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10.天上の音楽・終(2) 完
彼も傍に荷物を置いて、パイプ椅子に腰を下ろした。
そして受け取ったプログラムに目を通しはじめる。
楽屋には俺と彼、二人だけ。
……。
会話が思いつかない。
どうしよう。
何か話したいのに。
何を話せばいいんだろう。
そうしているうちにどんどん鼓動が乱れ。
このままじゃ彼に聞こえそうだと思い、俺は口を開いた。
「あのさ……」
「……はい?」
『俺?』
そんな確認を含んだ色とともに、プログラムを眺めていた彼の目が俺の方に向いた。
俺は彼の方を見ていたわけではなかったけれど。
顔が動いたのが、目の隅にちらっと映ったのでそれが分かった。
少しの沈黙。
怖いけど、俺は思い切って訊いてみることにした。
「……覚えてる?」
「え……?」
『俺のこと、覚えてる?』
そういう意味だ。
楽屋に入ってきた時、彼が目を見開いた。
その表情に。
もしかしたら『本当に』俺たちは夢を共有していたのではないかと思わせられた。
でも、ただ先客を見つけての表情だったのかもしれない。
人の姿を認識して、目を見開いただけ。
ただそれだけのことだったのかもしれない。
でも、もしかしたら、もしかして……。
そんな思いで訊かずにはいられなかったんだ。
ただ、これは賭けだった。
もし『何を?』、というような言葉が返ってきたら。
『歌詞とか。不安にならない?』とか適当に言って。
誤魔化してしまおう。
俺は俯いていた。
彼は俺を見ていた。
勿論俺はその姿をしっかり見たわけじゃないけど。
目の隅で捉えていた。
ずっと沈黙。
どうしよう……。
何か、何か言ってくれ……。
背を、細い汗が流れた。
「覚えてるよ」
柔らかい、笑みを含んだ声が聞こえた。
彼が微笑んでいるのが分かる。
「ありがとう」
夢でも聞いた音。
その一言が、彼も夢を見たんだと教えてくれた。
「俺さ、前のバンドでの活動やめた後、結構悩んでたんだよね」
続けようか、やめてしまおうか。
ずっとずっと悩んでて。
悩みすぎて、歌が歌えなくなって。
そしたら夢を見たんだ。
「悩みまくっていたら、その悩みとか、世間の言葉とかが黒い塊になって」
化物になってしまう夢。
怖くて。
逃げようとしても逃げられなくて。
そしたら、俺を助けてくれた人がいた。
「それが貴方だったんだよね」
顔を上げた俺に、彼がまた微笑んだ。
彼の声が続く。
「貴方は一緒に歌って元気づけてくれて、たくさん助けてくれて」
その夢から覚めたら、妙に気分が軽くなっていて。
歌ってみようと思ったら、自然と声が零れて。
素直に歌が楽しいと思えた。
すると今まで悩んでたことが全部、馬鹿馬鹿しく思えてさ。
「ほんっと、普段悩まない奴が悩むとロクなことないよね」
そう言って、彼は悪戯っぽく笑った。
昨夜の夢でも聞いた台詞。
「助けてくれた人にお礼がしたいなって思ったんだけど」
夢の中で会った人が現実でも存在してるなんてのはちょっと考えられなくて。
でももしかしたらこの世のどこかにいるんじゃないかなって思って。
でも芸能人ではないだろうから、テレビや雑誌では探せないだろうと思って。
ただ夢で聴いた声だけが頼りだったんだよね。
「そして動画サイトで貴方の歌声を見つけてさ」
この人だ!
――って思った。
本当に、本当に実在していたんだって。
凄く嬉しくなって。
会ってみたいって思ったんだ。
「そしたら、貴方がこのライブに参加するって噂で聞いて」
俺も出たいって自分から参加を希望したんだ。
……その後なんだけどね。
あ、あの人も同じ夢を見てるなんてありえないのにって気づいたの。
「でも見てたんだね。同じ夢」
うん、と微笑みながらも。
俺の頭の中には疑問符が犇めいていた。
おかしいよな。
彼が以前の活動をやめたころだったら、俺はまだ歌を始めていなくて。
その辺りの時間軸は合ってるんだけど。
昨日夢に現れた彼は、もう新しい名前で活動を始めた後の彼で。
しかも彼が夢を見たのは、前のバンドを解散させた直後?
俺と同じ時間軸で見ていたのではないのか?
なんか色々噛み合わない部分があったけど。
もう解決したことだし。
意地悪く重箱の隅をつつくのはやめよう。
彼に顔を向けた。
彼も、俺に顔を向けていた。
今、この現実で。
手の届く場所に彼がいる。
俺は自然に手を伸ばしていた。
彼の顔に触れて。
その輪郭を両手で確認する。
多分、戸惑いとか、恥ずかしさとかからだと思うけど。
彼は一瞬目を伏せて、視線を逸らした。
それを確認して、俺は彼を抱き寄せた。
そうなることを予知していたのか。
彼は素直に従ってくれて。
俺の背に腕を回した。
彼の心音が俺の心音と交ざる。
トクン、トクン、トクン、と。
同じ音を奏でている。
彼の優しい声が俺の肩から聞こえた。
「良かった。勇気出して、今日参加した甲斐があった」
「俺も会えてよかった」
「……言ったじゃん? ……『俺たちには現実がある』って」
「うん」
暫しの休止。
トクン、トクン、トクン、トクン。
また心音が聞こえる。
彼の音。
ごくごく小さなものではあるが。
彼の呼吸音も聞こえて。
彼の命の音が自分の腕の中でしていることが。
とても心地良かった。
「あのさ」
音に微睡みながら、声を紡ぐ。
「ん?」
「このライブのために来たんだよね? いつまでこっちにいる?」
「明後日まで」
「じゃ俺と一緒だ」
「ほんとに?」
「うん」
「じゃぁ、俺たち一緒にどっか行こうよ」
明るく誘う彼の声。
「いいね。どこに行ってみたい?」
俺も地元じゃないから、案内とかはできないけど。
「そうだなぁ」
また暫しの休止。
「人の多い所は苦手なんだけどさ」
そろそろこっちは桜の季節じゃない?
彼が体を離し、小首を傾げる。
「そういえばそうだな」
「俺、見たことないんだ。俺の地元の桜はもう散っちゃったし。だから……」
一緒に桜を見に行こうよ。
「うん、そうしよう……」
「あ、でも」
彼が何かを思い出す。
「……花粉症、大丈夫?」
その台詞がむず痒さを含んでいた。
……からかっているんだな。
でも夢で起ったことだったからか、恥ずかしさはなくて。
「大丈夫、大丈夫」
適当な言葉で流してしまうと。
「そっかぁ」
と、彼が小さな笑い声を立てた。
「じゃ、楽しみにしてるね」
「うん」
夢でも見た満開の桜。
それを二人で見に行こう。
互いの声がやみ。
また互いの存在を確かめ合う。
トクン、トクン、トクン。
また鼓動がシンクロしはじめる。
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