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9.天上の華(3)
それでも『彼』は迷っていたが。
小さく唇を噛むと、意を決したように頷いて。
また涙を零した。
『うた……、いたい……っ』
歌いたい……。
歌が歌いたいよ……っ。
次から次へと涙を零して。
内から溢れる感情を曝け出した。
『じゃ、どうしなきゃ駄目なのか、分かるでしょ?』
『彼』がしゃくり上げた。
『わから、ない』
『まだ意地張るわけ?』
『違う……』
本当に、どうしたらいいのか分からない……。
憎んだ、……捨ててしまった「自分」にどんな声をかければいいか。
どんな態度を取ればいいのか、分からない……。
そう言ってまたしゃくり上げた。
『呼んでみたら?』
素直に考えてみて。
失ったら、取り戻すにはどうしたらいいか。
難しく考えないで。
自然に、思うままに呼び寄せてみろよ。
その言葉に『彼』はまた戸惑いを見せたが。
潤んだ瞳を「彼」に向けると。
細い声を放った。
『帰って、きて……』
歌が歌いたい。
歌いたいんだ。
お願いだから、お願いだから。
俺のもとに戻ってきて……っ。
そして『彼』は必死な様子で、「彼」に手を伸ばした。
『「君」が、……「君」が必要なんだ……』
「彼」はぐっと口を噤んで『彼』を見ていたが。
少し肩を震わせて、頭を左右に振った。
『……!』
声にならない音が『彼』の口から零れた。
「彼」は少し俯き。
胸の辺りで握っていた拳により一層力を込めた。
『彼』を、自分を殺そうとした『自分』を許せないんだろうか?
「彼」の様子を覗うが、細かな心理までは把握できない。
その時。
どこからか、声が聞こえた。
[ァ……、ワ……、ラ……ィ]
細い金属が触れ合うような、繊細な音。
透明で綺麗な音だが、意味が分からない。
俺はじっと耳を傾けた。
どうやら、「彼」からしているようだ。
また声が聞こえた。
[……ナ…、……シ、……キ、……]
まだ意味が分からない。
俺はまたじっと耳を傾ける。
何度か聞いているうちに。
「彼」は同じ言葉を繰り返しているのだと気づいたが。
先に意味まで理解したのは、俺ではなく『彼』の方だった。
『違う……、違うよ……』
『彼』が必死にそう訴えかけた。
でもまだ俺の頭には「彼」の声が響いていて。
何度も聞いているうちにやっと、俺にも意味が理解できた。
[アナタ、ワタシ、キライ]
『貴方は私が嫌い』
「彼」の表情や仕草からして。
きっとそう捉えるのが正しいんだと思った。
つまり。
「彼」は許せないんじゃなくて、怖いのか。
拒絶されてしまうことに脅えて、『彼』を拒絶しているんだ。
『彼』は必死で「彼」の言葉を否定し。
謝罪を繰り返した。
『俺が、間違ってた……。ごめん……、ごめんなさい』
お願いだから。
許してほしい。
俺が間違ってた。
『俺、歌いたい……。だから、戻ってきて……っ』
俺には「君」が必要なんだ……。
その声を聞いて、「彼」は俺の姿を覗った。
俺は何も声をかけなかった。
でもずっと、彼に戻ってやってほしいと。
「おまえ」を操れるのは『彼』しかいないんだと。
何度も目で訴え続けた。
『彼』が謝罪を繰り返す。
何度も、何度も。
すると「彼」はやっと許す気になったのか。
勇気を手に入れたのか。
小さく頷くと。
『彼』の差し出す手の先へと歩を進めた。
一歩、一歩。
しっかりと地を踏みしめて。
まだ不安な気持ちはあるのだろうけど。
「彼」は躊躇うことなく歩を進めた。
「彼」の手がふわりと浮いた。
その手が『彼』の指先に触れて。
二人の手が合わさって。
少しずつ、少しずつ。
体が重なっていく。
『彼』と「彼」が溶けていき。
互いの輪郭が曖昧になっていった。
白い光が彼らを包む。
その白い光はだんだんと広がって。
世界を包んだ。
真っ白な世界。
白い光の中で俺は何も見えなくなった。
ただただ眩しくて。
目を開けることも叶わない。
手で陰を作って、必死に目を凝らすけど。
彼らの姿は見えなかった。
光がどんどん強くなっていく。
眩しい。
眩しくて堪らない。
強い白に押し潰されそうになった時。
飛び散るように、より一層強い光が広がった。
強い光が消えた、気がした。
恐る恐る目を開くとそこには。
満開の桜。
千本の桜にも劣らない、見事な一本桜。
薄紅の花が、柔らかな雲のように浮かんで。
少し露を含んだ花びらが。
何かを誘うように吹く風に。
雨の様に散って。
闇に落ちる。
背には大きな望月が浮かんで。
その光が柔らかく桜を照らせば。
露に反射して虹が浮かぶ。
言葉も忘れる。
至高の絶景。
その桜の下に。
あの人がいた。
青いパーカーに白いTシャツ。
ハーフパンツに、サンダル。
初めて会った時の彼の姿だった。
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