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10.天上の音楽・終(1)
耳元で何やら音がした。
一定のリズムで響く機械音。
重い瞼を無理やり開けると、携帯電話が見えた。
アラーム機能が作動しているのだと気づく。
俺は携帯を開いてそれを止めた。
そしてゆっくり起き上がった。
目の前には見慣れない景色が広がっていた。
シンプルなデザインの家具に、ルームライト。
何一つ無駄なものがない簡素な部屋。
その生活観のない景色は、俺にホテルの一室であることを教えてくれていた。
俺は洗面所へ足を運んだ。
顔を洗い、髭を剃り、髪を整える。
洗面所から部屋へ戻ると、携帯電話がチカチカ光っていた。
確認すると、メールが一通届いていた。
メールを開く。
【起きてる?
昨日場所は教えたよな?
ライブハウスの前で待ってるから。
絶対遅刻はしないでくれよ。】
イベントの主催者からだった。
時計を見る。
もうそろそろ出ないとまずい。
慣れない道を歩き、なんとか間違えずに駅に辿り着いた。
その駅から電車に乗り、ライブハウスを目指す。
電車に揺られ。
やっぱり見慣れない風景が次から次へと流れた。
その風景をぼんやり眺めながら俺は頭の中を整理した。
俺は、アマチュアシンガーで。
その世界では、そこそこ名前が知られていて。
今日、初めてライブに出ることになった。
彼は俺がずっと尊敬するアマチュアシンガーで。
彼に憧れて、俺も歌を始めた。
そうしているうちに。
向こうも俺の存在を知ってくれて。
でも俺たちを繋ぐ縁はなくて。
ただ互いに存在を知っているだけの間柄が続いた。
ホールの最寄り駅に着き、電車を降りた。
幸い電車一本で行ける場所だったので、簡単だった。
後はライブハウスまでの道を歩くだけ。
彼と夢の中で会った。
彼は悩んでいて、苦しんでいて。
俺はそんな彼を助けたい一心で。
彼のもとへ駆けつけて。
彼を支えて。
彼を抱いて。
彼を救うために歌って。
最後、彼と一緒に。
橋を渡った。
俺がずっと見ていたものは。
夢も現実も。
全ては一夜の夢。
片づかないオフィス街を歩いた。
時々忙しなく歩く会社員たちが俺の傍を横切っていった。
昼過ぎだったが、通りには今日のライブの観客と思える人々の姿もあった。
今回のライブに、彼も出演すると聞いた。
今まで全く姿を現すことがなかった彼の参加。
そのニュースは界隈を驚かせ。
勿論、俺も驚いた。
やっと点と点を繋げられるものが見つかって。
今日、俺たちは初めて会う。
ライブハウスの前に着くと、主催者が待っていた。
俺の写真をあらかじめ送っていたからだろう。
主催者は俺を見つけて、少し訝しげながらも俺に手を振った。
それで俺もその人が主催者だと気づく。
その主催者、というのも実はネットを通してでしか交流のない人物で。
彼とすらも『初めまして』だったのだ。
互いに住む地方が違うから。
こんな機会でもなければ、会うことがなかった人。
ライブハウスの裏口から楽屋へと続く廊下を、他愛無い会話をしながら歩き。
楽屋に着いた。
俺を楽屋に残し、主催者はまた裏口に戻っていった。
他の面々も出迎えなければならないからだろう。
一人になった俺は適当に荷物を置いて。
今日の段取りを書いた紙を手に。
近くにあったパイプ椅子に腰を下ろして、それに目を通しはじめた。
その紙に彼の名前を見つけ、改めて彼の参加を認識する。
胸が急に締め付けられたかと思うと、ドクン、と一際大きな鼓動が響いた。
そうしていると。
主催者の声が廊下から聞こえた。
『今日は遠いとこありがとう! あ、ここが楽屋ね』
なんかそんなことを言っている。
そして楽屋のドアが開いて。
男が入ってきた。
小柄な体型。
短く整えられた髪。
アーモンド型の瞳。
白いTシャツと青いパーカー。
眼鏡をかけていたけれど。
彼だった。
俺の呼吸が止まった。
彼は俺を見るなり、目を丸めた。
……何、その顔。
……もしかして?
「はじめ、まして」
泡みたいな声で挨拶をしてみて、名前を告げる。
すると彼の目がまた一瞬、丸まった。
彼も自己紹介した後。
「今日はよろしくお願いします」
そう言って、笑みを浮かべ。
ぺこっと頭を下げて、そのせいで少しずった眼鏡を上げた。
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