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第1話 違和感の焦点

「先輩。今日は受験の息抜きですか?」  シャワーから出たところで、見慣れた後ろ姿を見かけて僕は声をかけた。  大型連休を翌週に控えた土曜の夕方、灰色のロッカーが並ぶ市営プールの更衣室だった。  僕たちは水泳部で、三年になった中村先輩はこの春、部活を引退したばかりだ。 「そんなところかな。他の連中は?」  制服のシャツに腕を通しながら、先輩は周りを見回す。髪はまだ湿っていた。 「今日は僕一人です」  先輩から四つ左のロッカーの鍵を開けながら答えた。  僕らの高校は公立なので、温水プールなんて豪華な設備はない。六月まで、部活は筋トレやサーキットばかりになる。体をなでる水の感覚が恋しくなって、ときどき泳ぎに来ることがあった。 「そうか。松元は泳ぐのが本当に好きなんだな」  大会の成績が良いわけでも、仲が良かったわけでもない、ただの部活の後輩。そんな僕の、顔くらいならともかく、名前を覚えていてくれたなんて。  僕は驚いて、持っていた腕時計を取り落とした。あっと声がして、ほぼ同時に僕の右肩と先輩がぶつかる。  「先輩……」  今まで経験したことがないほど近くに、先輩がいた。僕より少し背が高く、目を伏せて下の方を見ているから、まつげの長さが目立つ。鼻筋も通っていて、イケメンだ……前からイケメンだと思ってはいたが、ゼロ距離から見てもイケメンだった。うらやましい。 「時計、落としたら傷がつくから」  先輩は僕が落としかけた時計を受け止めてくれたのだった。手のひらに載せた時計を、僕の目の前に差し出す。礼を言って時計を受けとろうとすると、伸ばした手をがっちり掴まれた。 「は?」  そのまま僕の右手に腕時計をくぐらせて、ステンレスのベルトをぱちんと留めてくれた先輩は、僕をまっすぐ見てにっこり笑った。 「松元、このあと何か用事ある?」  特には、と言いながら、僕は右手の慣れない感触が気になっていた。いつも時計は左手にしているのだ。  だからって、先輩の目の前で時計をつけなおすわけにはいかなかった。せっかくつけてくれたのだから。 「腹減ってないか? ハンバーガーでも食べる?」  言われれば腹が減っていた。プールから少し歩いたところに黄色いMのマークの某ファーストフード店がある。というのは知っているが、僕は常に金欠で、バリューセットを食うくらいなら、コンビニでパンかおにぎりを買う。もしくは、この時間ならそろそろパン屋に総菜パンのおつとめ品が出回るので、そっちを狙う。  だが、月はじめに遊びに来たじいさまからの臨時収入のおかげで、財布の中には千円札がまだ三枚もあるのだ。 「たまにはいいですね、贅沢も」  というわけで、十五分後、僕と先輩は某ファーストフード店にいた。 「奢るって言ったじゃないか。聞いてなかった?」 「すみません。自分で払うつもりだったから遠慮もせず……」  僕の巨大バーガーLLセットは先輩のおごりだ。本人はというとシンプルなハンバーガーとホットコーヒーだけで、トレーを持った僕が恐縮していると、気にするな、と先輩はまた笑った。  二階の客席にあがると、テキストを広げて勉強する大学生や、制服姿でおしゃべりに興じる中高生が点在している。窓際の席からは、日が暮れて暗くなった空と信号待ちでみっちり並んだ車のヘッドライドが見えた。  改めて目の前にすると、先輩は手入れが行き届いた感じのイケメンだった。髪だって激安カットじゃなくて、ちゃんと美容院に行ってるに違いない。そういえば部活の女子が何人か、バレンタインデー前にチョコを渡すんだと騒いでいた。 「松元のその時計、かっこいいけど、らしくないよね。自分で買ったの?」  ハンバーガーを完食して紙ナプキンで口元と手を丁寧に拭いたあと、先輩は僕の右手の時計を指さした。 「あー、実はこれ、もらいものなんです」  似合わない、とよく言われるのだ。僕は苦笑した。 「兄のだったんです。兄は自衛官なんですが、デカくてゴツくて、この時計も小さく見えてたんですけどね。カノジョからもらった時計使うからって、こいつを僕にくれたんです」  兄はその彼女と去年結婚した。 「あら、弟くんはガチムチってわけじゃないのね」  結婚前の挨拶にうちを訪れたとき、初めて僕を見た兄の婚約者は残念そうに言った。彼女が兄の身体目当てで結婚したことを僕は確信したが、二人とも幸せそうだから、まあいいかと思う。 「お古だから最初から少し傷もついてたんです。ミリタリータイプですごい丈夫で、少々ぶつけても平気だし、そこは気に入ってます」 「そう」  ポテトを一本つまんだ僕の右手首を先輩は掴み、自分の方に引っ張った。そのまま僕の手をゆっくりひねるようにして、手のひらを上向かせる。時計の文字盤も上を向いた。ベルトが少し大きいせいで、盤面はいつのまにか、手首の内側のほうに回ってしまうのだ。  別に痛くはなかったけど、時計をよく見たいんだろうか? それなら言ってくれればいいのに。 「俺の母は本を読むのが好きでね。家にたくさん本があったから、俺も自然と読んでたんだけどさ」  何を言い始めたのかよくわからないまま、はあ、と間の抜けた相づちをうつ僕に先輩は続けた。 「ある小説に出てくる女の子が、好きな男の子の身体の、特に気に入ってる部分を食べ物に例えるんだよ。くるぶしは、サクサクのビスケット、なんだってさ。その描写がなんだかとても美味そうでね」  そう言って、先輩は僕がつまんでいたポテトををくわえて引っ張り、奪った。もぐもぐとポテトを噛みしめ、ごくんと飲み込むときに喉仏が動くのを、僕はなんだか目が離せずに見ていた。 「先輩、ポテトが食べたいなら好きに食べてくださいよ。Lサイズだからいっぱいあるし、もともと先輩がお金払ったんだし」  我に帰った僕が言うと、 「この時計、さ」  僕の手を握ったまま、先輩は、今度はもう片方の手でポテトをつまんだ。やっぱりポテトが食べたかったのだろうか。 「これがはまってる松元の手首って、ほんとにビスケットみたいに見えるね」 「確かに色は、スーパーに売ってる赤い箱に入ったあれに似てますけど、これは肉です。食べたら肉の味がしますよ。肉、食い足りないのならハンバーガーもう一つどうですか? 今度は僕が奢ります。甘いものがいいのなら、アップルパイにしますか?」  本当に食いつかれると思ったわけではないけど、僕は先輩から逃げるように立ち上がった。 「じゃあ、アップルパイ奢ってよ、松元」  そう言った先輩はとてもうれしそうで、やっぱり甘いものが食べたかったらしい。  レジのある一階へ向かう階段で、窓際の席を振り返る。先輩の手は、トレイの上の空間に取り残されていた。僕の手を握っていた形で。  何故か違和感があって、右手を見る。  そうだった。時計、まだ右手のままだ。

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