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9.天上の華(2)

 靄が現れるや否や、「彼」の手が引き攣ったのが分かった。  それを感じると同時に、俺は「彼」の頼りない手をぐっと握り締めた。  「彼」が怖がらないように。  「彼」が逃げてしまわないように。  そんな気持ちで手を握り締めたまま、目はその靄へ向けていた。  黒い靄の中にある二つの眼。  その目をじっと見つめた。  無機質に見えて、繊細で悲しげな瞳。  もう、そんな目をする必要はないんだ。  俺は一度瞼を閉じると、ゆっくり開いて靄へ話しかけた。 『もう、そんな姿でいる必要ないだろ』  そんな黒い靄を纏う必要ないんだ。  出ておいで。  靄の瞳がじっと俺を見ていた。  俺もその瞳を見つめ返した。  そうしていると。  さっと、一陣の風が吹いて。  靄の姿が乱れた。  靄は解けるようにして散っていき。  その中から真っ白な姿が現れた。  『彼』だった。  『彼』は靄から崩れるようにして現れた。  白い着物姿がユラリと揺れて。  『彼』の目から涙が零れた。  俺は「彼」の手を離し、『彼』へと駆け寄った。  倒れこむ『彼』を捕まえる。  『彼』の体が俺の腕の中へ預けられた。  胸に小さな嗚咽がこだまする。  俺はぎゅっと『彼』の体を抱いて。  ひとまずは好きなだけ泣かせてやった。  『彼』の頬が渇きはじめたころ。  俺は『彼』の体を離し、その瞳を見つめた。 『あんたなんだろ?』 『……うん』  返事をした『彼』の目からまた涙が零れた。 『俺、だよ』  俺だよ。  『彼』は何度もそう繰り返した。  『彼』が「彼」へ目をやった。  じっと、食い入るように見つめる。  その瞳の色が、今も憎しみを湛えているような気がした。  俺もその視線の先に目をやった。  「彼」も、じっと『彼』を見ている。  でも「彼」の瞳は『彼』の瞳の色とは違っていて。  思いつめた色をしていた。  『彼』が呟いた。 『あれは、誰?』  そんな『彼』に、俺は静かに言葉をかけた。 『あれは』  『彼』はまだ「彼」をじっと見つめている。  俺の声が届いたのか分からなかったが。  俺は一呼吸置き、言葉を続けた。 『あれは、あんたの声だ』  俺の手の中にある肩が強張った。 『こ、え?』  目を見開き、ゆっくり顔を動かすと、次は俺を凝視する。  その瞳の色を見つめながら、俺は一度頷いた。 『声って。……俺、声出てるよ? ……何言ってるの?』  必死でそう訴える『彼』に落ち着くよう促す。 『声って言っても、ただの声じゃない』  「彼」はあんたの歌声なんだ。  いや、あんたの歌う歌。  歌う力、魂だと言ってもいいのかもしれない。 『それを、あんたは何らかの理由で、手放してしまったんだ』  すると『彼』は驚愕の色を映したまま。  一度だけ細く呼吸した。  『彼』がまた「彼」へ目をやった。  その瞳から薄暗い色が消えている。  ただひたすら驚愕の色だけが浮かんでいた。  しばらく「彼」を目に映していた『彼』だったが。  やがて、ポツリと呟いた。 『俺、貴方に曲を送った後、後悔したんだ』  喜んでもらえて良かったって思ったのに。  貴方とのボイスチャットを終えて。  静まり返った部屋の中で電気を消したら。  ああ、また調子に乗ったんだって気が遠くなって。  歌を歌ったことも、貴方に歌をあげたことも。  後悔した。  彼の告白を聞き。  俺は複雑な胸中のまま、「彼」に目をやった。  「彼」は相変わらず思いつめた目をしていた。  ぎゅっと胸の辺りで拳を握って。  その拳が不安げに、時々小刻みに揺れた。  ただ、俺は彼の純粋な気持ちを知りたかった。  純粋なまでに剥き出しとなった感情を。 『でも、本当はどう?』  歌いたいんじゃない?  俺が問いかけると、『彼』は一度喉を詰まらせ。  少し何か考えた後、小さく首を振った。 『俺が歌うのは、その、……ちょっと……』  良くないことが起るから……。  俺の歌声は良くないことを起こしてしまうから……。  そう言って俯いてしまう。 『誰かに嫌な思い、させたくないし……』  いざこざが起れば、色んなものを犠牲にしてしまうし……。 『でも、あんた歌いたいんだろ?』  歌ってる「自分」を羨むあまり。  殺意まで覚えてしまうほどに歌いたいんだろ?  抱いていた『彼』の肩が一度だけ跳ねた。  その肩を少し震わせて、『彼』は頭を左右に振った。 『ちがう……』  羨ましかったんじゃない……。  もしかしたら、俺は歌えないのにって、少しは嫉妬したのかもしれないけど。  それよりも。 『悪いことが起きるのに、歌い続ける姿に腹が立ったんだ』  楽しそうに凶事を招く音を紡ぐ「彼」に。  歌うな、歌うなって願い続けて。  でもそんな『俺』の気持ちはお構いなしに。  ただただ楽しげに歌い続ける身勝手な「彼」に腹が立ったんだ。  『「彼」が許せなかった……っ』  俺は何も言うことができなくなってしまった。  彼があの事件のせいで、そこまで追い詰められてしまっていたなんて思わなくて。  もしかしたら、俺はかなり無神経なことをしてしまったのかもしれない。  でもやっぱり、こう思ってしまう。  それは思い込みなんだって。  あれは『事故』だったんだ。  ただ加害者がいて、被害者がいて、それを取り巻く人間がいて。  その中心になってしまったのが彼だったと言うだけの。  ただの事故だったんだ。  だから。  そこまで彼が思い詰める必要なんてないんだ。  この人の歌を知って。  癒しや、感嘆、充足、慈しみ。  そんな感情をより多く知った。  少なくとも、知らなかった俺よりずっと知っている俺になった。  この人は自分の歌の持つ力を知らなさすぎる。  否定的には知り尽くしているようではあるけれど。  肯定的には知らなさすぎている。  俺はもう一度、『彼』の両肩を抱き直した。 『もっと、自分の歌を知った方がいいよ』  あんたの歌は人に慰めや癒し、幸せを与えられるんだ。  俺何度も言ったと思うけど? 『あんたの歌は人に害を与えるものじゃない』  だからさ。 『もっとさ、シンプルに考えてみなよ』  周りがどうとか、世間の評判だとか。  そんなこと全部取っ払って。  ただ、自分の気持ちだけに素直になってみなよ。  その気持ちを聞きたいんだ。  そう訴えた後で、俺はもう一度尋ねた。 『歌いたい?』

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