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9.天上の華(1)

 意識が落ちる寸前まで祈っていた。  あの夢を見られるように。  あの夢が最後になり、彼が解放されるように。  皮肉な話だと思う。  最初はなぜあんな夢を何度も見るんだ、と苛立って。  何とかあの夢から逃れたいと思っていたのに。  今は見たくて仕方がない。  ただ、あの夢をこれ以上見ずに済むように。  俺はあの夢を見られるよう望んでいるわけだけど。  気がつくと、鬱蒼と茂る森に立っていた。  その光景に俺はほっと胸を撫で下ろした。  良かった。  夢の中に入れたんだ。  一歩一歩前へ足を運んでいると。  いつもの家に着いた。  和風の一軒家。  そっと戸を開ける。  音は何も聞こえなかった。  もしかして。  「彼」はいないのだろうか。  もしくは化物だけ、とか。  俺としては、「彼」がいてもらわないと困るんだけど。  一番奥の部屋に辿り着いた。  そっと襖を開ける。  中に人影が見えた。  「彼」だった。  また俺は胸を撫で下ろした。  いつものように、「彼」の前で静かに腰を下ろす。  「彼」の輪郭が曖昧に揺れていた。  曇った瞳に薄っすらと雫が溜まり。  姿が半ば透けて見えた。 『歌わないの?』  そう話しかけると、「彼」はおもむろに頭を振った。  ぐっと口を噤み、両手を握って。 『怖い?』  尋ねると、「彼」の頭が縦に揺れた。  コクコクと、何度も揺れた。  そして少し俯いたまま。  ぎゅっと瞑った目から涙が零れ落ちた。  「彼」の手を握ると。  一瞬だけ「彼」の手が引き攣った。  でも「彼」は振りほどこうとまではしなかった。 『あのさ』  俺はある提案をした。 『一緒に歌ってみようか?』  「彼」が目を見開いて俺を見上げた。  初めて聞く言葉に戸惑った、というような顔をしている。 『俺じゃ役不足かもしれないけど』  これだけ近くにいたら、もし何かあっても助けられるから。 『歌ってみよう』  俺が一度だけ手をぎゅっと強く握ると、「彼」はコクンと頭を縦に揺らした。  一呼吸して、俺は音を紡いだ。  何度も「彼」に教えた歌。  カラオケにも行ったことのない俺が、人と歌うのなんて初めてで。  感覚が掴めるのか不安だったけど。  最初、俺の声だけが部屋に響いた。  プロどころか、何の活動も行っていない俺だけど。  なんか妙に気分が盛り上がってしまって。  本領発揮、と言わんばかりに声を張ってしまった。  まずかったかな……。  そんな半ば予定どおりの不安が込み上げた。  「彼」が俺を見ていた。  その視線を感じながら、俺は歌い続けた。  頭の中に伴奏が広がっていく。  その伴奏に導かれて、自然と声が出る。  俺はどんどん音の世界にのめり込んでいった。  そうしているうちに。 [ア……~~~~♪]  「彼」の声が聞こえた。  「彼」が俺に釣られるようにして歌いはじめた。  とても不思議なことに、俺たちの息はぴったりだった。  何度も練習したかのように。  ずっと前からそうして歌ってきたかのように。  自然と俺たちの呼吸は合っていて、調和が取れていた。  見事なまでのシンクロ。  どちらもメインメロディを歌っていて、ハモりもないシンプルな旋律だったけど。  俺の硬く鋭い声を、「彼」の柔らかな声がそっと包み込むようにして。  凄く綺麗に響いていた。  俺たちは互いの中に響く音楽を織り上げた。  お互い自身の世界で歌うのに、その声は生まれると一つになって天に舞い上がっていった。  音が天に昇っては消えていく。  でもその音が消えてしまう前に、また新たな音が天へと昇っていった。  それを幾度となく繰り返し。  最後の一音が天へと昇っていった。  ふっと一呼吸して俺は「彼」を見た。  「彼」も俺を見ていた。  不思議な表情だ。  初めて見るものを目にしているようでもあり、懐かしいものを見ているようでもある。  そんな表情だった。  俺は「彼」の手を握ったまま、立ち上がった。 『おいで』  「彼」にも立ち上がるよう促す。 『行こう』  「彼」は少し戸惑った表情を見せたが、小さく頷いて立ち上がった。  俺はその手を握ったまま、青白い光を放つ障子に近づいた。  薄暗い森の中、「彼」の手を引いて歩いた。  「彼」は怖がることなく俺の後をついてきている。  歌しか紡がない「彼」とは何一つ話すことなく。  俺たちはただひたすら無言のまま歩いた。  飽きるほど歩いたころ。  橋が見えてきた。  長い、長い橋だ。  目を凝らしても、橋の向こうが見えない。  でもその橋を渡ることに戸惑いも不安もなかった。  ただ、橋を渡る前に片づけてしまわなければならないことがあった。  それを片さないままこの橋を渡るわけにはいかない。  いや、渡れない。  橋の手前で、俺は「彼」を一度見つめた。  横に並ぶ「彼」も俺を見ていた。  それを脳に留め、俺は後ろを振り返った。 『おい』  何もない場所に声をかける。 『そこにいるんだろ?』  出てこいよ。  そう声を放つと、何もなかった景色がゆらりと揺れ。  黒い靄が姿を現した。

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