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8.天上の月(5)

『―そう思うと、俺、何もできなくて』  ただじっと光の先を眺めることしかできなかった。 『―でもだんだん怖くなってきて』  腹も立ってきて。  なんか悔しさも込み上げてきて。  貴方がその人に笑いかければ笑いかけるほど不安になって。 『―……これは、ただ嫉妬とか、そんなんじゃないよ』  貴方がその人を大事にしてたのは。  貴方がその人を俺だと思ってるからなんだって、すぐ気づいたから。 『―だからこそ怖かったんだ』  貴方がその人に優しく接するのを見ていると。  【俺】は俺じゃなくて「その人」なんだって言われてる気がして……。 『―このまま、俺、その人に乗っ取られちゃうのかなって思った』 『―そして何より』  その人が歌っているのに腹が立ったんだ。  ……声は聞こえなかったけれど。  動きを見てたら、歌っているんだってことはすぐに分かった。  その人は楽しそうに歌っていて。  伸び伸びと楽しそうに歌う姿に無性にイラついて。 『―そしたら俺、その人の首を絞めてた』 「―そうだったんだ……」  そうか。  そうだったのか……。  昨夜見た『彼』はやっぱり彼だったんだ。  彼の告白を全て聞き終え、俺の気も異様なまでに落ち着いていた。 『―今の俺さ……。どんな風だと思う?』  彼が問う。 「―どんな状態にあるかってこと?」 『―うん』  なぜ彼がそんなことを訊くのか分からず。  俺は躊躇ったが、素直に答えた。 「―落ち着いてるように、思うけど?」 『―うん。……』  そして彼は『正解』と呟いた。  ますます訳が分からなくなった。 「―どうした?」  すると彼は少し戸惑って答えた。 『―貴方の言うとおり、今、凄く落ち着いてる。でも……』  俺、怖いよ。  その声すら随分淡々としていて。  むしろ俺の方が恐怖を覚えるぐらいだった。  彼がなおも淡々と声を紡ぐ。 『―ひとまず自分が何なのか分かったよ』  それですっきりした気分があるのは確かだよ。 『―でもね』  夢の中とはいえ、人を殺そうとしたんだ。 「―まぁ、そうだけど……」 『―別にね、単発でそんな夢を見ても、気にしないと思うよ』  怖い夢だった、とかそんな風に思って終わると思う。 『―けど、これはずっと続いてる、ある種現実みたいな夢で』  夢の中でその人を見て。  その人を憎んで、恨んで。  最終的に、感情の抑えが利かなくなって。  殺そうとしたんだ。 『―そして、それは俺と同じ顔をした人で……』  もし、あのままあの人を殺していたら。 『―俺は死んでたのかなって』 「―どういうこと?」 『―ほら、ドラマとか小説とかであるじゃん』  ずっと自分の障害になってる相手をやっつけたと思ったら。  それは実は自分で。  結果自分が死んでしまうっていうようなストーリー。 『―そうなるのかなって思ったんだ』  これは、目が覚めてから思ったんだけど。  彼はそう断って続けた。 『― 人を殺そうとしたこともそうだし、死んでたのは自分かもしれないってこともそうだし……』  そもそも、なぜ自分そっくりな存在がいるのか分からないし。  もし、その人が現実にも現れたら。  同じことをしてしまうんじゃないだろうかって考えて。 『―俺、もう何が怖いのかも分かんないよ』  彼は最後まで落ち着いていた。  彼がなぜこんなにも落ち着いているのか。  その理由が、俺なりにではあるが理解できた。  彼は疲れてしまったんだ。  もう混乱する力も湧いてこないくらい、疲れて感情が麻痺してしまっているんだ。  心が鈍くなってしまって、何も反応できないほどに。  だから、彼は落ち着いているんだ。  ただ、俺はそんな彼に少し腹も立っていた。  彼の落ち着きは心の麻痺だけでなく。  解決を諦めてしまっているような気がしたから。 「―あのさ」 『―何?』 「―今夜、と言うか、次に夢を見たら、俺、橋まで行くよ」  目の前にいる【あんた】を連れて行く。 『―なんで?』 「―あの、あんたそっくりの人の、正体が分かった」 『―えっ……!』 「―だから、次は絶対橋を渡れる」  実は、そこまでの確信はなかった。  でも『きっと』という言葉は使いたくなかった。 「―それで。俺はあの人を連れて行くから」  あんたもついてきてほしいんだ。  暫くの無音の世界。 『―分かった』  彼が答えた。 「―それともう一つ」 『―ん?』 「―俺がすることに、従ってほしいんだ」  邪魔せずに見ててほしいんだ。 『―えっと』  彼が不安な声を漏らす。  そこで俺は敢えて明るい声を放った。 「―別に変なことじゃないから」  一方的な言い方になるけど。  ただ、俺についてきて。  さっきより長い沈黙が流れた。  簡単に返事できることではないと思うから、仕方ないと思う。  俺が根気強く待っていると。  ヘッドホンから声が聞こえた。 『―分かった』  貴方に、どんな考えがあるのか分からないけど。  貴方が今それを語らないのは、理由があるからなんだよね?  ……俺、貴方に全てを任せる。 『―貴方を信じるよ』  さっきまでの落ち着いた声とは少し色が違う。  少し張りのある声。  決意の表れだと思った。  その声に俺は胸を撫で下ろした。  ボイスチャットを終え、俺はすぐベッドに横になった。  きっと、今夜で全てが終わる。  夢の終わりが来るんだ。  次こそ、次こそ絶対に彼を救い出してみせる。  胸の高鳴りを抑え、俺は目を閉じた。

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