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9.天上の華(4)
彼はにこっと笑って、穏やかな声を紡いだ。
『ありがとう』
やっと、俺に戻れた。
『俺、ほんっとに悩んでたんだよね』
自分が調子に乗って歌うからこんなことになるんじゃないのか、とか。
ただ楽しくて歌ってるだけなのに、なんでこんな仕打ちを受けなきゃならないんだ、とか。
我慢してるけど、歌いたくて仕方ないんだ、とか。
でも歌ったら、また何か騒ぎを起こすんじゃないんだろか、とか。
色んな気持ちがごちゃ混ぜになっちゃって。
そんな気持ちが変な化物を作り出しちゃって。
いつの間にか自分がそうなっちゃった。
『ほんっとに、普段悩まない奴が悩むとロクなことないよね』
そう言って、彼は半ば照れたような顔で、悪戯っぽく笑った。
その姿を黙って眺めて。
ああ、彼なんだ、と認識した。
本物の彼だ。
これこそ完全な本物の彼だ。
さっき肩を抱いていた『彼』も本物ではなく。
彼の一部だったんだ。
目の前の彼を見て、そう思った。
何も言わず眺める俺に疑問を感じたのか。
彼はその猫の様な瞳を一瞬だけ見開くと。
ふっと穏やかな表情に戻って。
またこう言った。
『ありがとう』
その柔らかな音を聞いた俺の胸に、得体の知れない思いが込み上げた。
硬いような気持ちと、沁みるような気持ちが胸を締め付けて。
鼻にツン、とした刺激が伝わる。
それでも何か言葉をかけなきゃと、口を開いた。
『何て、言えばいいのかな……』
意外と冷静な言葉が出たことに、我ながら感心した。
本当に、かける言葉がない。
良かったね。
おめでとう。
そんなのでいいのかな、と悩んでしまう。
彼は少し困った顔をしたが、そっと俺の手を取った。
『行こうよ』
橋の向こうへ。
その時、目に強い刺激を感じた。
『うん……』
そう返事をするが。
俺の足は少しも動かず。
手は彼を引き寄せていた。
彼の体を胸に収めて。
彼の体温を肌で感じ。
化物の言葉を思い出す。
[ソシタラ、モゥ……]
そうなんだ。
そしたら、もう。
彼とは会えない。
もう、同じ夢なんて見ないだろうから。
これが最後になってしまうんだ。
そう思うと、足が動かなかった。
たとえ夢の中でも。
彼の傍にいられるのは嬉しくて。
すごく楽しくて。
幸せだった。
なのに。
それは、今夜で終わってしまうんだ……。
『もしかして、……泣いてる?』
彼の言葉に心臓が一度大きく跳ねた。
『泣いてない……』
それは本当だ。
涙は流れていない。
でも声は明らかに湿っていて。
そう答えながらも彼をより一層ぎゅっとしてしまって。
肯定してるようなもんだった。
咄嗟に言葉を取り繕う。
『俺、花粉症体質なの』
『そうなの?』
『うん。桜にやられた』
『ほんとにぃ?』
彼の声が明らかにからかっている。
そんなのあるの、と言わんばかりの音だ。
俺だってそんなのがあるのか知らない。
……桜の花粉になんてやられたことないから。
でもそんなことを言ってる間になんか気も楽になって。
彼を離した。
彼が俺を見上げていた。
鼻、赤くなってないといいな。
最後にかっこ悪い顔見せたくないし。
実際どんな顔になってるのか分からないけど。
どうやら彼にはお見通しのようで。
彼がまた、にこっと微笑んだ。
『そんな顔しないでよ』
俺たちには、現実があるじゃん。
『また現実で会おうよ』
『うん』
俺からも自然と笑みが零れた。
そうだな。
また現実で会おう。
悲観的になる必要なんてないんだ。
『行こうか』
次は俺が切り出して。
彼の手を握った。
『うん』
彼も頷いて。
俺たちは橋に向かって歩いた。
桜に見送られ。
一歩、一歩橋へと近づく。
俺の足と彼の足が、同時に橋を踏んだ。
少し揺れたが、不思議と怖くはない。
一歩、一歩足を前に出し。
歩いた。
彼の手を握ったまま一緒に。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。
いつの間にか。
目の前には青い空が広がり。
彼の手から伝わる体温だけを感じ。
ただひたすら、彼と橋の終りを目指して歩き続けた。
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