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第1話
大切な人を傷付けてしまった。
それも、自分の手で。
――コスティ。もう、君に背中を預けられない。
この世で一番愛しい人、クルキが自分に告げる。
灰がかった青色の髪を後ろに撫でつけ、鮮やかな真紅の瞳は彼の意志の強さを表すようだ。
幼い頃に別れて以来、自分は彼の影を追うように旅をした。
長いときを経て幾重にも重なった偶然の末に再び出会い、互いに想いを伝え合った。
クルキの自分より一回り小さい体を抱きしめながら、何があっても絶対に守ってみせると誓った。
でも、自分は守れなかった。
「っ……!」
コスティは悪夢にうなされて目を覚ました。
寒気がして、心臓がどくどくと脈打っている。
目の前にはクルキが静かに寝息を立てていた。
クルキの顔は凛としていて、男とも女ともとれるような顔立ちはふとした瞬間に性別を超えた美しさを感じることがある。
今この瞬間、窓から射す月明りに照らされた寝顔も、今までに見たどんな美人より綺麗だと思う。
コスティは悪夢の記憶を頭の中から追いやりたくてクルキに触れようと手を伸ばしたが、その手は結局クルキの白く柔らかな肌に触れることはなかった。
彼を傷付けた自分なんかが触れる資格がないように思えたからだ。
クルキを起こさないようにベッドから出ると、泊まっている旅籠を出て夜風に当たった。
この旅籠は北境で一番栄えている都市のファルケンベリから北へ二つの街を越えたところにある。今周りにあるのは深い森と雪のもたらす静寂だけだ。
吐いた息が白く染まり、そよ風に流されて消えていく。
北境の、長い長い冬。
寒くて、寂しくて、心細くて、不安でたまらなくて、隣に誰かがいてくれないと耐えられない季節。
空を見て、星の並びで朝まで遠いことを知る。
今は空に散らばる星を見ても何とも思えない。
クルキが隣にいて、星を指しながら古の星座の話を聞かせてくれたときは、あんなに綺麗だと思えたのに。
こんな夜中に外に出る人間はいないとわかっていても、後ろめたさから旅籠の裏手に周り、壁に寄りかかる。
そのまま、早く朝が来ないかと待ちわびる。
こんなことをしたって何の解決にもならないというのに。
楽しかったことはすぐに忘れてしまうのに、嫌な思い出だけは頭にこびりついて離れない。
――あれは。
あれは、数日前のこと。
いつものように魔物と戦っているときだった。
クルキは自分より小柄だが勇敢で、戦うときは魔法で強化した鉄の籠手で魔物を叩きのめしている。
それに比べて自分ときたら、想い人をそんな危険な目に遭わせて後ろから矢で射ることしかできない。
戦うときはいつもクルキの背中を見ている。
魔物との戦いで傷付くことがないように。そう願いながら弓を構える。
しかし、先日の戦いで自分はやってはいけないことをしてしまった。
固い鱗を持つ魔物はクルキの打撃を受けてもなかなか倒れず、矢も弾いてしまう。クルキは仕切り直しで距離を取るために後方に跳んだ。
その隙に自分は魔物の目を狙って矢を放った。
同時にクルキも再び魔物に向かって跳躍し、魔物の動きを見越して放った矢と標的の間にクルキが割って入ってしまった。
――クルキ!
叫んでも矢の軌道は変えられない。
矢はクルキの右腕を掠めて魔物の目に突き刺さった。
眼を射られて動きを止めたクルキはすかさずとどめの一撃を放ち、魔物を殺した。
自分はすぐにクルキのもとまで走って傷を確かめた。
よく研いだ鏃がどれだけ鋭いか、その鏃にクルキの魔法で強化をかけた矢がどれほどの力を持つか、自分が一番知っている。
慌てる自分をよそにクルキはきょとんとした顔をしていた。
――どうした、コスティ。そんなに慌てて。
慌てるに決まっている。
――君の射線上に入ってしまった私が悪いんだ。それに、君の矢のおかげで魔物を倒せた。私だけでは倒せなかった。
でも。自分は、お前を。
――魔物と戦ってこれくらいの傷で済んだんだ。運がよかったと言うべきだろう。
それは魔物に傷付けられた場合の話だ。
後ろから味方に射られるのとは、全然訳が違うじゃないか。
――その、私は戦っているとどうしても視野が狭くなってしまうから……。君が周りに注意を払ってくれているから、私も安心して戦うことができるんだ。この前だって、別の魔物が近付いていることに気付いて声をかけてくれただろう。君には沢山助けられている。失敗のない人間なんていないんだ、そんなに思い詰めないでほしい。
やめろ。そんな慰めの言葉をかけないでくれ。
自分はお前を守るどころか、傷付けてしまったのに。
子供の頃も、狼に襲われたクルキを前に何もできず、大人に助けを求めに村まで走っていった。
自分はずっとクルキを守れない。
自分はクルキを守りたい、隣にいたいと思っているのに肝心なときには何もできない。
あの日以来、ずっと悪夢を見て目を覚ます。また寝ても悪夢を見るのではないかと怖くて、そのまま朝を迎える。
クルキが俺を見捨ててしまうのではないか。そんな不安がずっと離れないのだ。
クルキの纏う上着の破れた袖、その下に巻かれた包帯を見るたびに、自分の過ちをまざまざと突きつけられている気がする。
――大丈夫だ、すぐに治るさ。
クルキは優しいから自分を気遣ってそう言ってくれる。
でも、本当はどうなんだ。
今度魔物と戦って、また自分の矢がクルキに当たったら。掠めるくらいならまだましだ。魔物を殺すほどの威力を持った矢が、クルキの体を貫いてしまったら。
人間なんて簡単に殺してしまうんだぞ。
そんな過ちを犯す人間が、常に後ろで弓を構えているんだぞ。
なんで、どうして信頼できるんだ。
でも、自分は意気地なしだからクルキの本心を確かめることができない。
胃が絞り上げられるように重くなり、吐き気がこみ上げてくる。
――コスティ、少し休もう。調子が悪いんだろう。お金だって困ってないんだ。ファルケンベリに戻って、ひと月ゆっくりしよう。それくらいあれば、怪我も治る。また戦えるようになるさ。
苦しい。
クルキを守れず傷付けたどころか、気を使わせてしまうなんて。
そんなことはないと言いたかった。だが、また弓を構えることはできそうになかった。
どうしても想像してしまう。自分の放った矢がクルキの体を貫く瞬間を。
クルキと一緒にいたいだけなのに。好きな人を守りたいだけなのに。どうしてそれが叶わない。
自分がもっと強かったら。もっと別の力を持っていたら。
ちゃんと愛しい人を守ってやれるのに。
「コスティ、起きろ。街に着いたぞ」
クルキに肩を揺さぶられ、自分がいつの間にか寝ていたことに気付く。
ファルケンベリまで行く荷馬車が通ったので、金を払って乗せてもらったのだ。
その途中、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
辺りを見れば夕暮れ時で、石を高く積んだ街の外壁と、その向こうに大きな尖塔がいくつも見える。
ファルケンベリの一つ手前、北境で一番の大聖堂を抱える街であるソーラスだ。
荷馬車の主人に礼を言って別れ、徒歩の人間用の入り口に向かって街の中に入った。
こんなときに限って、街は冬至に行われる聖ヘレナ祭が近付いて浮かれている。
北境で古くから行われていた冬至祭と教会の聖人の祝福を得る祭りが合わさって、長い冬で唯一の楽しみと言っても過言ではない祭りだ。
物見遊山の人間、稼ぎ時を逃さない商人が方々から持ちよる商品。まさに人と物とがこの街に集まるときだった。
人が沢山いる大通りにいると眩暈がした。
ここ最近は人の少ない場所にいたのもあるが、ここ数日はまともに眠れていない。
それに。ここにいる人間全てが自分を責めているような気がした。
無論そんなことはないとわかっているのだが、偶然こちらを見ている人間がいると糾弾されているようで落ち着かない。
「コスティ、大丈夫か? 最近よく眠れていないようだし、早く宿を見つけて休もう」
そう言ってクルキはコスティの手をとって歩き始めた。
その自然な仕草にすらコスティは戸惑った。
己を傷付けた人間の手をどうして握れる。
しかし、鋼の籠手越しにでもその手の感触をずっと感じていたいのも事実だった。
「参ったな……」
街の中心から離れた裏通りの小さな宿の前で、クルキは溜息をついた。
どこの宿も部屋が埋まっていて泊まれそうになかった。
雑魚寝の大部屋なら空いているところもあったが、クルキがそれではコスティが休めないだろうから、と言って小さくても個室のある宿を探していたのだ。
「すまない、沢山歩かせてしまって。寒いのに……」
「俺はどこでもいいから……」
「だ、だが……」
クルキは眉を寄せて唸った。
宿が取れないことより、自分のせいでクルキが困っている。そのことのほうがずっとつらかった。
戦っているとき以外も、こうして足手まといにしかならない。
悪い想像ばかり加速していく。思考が極端になる。
もう、いっそのこと別れたほうがいい。
自分はクルキと釣り合う人間ではなかったのだ。
「クルキ、もういい……」
そう言いかけた瞬間だった。
「あれ、お前たちなんでこんなとこいんの?」
聞き覚えのある声が耳に入った。
驚いて声のしたほうを見ると、胡桃をぼりぼりと食べながらアカート・ヒペリツムスキーが立っていた。
三十代後半ほどの男で、波打った濃い金色の髪を左右に分けて、余った髪を後ろで雑に括っている。服は司祭のような紫紺の色をした詰襟の上下だった。
顎に無精ひげが生えており、一言で言えば胡散臭い司祭のような男だ。
クルキの恩師のような代書屋で、教会と専属契約を結んでいると聞いた。
アカートには一年前に随分と世話になった。
アカートの深緑の目がちらりと自分を見る。
その目が全てを見透かしていそうでどきりとする。
「あ、あなたこそ、どうしてここに……。ファルケンベリにいるのでは」
クルキが問うた。
アカートはファルケンベリの商人のキースチァと仲が良く、商館に部屋をもらっていたはずである。その商館にはクルキとコスティもアカートの知り合いだからと何度も世話になった。
「仕事でな。最近の家はこっちだ。直にジュラーヴリもこっちに来る。いやなに、上司が変わったんだが、なんだかやりにくくてよ。こうしてぶらぶらしてるってわけ」
「仕事はどうしたんです」
「今は何も頼まれてないからさぼりじゃねえぞ。お前らこそ、こんなとこでどうした」
「それが……」
クルキが宿を取れないことを手短に説明すると、アカートは眉を上げた。
「だったら丁度いい、うちに来いよ。お前らに用があったんだ」
「用、ですか? それはどんな……」
「来てからのお楽しみ」
言ってアカートはにやりと笑った。
アカートは人の少ない裏通りを通って街の東にある大聖堂まで辿り着く。
ソーラスの大聖堂はもっとも北にある司教座聖堂として有名だった。
北境に住む民には自然崇拝も未だ強く根付いており、大聖堂は教会の教えを広める最前線の砦のようなものでもあった。実際、七つある聖騎士団のうち一つがこのソーラスに常駐している。
教会、ひいては神の威光を知らしめるような大きな薔薇窓のあるファサードが目に入る。
アカートは大聖堂を脇目に進み、裏手にある聖職者しか入れない敷地まで来た。
民に広く開かれている大聖堂とは反対に、この場所は周囲を塀に囲まれていた。
アカートは入口を守る聖騎士団の衛士に通行証を見せ、二人は連れと言ってコスティ達を中に通した。
数々の建物がある中、アカートは更に奥へ奥へと進んでいく。
建物が途切れ、小さな森のように木が植えられている一角を通る。
雪かきされているから道ができていて通れるものの、誰の手も入っていなければ歩くのが困難なほど雪が積もっている。
しばらく行くと広場のようになり、三階建ての石造りの建物が木の中に佇んでいた。
「ここな。まったく、ここまで遠いんだよ……。地味な嫌がらせをしやがって」
「どういうことです?」
クルキが尋ねると、アカートはまたにやりと笑った。
「ここにいる奴らは、俺含めて教会内の嫌われ者ってこと」
「嫌な予感がしますね……」
「だろ? 帰るなら今だぞ」
「泊めてくれるって言ったじゃないですか」
「そうだそうだ、そういう約束だった」
アカートはそう言って笑い、両開きの重い木製ドアを開けて建物の中に入った。自分たちもそれに続く。
中庭を囲むように回廊があり、一番外側に部屋がある作りになっている。
回廊の柱には硝子玉が吊るされており、中にはどんな仕組みか炎が閉じ込められていた。そのおかげで、夜になりつつある今でも昼間のように明るい。
そして何より暖炉がある部屋のように暖かい。気のせいかと思ったが、中庭には全然雪が積もっていなかった。
「暖かい……」
ほっとしたようにクルキが言う。
今まで寒い街の中を歩き回って凍えた体が解れるような心地になる。
「この火のおかげですか?」
「そうだ。どこの部屋にもこれがあってな。明るいし暖かいし、これなしの生活には戻れん」
アカートは言いながら回廊を奥に進む。その先にはまた両開きの扉があった。
その扉の向こうは大きな広間だった。
青の織物の絨毯が敷かれ、応接間のように机と長椅子が置かれている。奥には大きな書斎机が据えられていた。
壁には窓と壁に貼られた地図以外を埋めつくすように棚が置いてあり、冊子や巻物がぎっしりと詰め込まれていた。
「うーっす、帰りましたー」
やる気のない挨拶をしながらアカートが入ると、こちらに背を向けている長椅子の背もたれからぴょこん、と金髪の青年が顔を覗かせた。
「あ、アカート帰ってきた! 急にいなくなるんだから……」
そこまで言ってから、アカートの後ろにいる二人に気付いて、慌てて身なりを整えて立ち上がった。
柔らかな色の薄い金髪を後ろに撫でつけており、アカートのように紫紺の詰襟を着ていた。
「ど、どちら様で……」
今までの振舞いをなかったことにするかのように、青年は改めてコスティ達を見やった。来客が珍しいのか、好奇心が隠しきれない様子である。
「俺の知り合い。宿がいっぱいで部屋が取れねえっつーから部屋貸してやろうと思って」
「ここは宿じゃないんですけど」
「人助けっていう善行だよ。ほら、自己紹介ちゃんとしろ」
「い、言われなくてもやるって! え、えーと、アウレリオ・アウジェッロです! 祓魔師 の見習いです!」
アカートに言われた青年、アウレリオは礼をして名乗った。
「は、はい。私はクルキ・ムラッティ・ルーネベリです。こっちはコスティ・コイヴ・マルヤクーシネン。昔にアカートさんにお世話になった者です」
クルキがコスティの分まで自己紹介をして頭を下げた。コスティも頭を下げる。
「へぇ、そうなんだ。い、いや、そうなんですか。アカートもいいことするんですね」
言葉遣いを正してアウレリオは言った。敬語には慣れていないらしい。
「祓魔師……? 随分長いこと名誉職でしたが、最近復活したんですか?」
祓魔師と聞いてクルキがアカートに尋ねた。クルキは一時期修道院にいたことから教会内部にもある程度詳しかった。
「言ってなかったっけ? ここ、祓魔院 つって祓魔師がいる部署。最近魔物やら悪魔が急激に増えてるだろ? それで二年ぐらい前に名前だけの肩書から、ちゃんと実のある肩書になって、祓魔師が所属する部署として祓魔院が復活した」
「今初めて聞きました。そんなところに所属してたんですか」
アカートの呆けた答えにクルキが言う。
「ま、そこら辺は俺が言うより院長から聞くのが一番だろ。院長いる? こいつら紹介したいんだけど」
「イングヴァルさんなら会議に行きました」
アウレリオはそう答えた。どうやらここの院長はイングヴァルという名前らしい。
「会議だぁ? ねちねち文句言われるだけだってのによく顔出すよなぁ。そういうとこだけは尊敬するぜ」
「イングヴァルさんは真面目なの。アカートと違って」
「はいはいそうですか。院長がいねえんじゃ明日にしたほうがいいか」
「そうしたほうがいいかも。また疲れた顔で帰ってくるから」
しゅんとした顔でアウレリオは答えた。
「じゃあ、こいつら泊める件は?」
「イングヴァルさんに紹介するんでしょ。だったらいいですよ。部屋なら空いてますし」
「あんがとさん。じゃ、上行こうぜ」
言ってアカートは二人を連れて部屋を出て行こうとした。そして、何かに気付いたように振り向いた。
「アウレリオ、ちゃんと院長慰めてやれよ」
「わかってまーす」
アウレリオの答えを聞いてアカートは部屋を出て、すぐ隣にある階段で二階に上がった。階段は上にも下にも続いている。どうやら地下室もあるようだ。
二階も一階と同じような作りだったが、一部屋が狭いのかいくつもドアが並んでいる。
「ここの部屋、好きに使っていいぞ。誰か使ってる部屋には札がかかってるから、ないとこ選んでくれ」
「わかりました、けど。あの、すごいことに巻き込もうとしてませんか?」
クルキがアカートに尋ねる。
「ざっくり言うと、人手不足なんで一人でも戦力が欲しい、と我らが院長は仰せだ」
「戦力、ですか?」
「ま、詳しいことは明日だ。今日は早く寝ろ。特にお前。顔色悪いし、隈がひでえぞ」
アカートが突然指差したので、今まで蚊帳の外だった自分はどきりとした。
答える前にアカートはさっさと階下に戻ってしまった。
残された自分たちは部屋を探し、札のかかってない部屋に入った。
中は少し埃っぽかったが、窓を開けて換気をすれば気にならない程度だ。
しかし狭く、備え付けのベッドも二人で眠れそうにない。二部屋使うしかなさそうだ。
「……じゃあ、俺は隣使うから」
そう言ってクルキの返事も待たずに隣の部屋に向かった。
荷物を書き物机の上に置き、倒れこむようにベッドに横になる。
先程のアカートの言葉を思い出して目をこする。
そんなに調子が悪そうに見えたのか。
隠せていると思っていた自分が馬鹿みたいに思えて、さらに気分が落ち込んだ。
「どうしろってんだよ……」
苛立ち紛れに一人呟いた。
「よかった、ここにいた」
クルキは部屋に荷物を置くと、階下に引き返して一階の広間に戻った。
そこにアカートとアウレリオの姿が見えたので、勝手に建物内をうろつかずに済んだと安堵した。
見ればアウレリオは机の上に分厚い聖典と蝋板を置いて、何やら勉強をしているようだ。その隣にアカートが座り、色々教えているようである。
アカートは不真面目そうに見えて何だかんだ面倒見がよく、アウレリオに何かを教えているのはかつてのアカートと自分を思い出させた。
クルキは机まで歩み寄ってアカートに声をかけた。
「アカートさん、今、いいですか」
「どうした、クルキ」
「……その」
クルキが言い淀むと、代わりとでも言うようにぐるる、と腹が鳴った。
「ああ、晩飯」
「ち、違います! 夕飯を食べたいのはそうなんですけど、それとは別に相談したいことがあって……」
クルキは恥ずかしくなりながらも、話したいことがあるのだと告げる。
「わかった。終わりにしよう、アウレリオ」
「やった!」
アウレリオは勉強から解放されて喜んだ。どうやら勉強は苦手なようだ。
この素直そうな年下のアウレリオも、どんな事情があって祓魔院にいるのだろう、とクルキは不思議に思った。
そのとき丁度仕事を終える終課の鐘が鳴ったので、アウレリオは手早く聖典と蝋板を棚に片付けた。
「じゃあ、イングヴァルさん迎えに行ってきます!」
アウレリオはそう言ってさっさと部屋を出て行ってしまった。
「あいつ、本当に院長のこと好きな。院長が甘やかすわけだ」
アカートは呆れるように言うと、クルキに向き直った。
「地下に食糧庫がある。行こう」
アカートもそれだけ言って部屋を出ようとしたため、慌ててクルキはその後を追いかけた。
部屋の脇にある階段を地下に降りる。暗い廊下も例の硝子玉に入った炎が照らしていた。
「これ、魔法ですか? 教会で魔法は御法度では……」
クルキは硝子玉の中で揺らめく炎を見ながら先を行くアカートに問う。
「これは魔法じゃない。アウレリオの作ったもんだ。生まれついて使えるもんだから能力だな。うちの方針は使えるものは何でも使え、なんでね。大体、魔法か神の奇跡かなんて誰にも証明しようがねえだろ。こっちが神の奇跡って言い張ったら、向こうは神の奇跡じゃない証明をしなきゃならねえ。だが、証明するにはまず神の奇跡を定義する必要がある。それはできねえ話だろ。アウレリオの力は神から賜った力ってわけだ」
「詭弁だ……」
「詭弁でも何でも通ればいいんだよ」
言うとアカートは近くの扉を開けて中に入った。
クルキも中に入ると冷たい空気が肌に触れる。
見れば、雑多に積まれた木箱の隙間を埋めるように人の背ほどもある大きな氷が何個も置かれていた。
「つまり、この氷も……」
「院長お手製の氷だ。院長の力は地味に役に立つんだよな」
「役に立つって。仮にも上司でしょうに」
「上司は上司だが、俺は認めたわけじゃないんでね。急にしゃしゃり出てきて全部仕切りやがって……。しかも正論なのが腹が立つ。お利口さんで優等生、まったく文句の付け所がねえ。だが、俺は院長さんの本音ってやつを聞いたことがねえ。腹の中で何考えてるかわからん奴を信用できるか」
言いながらアカートは入口近くの木箱の蓋を開け、中から林檎を見繕う。
「珍しいですね、そんなに他人を嫌うなんて。いつもはのらりくらりとかわしているのに」
「大抵はどうでもいい付き合いだからな。だが、ここに腰を据えてずっとやってくってなら話は別だ。俺にだって好き嫌いはあらぁ」
アカートは林檎を何個かクルキに渡すとさっさと食糧庫を出る。
一階に上がって回廊を歩き、今度は別の部屋に入っていった。
そこは厨房で、竈が二口、壁には調理道具がフックにかかって置かれていた。窓際には様々な薬草の束が干されている。
アカートは小さな片手鍋を手に取ると、水瓶から鍋に水を注いで竈にかけ、手際よく火を熾した。
「それで? どうしちまったんだよコスティの奴は。随分調子が悪そうだが。話したいことってそれだろ」
鍋の水を見つめながらアカートはクルキに尋ねた。
あのコスティの様子では、誰でも問題を抱えているとわかるものだ。
「喧嘩したってわけじゃねえんだろ。何をそんなに思い詰めてんだよ」
アカートの言葉に促されるように、クルキは俯いて口を開いた。
「それが、魔物を狩っているときに彼の矢が私の腕を掠めてしまって。でも私が悪いんです、彼の射線上に飛び出したのが悪くて、狙いが外れたわけではないんです。傷も大したものではなくて……。でも、それ以来ずっと落ち込んでいて、夜も眠れないみたいなんです」
「はぁ……、それは面倒なことになったなぁ……」
アカートはクルキの説明を聞いて、大きな溜息をついた。
「あいつ、お前にベタ惚れだったもんな。それが自分のせいで怪我しちまったと。それは思い詰めるわ」
「私も気を落とすことはないと言ったのですが、どうにも響いていないようで……。どうしたらいいんでしょうか」
ううむ、とアカートは唸った。
「あいつは弓の腕にも自信があったんだろ。狙いを外したわけじゃねえが、想定外の事故は起こるもんで、それは腕前じゃどうにもならねえ。で、一度起こった以上は二度も三度も起こりうると。今回は運が良くてかすり傷で済んだが、当たりどころが悪けりゃ死ぬまである。それはお前が前に出て戦って、コスティが後ろで矢を射る限り付きまとう問題なわけだ」
「そうなんです。でも、私は彼と一緒にいたい……」
「男は誰でも、惚れた奴を守りてえもんだよな。だが、あいつは良くも悪くも普通の人間だ。お前の補助があったとはいえ、今まで魔物と戦ってたほうがおかしい。お前らなんで魔物狩りなんてしてんだ」
「恥ずかしい話ですが、どこへ行っても手っ取り早くお金を稼げる手段だったからです。私もコスティも、知らない場所に行って新しいことを知るのが楽しくて、それでここ一年、旅を続けていました。それで路銀を稼ぐために魔物狩りを……」
「なるほどね」
クルキの答えにアカートは頷いた。
「コスティが弓を持たなきゃ解決するが、あいつにだって譲れないもんはあるわな。恋人を危険な目に遭わせて、自分は後ろで眺めて見てるだけってのは面目丸潰れだぜ」
「だからといって、他に場所を選ばずお金を稼げる手段もなく……」
「二人で旅をしたい、路銀を稼ぎたい、好きな奴を守りたい、全部叶えようとするからお前らこんがらがってんだよ。酷な話だが、全部が全部叶うような都合のいい話はねえ。二人で話して優先順位つけて、丁度いい落としどころを探るしかねえんじゃねえか」
「……そう、ですね」
アカートに現実を突きつけられ、クルキは落胆した。
アカートに相談すれば、全部解決してくれる手段を提示してくれるのではないか、と甘えていたのだ。
「でも、今のコスティとそういった話し合いができるかどうか……。まずは元気になってもらわないと、話せるものも話せません」
「お前、コスティに魔法とか使ったか?」
「え?」
アカートの予想だにしなかった問いにクルキは驚いた。
「だから、夜眠れる魔法とか、暗示とか、薬とかそういう手段をとったかって聞いてんだよ」
「一度は聞いてみたんですけど、断られてしまって……」
「今はあいつの気持ちを尊重してる場合じゃねえだろ。あいつの顔見てみろ、多少強引にでも休ませるべきだ」
「し、しかし……」
言い淀むクルキにアカートはぴしゃりと強く言う。
「お前ら互いに甘すぎんだよ。時には強く出ることが相手のためになることもある」
アカートの言葉を聞いて、クルキはどうしたものかと黙り込んでしまった。
「ま、それができたら苦労しねえんだよな」
鍋の水が沸騰したのを見て、アカートは窓際に干していた薬草の一つを手に取り、千切って湯に入れる。
「何ですか、それ」
「バレリアンって薬草だ。よく眠れるようになる」
「そんな、黙って盛るなんて……!」
「強引にでも休ませるべきってさっき言っただろ。あいつの顔見ただろ、手段を選んでる場合じゃねえんだぞ。それに、お前もこの件で随分と気を揉んでるんだろ。よく寝たほうがいい」
そう言って戸棚から茶葉の入った瓶とカップを二つ取り出すと、茶葉を布袋に詰めて鍋に放り込んだ。
しばらくして色がついたのを確認すると、カップに茶を注ぐ。
「ほら、そこに盆があるからコスティのとこに持ってって、そっとしといてやれ。一晩寝れれば多少はましになるだろ」
「あ、ありがとうございます」
クルキはアカートに礼を言って、盆に持っていた林檎と茶を乗せて厨房を後にした。
なんだかんだ言ってアカートは頼りになると実感する。
アカートの助言は確かに厳しいものではあったが、今の自分たちがどうするべきかを示してくれた。
「私もあれくらい、頼りになったらな……」
クルキは歩きながら呟いた。
まず自分の部屋に行って自分の分の夕飯を机に置き、それから隣のコスティの部屋に向かった。
戸を二、三度叩くと、ややあってコスティが顔を出した。相変わらず顔色が悪い。
恋人が自分のせいでここまで思い詰めている様を見るのはつらかった。
「林檎をもらってきたんだ。夕飯にするといい。温かいお茶もある」
言ってクルキは盆をコスティに差し出した。
「……わかった」
コスティは気力のない声でそう返して盆を受け取った。
なんとか受け取ってくれたことにクルキは安心する。
「私は隣にいるから、何かあったら声をかけてくれ」
「そうする」
それだけ言ってコスティは戸を閉めてしまった。
あとは茶を飲んでくれればいいのだが。
それだけ願ってクルキは自分の部屋に戻った。
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