というには粘り気が強く、まるでタールのようだ。  何歩か進んで後ろを見ると、泉の縁で魔物がナエマを見ながら唸っていた。泉には入れないらしい。  それを見て安心したナエマは岩に向かう。  泉の向こうでは蛇の頭とシーリュウが戦っている。  早く終わらせたいのに、この泥の中では思うように進めない。 「早く、早く行かなければ……!」  ナエマは一歩ずつ進んでいく。  そしてやっと岩に辿り着き、その上に登った。  近くで見ると黄色い硫黄の結晶が黒い岩の表面についている。それを確かめるように手で触る。 「岩ではない……。これは骨だ……」  獣のものではない。黒く染まるほど穢れと呪いを溜め込んだ巨大な魔物の骨。この泉で息絶え、周囲が汚染されたのだろう。 「これを何とかすれば……!」  ナエマは膝をつき、右手の手袋を外して骨に触れ、告げた。 「神よ、偉大なるその力、ここに魔を祓うための力と光を与え給え!」  ナエマが聖句を唱えると風が起こって光の輪が広がり、煙が立ち上って浄化されていく。硫黄は溶かされ、呪いで黒く染まった骨は白くなり、泥は黄金の輝きを放ちながら本来の水の清らかさを取り戻していく。  神の寵愛を受けた御子にしか成せない奇跡の御業であった。  ――始まったか。  シーリュウは蛇の頭の向こうに光の柱が立ち、泥の水面が光り輝くのを目にした。  蛇の頭をナエマから遠ざけるようにシーリュウは後退して矢を番える。  しかし蛇の頭は突如として動きを止め、ナエマのいるほうを睨んだ。そしてシーリュウの存在を忘れたかのように泉に入り、ナエマのほうに向かう。  ――まずい……!  シーリュウは空に向けて矢を放った。  真紅の光の矢は天高くまで登ると幾重にも分かれ、蛇の上に雨のように降り注ぐ。  ■■■■■――!  蛇が声にならない悲鳴を上げる。そしてまた穿たれた穴を瞬時に再生してみせた。  その間にシーリュウは蛇を飛び越し、また真上から矢を放つが傷にさえならない。  ――何回殺せば済むというのか。  苛立ち交じりにシーリュウは蛇の真正面に着地した。饕餮号は水の上でも沈まない加護があり、泥の上でも地上と変わらずに立ち回れる。  シーリュウの背後にはナエマがいる。  これより先には行かせない。  不退転の決意を以てシーリュウは蛇の前に立ちはだかる。  その背後で水の吹きあがる音がした。  ――何が起こった。  シーリュウは蛇に対して半身になり背後を窺い、目を見開いた。  殺したはずの蛇の体がのたうち回っていた。  九つの大穴を開けて沼に沈んだはずのそれが、未だに生きていたとは。  今までは泉の泥の中に沈んでいて身動きが取れなかったのが、泥が浄化されて水になったから自由に動けるようになったのだ。  蛇の体は頭を求めて暴れている。しかし、目がないためにどこに頭があるかがわからない。  前方では蛇の頭がシーリュウを狙い、後方は蛇の体が暴れている。  ――体を狙う!  蛇の頭を放置することに不安はあったが、蛇の体のほうがナエマに近い。泉の浄化はまだ完全ではない。今はナエマを守ることを第一に考えるべきだ。  シーリュウは弓を戟に持ち替えて蛇の体に駆け寄った。  刃に気を纏わせ、赤く輝いた刃で下から斬り上げ両断する。これでもとどめにはなるまい。  斬った蛇の体の間を抜け、シーリュウはナエマの元に駆けつける。  ナエマは大きな魔物の骨の上に立って目を閉じ、祈りの言葉を唱えていた。  彼の集中を乱さぬよう声はかけず、振り返って蛇の動向を窺う。そこには信じられない光景が広がっていた。 「なっ……!」  蛇の頭が、自分の体を食らっている。  共食いですらない、自分で自分の体を貪るとは。  蛇は暴れまわる己の体に牙を立て、肉を引きちぎり、飲み込む。  その時、蛇の体がまたどくり、と脈打った。  刹那、この空間の空気が変わった。  突然冬が訪れたような寒さが体を襲う。  ナエマは覚えのある気配に祈りを止め、目を開く。そしてシーリュウを見つけ、その向こうにいる蛇の頭を目にして膝からくずおれた。 「シーリュウ、さん……。これは……、この、気配は……」 「ナエマ!」  シーリュウは魔物の骨の上に飛び乗り、ナエマの体を支える。  水の中にいるように体が何らかの重圧を受けている。  雲は一層分厚くなって空が暗くなり、ぽつ、ぽつ、と空から黒い雫が落ちてきて、やがて雨になった。  蛇の頭は心臓の拍動のように、どくり、どくり、と何回も脈打つのを繰り返している。  そして、弾けた。  飛び散る血肉の中に何かが浮かんでいる。  角を生やした山羊の頭。真っ赤な目。右半分の女の体、左半分の男の体、下半身は獣の形をしていて、蹄はあるが踵がない。爪のある蝙蝠のような真っ黒な翼に、矢印のように鋭く尖った尾。  いくつもの生き物が組み合わさった醜悪な形。  それがこの世に顕現した。 「あ、悪魔……」  ナエマは震える声でその名を呼んだ。  シーリュウは舌打ちした。体ではなく頭を狙うべきだった。この事態を招いたのは自分だ。 「ナエマ、どうすれば、あれ倒せる」 「う、ぁ……」  ナエマはただ悪魔を見て脅えている。無理もない。自分から何もかもを奪った存在が再び目の前に現れたのだ。しかし、まだやれることがあるかもしれない。 「ナエマ!」  シーリュウはナエマの肩を掴んで揺さぶった。 「シーリュウ、さん……」  ナエマはやっと我に返ったようで、シーリュウを見つめた。 「どうすれば、悪魔、倒せる」 「……あ、悪魔の心臓を、壊せば……」 「心臓か。わかった」  言ってシーリュウは立ち上がった。 「待ってください! 悪魔は魔物とは違うのです! 強さの桁が違う! 戦っても死ぬだけです!」 「では殺されるのを待て、言うか」  シーリュウはナエマを睨んだ。 「勝てなくとも、最後まで戦って死ぬ。それが武人」  ただ座して死ぬのを待てというのはこの上ない侮辱だと、シーリュウは目で告げた。  シーリュウの気迫にナエマは黙ることしかできなかった。 「ナエマ。お前、悪魔に復讐する、言った。自分に嘘吐くか」  シーリュウの言葉が突き刺さる。 「……それでもいい。誰もが強いわけではない」  それだけ告げてシーリュウは駆け出した。 「シーリュウさん!」  ナエマはその背中に声をかけるも、シーリュウは止まらなかった。  体が震える。  過去の記憶が蘇ってくる。  突然街に現れた悪魔は、街の出入り口に魔物をけしかけ人を閉じ込めた。その上で街を囲む壁の中に魔物を放った。  人々が成す術もなく魔物に食われるのを見て嗤う悪魔の声が空に響いていた。  皆が教会に避難した。しかし全員が入れるわけがない。  入れろ! 俺が先だ! 子供がいるの! 死にたくない! 助けて!  皆が生きるために叫んでいた。  自分はそのとき、運よく兄と教会の司祭の手伝いをしていたから教会の中にいた。  悪魔は教会の中に妙な奴がいると気付いた。すると教会の周りにも魔物をけしかけ、入り口から堂々と入ってきた。神を祀る教会も悪魔の前には紙同然だった。  そして、自分を見つけた。見つけてしまった。  ――そうか。お前、神の力を宿しているな。お前を殺すのは骨が折れそうだ。お前だけ助けてやろう。神に賜った力のせいでお前は生き残るのだ。その身を呪うがいい。  そして惨劇は始まった。  悪魔は人を捕えては自分の前に連れてきて、足の先から一口ずつ丁寧に食べていった。  生きながらにして体を食われる悲鳴。  牙を立てるごとにびしゃりと吹き上がる真っ赤な血飛沫。  肉がぶちぶちと千切れる音。  骨をごりごりと咀嚼する音。  腸をずるずると啜る音。  内臓の弾ける音。  その全てが頭にこびりついて離れない。  教会の司祭様も食べられた。  いつも優しくしてくれたパン屋のおじさんも食べられた。  鍛冶屋だった父の工房にいたみんなも食べられた。  針子だった母の仲間もみんな食べられた。  父も食べられた。今までに見たことのない顔をしていた。  母も食べられた。今までに聞いたことのない声を上げていた。  よく遊んでいた友人も。  自分をいじめていた年上のむかつく奴も。  そいつから自分を守ってくれた、双子の兄も。泣きながら死にたくないと叫んでいた。  みんな、みんな食べられた。街には数えきれないほどの人がいたのに、みんな。  自分は何もできなかった。  みんなが聞くに堪えない悲鳴を上げながら、少しずつ人間の形ではない肉の塊になって死んでいった。  彼らが生きていた証は何も、何も残らなかった。髪の毛一本残さず悪魔が食べてしまった。  ナエマは吐き気がこみ上げ、胃液を吐き出す。喉の奥が胃酸で焼ける。  悪魔に向かい遠ざかっていくシーリュウの姿を見ることしかできなかった。 「あ、ぁ……」  わかっている。  今ここで動かなければいけないことくらい。  ここで悪魔を止めなければ、旅籠にいる人だけではない、もっと大勢の人が死ぬ。  ――ワタシ、弱い自分、憎い……!  シーリュウの言葉が胸に過ぎる。  それは、自分も同じだ。ここから動けない自分が憎い。しかし、それ以上の恐怖が身を襲う。  ――お前、悪魔に復讐する、言った。自分に嘘吐くか。 「違う……! 嘘など……」  言ってナエマは首を振る。 「どうして、どうしてあなたは前に進めるのです……!」  シーリュウの背中に問いかけ、ナエマは思い出した。  ――神のためではなく、あなたのために戦いましょう。私があなたを守ります。その高潔さに敬意を表して。 「っ……!」  自分に嘘をつくのは、いい。自分が辛くなるだけだから。自分で作った重荷を自分で背負っているだけだから。  でも。  他人に嘘をつくのは、嫌だ――! 「守ると、言った……!」  ナエマは立ち上がって駆け出した。  悪魔は宙に浮かび、空気をかき混ぜるようにその両手を動かした。  すると、今まで森に隠れていた無数の魔物が宙に浮かんで魔物のもとに集められる。  悪魔は人の言葉ではない何かを口にすると、魔物の胸が勝手に開いて心臓が飛び出した。  悪魔はその心臓を集めて食らい、抜け殻はいらないとでも言うように泉に捨てた。清めたばかりの水が魔物の血に染まる。  それを見ながらシーリュウは悪魔に向かって駆ける。  あれと戦えば死ぬというのに、なぜだか怖くはなかった。  ただ、己の死より恐ろしいことがあった。  彼が、ナエマが死ぬところを目にすることが何よりも怖かった。初めて自分を認めてくれた人間が目の前で命を散らすのを見たくなかった。  自分は弱い。その弱さを憎み続けてきた。  自分の人生が無価値だったのは、自分で自分の価値を決めるのが怖かったからだ。  自分にこれだけの価値があると示して、他人にお前にそんな価値はないと言われるのが怖かったからだ。  父は自分の価値を認めることはなかったから。  周りの人間も武門の跡取りとして相応の扱いはしたが、武門の跡取りという肩書きがなければ自分には何の価値もない。  自分は無価値で、卑怯者だ。  彼を守るために戦って、彼より先に死んでしまえば最悪の瞬間を見ることはなくて。  何もかもを恐れてばかりの臆病者。彼を罵る資格もない。  彼に臆病者と言ったのは、自分は弱みを見せることを決して許されなかったからで。 自分を弱いと認められる強さを羨んだからで。  己が弱いとわかっていながら、心のどこかでそれを認められずにいた。だって、父に強く在らねばならぬと言われたから。強くなければ生きている意味がないと言われたから。家も国も捨てても、父の言葉が影のように離れない。  似たもの同士。同族嫌悪。臆病なナエマを見ていると、彼に自分こそが臆病者と見抜かれそうで虚勢を張っていた。  だから自分は無価値なのだ。  何も新たなものを生み出すことができないどころか、他人を妬んでばかり。  でも、まったくの無意味ではない、気がする。  自分が戦うことで彼の命が一瞬でも長くなるのなら。  あの眩しい光が少しでも長く輝くのなら。  彼を守る。そのために自分は今ここにいるのだ。  彼に美しいと言われたとき、嬉しかった。  自分の積み上げてきたものはまったくの無駄ではなくて、彼にしか見えないかもしれないけれど、そんな言葉を言わせるくらいには、きらきらと輝いていたのだとわかったから。  初めて自分に価値があると認めてもらえたから。  だから、この命は彼のために使ってしまおう。  そうすることで、やっとこの命に意味が生まれるのだ。  シーリュウは走りながら槍を手に取り、勢いをつけて空に浮かぶ悪魔に投げつける。  槍は悪魔の腹を貫通した。  そして悪魔は初めてシーリュウに気付いた、といった風に目をやった。  腹に刺さった槍を抜いて放ると、血のように真っ赤な瞳がシーリュウを捉える。  その瞳に見つめられただけで体に岩がのしかかっているように重くなる。  悪魔が手で塵を払うような仕草をすると、見えない力でシーリュウの体は弾き飛ばされた。 「ぐ、っ……」  シーリュウは倒れても意地で立ち上がった。頭を垂れろとでも言うように上から加えられる重圧に、体中の骨が軋みを上げている。  その重圧に折れず、今度は弓を手に取り、ありったけの力をこめて矢を放つ。  その矢は悪魔の上半身を消し飛ばした。  その中に、どくりと脈打つ心臓だけが残っている。  心臓を守るように下半身から肉が生えて瞬時に元の形に戻った。  ――人間にしては、やるようだ。  虫の羽音のような耳障りな声が頭に直接響く。  ――少し、戯れようか。  言って悪魔は、魔物の肉の散らばる水面に降り立った。そして何かを唱えると手に三つ又の槍が現れる。  するとシーリュウの体を覆っていた重圧も消えた。  シーリュウと同じ土俵で戦おうと言っているのである。 「舐めた真似を……!」  シーリュウは戟を手にして、その刃に赤い気を纏わせ悪魔に斬りかかった。  初撃で槍を構えようとした悪魔の両腕を斬り落とし、返す刃で足も斬った。  しかし即座に再生した悪魔は再び槍を手にする。  ――使いにくいな、手足というのは。  今までが蛇の形をしていたからだろうか。悪魔はそう漏らした。  それにも構わずシーリュウは攻撃の手を緩めなかった。付け入る隙があるとしたら、体に不慣れな今しかない。  その一つ一つが必殺のシーリュウの一撃に、悪魔は手を、足を、首を、胴体を斬られた。しかし意味はない。瞬時に元の形に戻ってしまう。  そして、悪魔はついにシーリュウの戟を槍で受け止めた。  ――まずい……!  シーリュウは間合いを取るように後方に跳んだ。  ――そうか。手足はこうやって使うのか。  言って悪魔は自分の手を見つめた。  悪魔はシーリュウとの斬り合いの中で手足の使い方を学習した。  戦いの領域が変わったということだ。  まだ手足の使い方を覚えただけだが、悪魔は手加減をしてシーリュウと遊んでやっているのだ。本気を出せば手の一振りだけで殺せるだろう。  シーリュウはごくり、と唾を呑んだ。  饕餮号は魔を討伐するために鋳造された退魔の魔甲。それが悪魔にここまで通じないとは。  ――あれをやるしかない。  シーリュウは胸の前で手を合わせて目を閉じた。  それを見た悪魔は何も言わずに首を傾げている。 「蚩尤仇恨的紅楓散去(蚩尤の恨みに染まった楓は散りゆき)紅色的旗幟飄揚(赤い旗がはためく)賜給我主戦神的力量(兵主神・蚩尤の力を与え給え)――!」  シーリュウは口上を述べる。  すると装甲が解除され、その手に戟が握られた。  その戟は今までと違い、刃だけでなく全てが真紅の光に覆われている。  体を守るための鎧の力を身体能力向上と手に持つ武器に注ぐ、饕餮号の最終手段。自らを危険に晒して力を得る背水の陣だった。  シーリュウは腰を落として戟を構える。 「――来い」  挑発するようにシーリュウは笑った。  こちらから行くのではない。お前が来るのだと、シーリュウは悪魔に命令した。  ――よく言った。  言って悪魔は姿を消し、空間を跳躍してシーリュウの前に現れると槍を振るった。  しかしシーリュウは目にも止まらぬ速さで悪魔の槍ごと腕を斬り捨てた。  ――?  悪魔は不思議そうに目を細めた。  悪魔は確かに手足の使い方を覚えただろう。  しかし、戦い方までは覚えていない。  相手の思考を読む。最適な間合いを捉える。隙を狙う。  悪魔になったとはいえ、先程まで獲物を本能のままに貪り食らうだけだった魔物は、シーリュウが、人間が千年以上かけて研鑽した術理に追いつけない。  ましてや守りを捨てて身体能力を向上させ、戟を強化したシーリュウには悪魔の振るう槍など児戯にも満たないだろう。  ――自分が強いと思っている相手ほど狩りやすいものはない。  悪魔が全力を出さず、こちらを舐めてかかっている今こそ最大の勝機だとシーリュウは悟っていた。  この攻勢で全てが決まる。  相手が警戒したら終わりだ。悪魔が本気になれば自分など跡形もなく消し飛ぶ。  その勢いのままに足を斬り落とし、下から斬り上げ胴体を左右真っ二つにする。  ――再生の追いつく前に蹴りをつける――!  そして振り抜いた戟を心臓めがけて振り下した。  しかし。  胴の切断面から生えた手によって戟が掴まれた。悪魔の手は退魔の力を持つ戟に触れて肉を焦がす。  ――何、だと……?  悪魔とは人の理を超えるもの。人に苦痛を与えて嘲うためだけに在るもの。  人間の四肢のようにしか手足が生やせない道理はない。人に害を成すためなら何でもする。それが悪魔というものだ。  ――人にしては、よくやった。  悪魔はけけけ、と笑いながらさらに手を生やして槍を持つと、横に薙いでシーリュウの体を切り裂いた。  上半身と下半身が分かたれたシーリュウの体が水面に落ちた。 「シーリュウさん!」  悪魔に体を真っ二つにされたシーリュウの姿を見て、ナエマは絶叫した。  守れなかった。  あの誇り高い人を。今までに会った誰より高潔だった人を。  何より美しく在った人を。 「お前……!」  ナエマは何も考えずに駆ける。  憎い。全てが憎い。  シーリュウをあんな目に遭わせた悪魔も。シーリュウを守ると言っておきながら何もできなかった自分も。  憎悪と憤怒がナエマの体を動かしていた。  悪魔はナエマの存在を察知し、その気配に妙な感覚を覚えた。  手を払って不可視の攻撃を与えるも、ナエマには何も起こらなかった。  悪魔の持つ力の全てはナエマには決して届かない。  ナエマは腰のポーチから聖索を取り出し、悪魔に投げつける。  黄金に光り輝く聖索は意思を持つように悪魔の体に巻きついた。聖索が触れた部分の肉が焼けている。  ――何だ、これは?  悪魔は不可解だ、というように呟いた。  そして、本能で察知した。  これは悪魔が倒すべき怨敵――神の力だと。  何故かはわからないが、駆け寄ってくる男は尋常ではない神の力を宿している。  聖索で戒められ身動きの取れない体は不利だ。  悪魔は周囲を見渡し、先程まで自分の体だった肉塊を魔力で持ち上げ、ナエマにぶつける。 「ぐ、ぅ……っ!」  ナエマは肉塊に弾き飛ばされて浅瀬に転がる。全身に痛みが走る。痛い。痛い。もうこんな思いはしたくない。  だが、それでも立ち上がって駆け出す。悪魔を殺すために。  ――なるほど。  悪魔はあの男には直接干渉はできないものの、何かを通してなら攻撃できると気が付いた。  そして今度は魔物の腸を操ってナエマに飛ばす。その腸は一直線にナエマの首に巻きついた。 「がっ……」  そのままナエマの体を持ち上げ、何とか首に絡みついた腸を解こうとするナエマの姿を悪魔は笑いながら見ていた。  ――中途半端なことをするな、神とやらは。愛するなら不死身の体でも与えてやったらどうだ。  このまま首を絞めるだけでこの男は死ぬ。どんなに神の寵愛を受けたとしても、肉体が不死でないのならいくらでも殺しようはある。  息ができない。気道を塞がれ、空気を求めて喘ぐ。  ナエマは腸を解こうとしていた手を止め、腰に手を伸ばす。そしてポーチの中からシーリュウにもらった匕首を取り出す。  鞘から抜き、むき出しになった刃を己の首に巻きつく腸に向けて突き立てる。  しかし、その刃は腸を斬る前に折れてしまった。  ――これ、饕餮号の一部。これ無事なら、私も無事。  シーリュウの言葉を思い出す。  もう、彼は――。  自分は、ここで殺されるしかないというのか。 「神、よ……。何の、ために……」  ナエマは声にならない声で口にした。 「何のために……、私に、力を、与えたのですか……!」  ナエマは神に問うた。  目の前の悪魔すら殺せないで、守ると誓った人を守れないで、何が神の寵愛を受けた御子だ。  しかし、弱い自分はこの状況から抜け出す術も持っていないのは確かだった。

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