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第2話 疑惑の作用点
引退した水泳部員の先輩は勉強の息抜きに、現役部員の僕はプール開きが待ちきれず。なんとなく、日曜日の市営プールで一緒に泳ぐようになった。
休日の部活はまだ陸トレ中心だから、昼には解散する。その後は部室で弁当食ったり適当に遊んだりして、二時頃になったら学校を出る。
プールまではバスか電車で行く、と言って親に交通費をもらい、当然歩く。片道百八十円、往復で三百六十円。週刊少年なんとかなら買えるけど、ヤングなんとかには少し足りない。そんな片道四十分、徒歩の旅。
たどり着いたプールには、違和感があった。たむろしている人間の平均年齢がやたら高い。入り口に掲げられた「シニア水泳競技会」の看板で理解した。
「今日は無理かあ」
先輩は来てないか、帰ってしまった後だろうと、背を向けたところに声をかけられた。
「松元!」
「あ、先輩」
入り口の左側に、二階の観客席へ上がる階段がある。そこに座っていた先輩が、足下のスポーツバッグを取って駆け寄ってきた。
「そろそろ来る頃だと思ってさ」
相変わらずイケメンだ。おまけに爽やかな笑顔だ。さぞかしもてるんだろうなあ。
「わざわざ待っててくれたんですか? メッセージくれればよかったのに」
「俺、お前の連絡先知らないもん」
「そうでしたっけ。じゃあ、登録お願いします」
お互いに携帯を出して、登録する。これって携帯同士のお見合いみたいで、少し照れる。
アプリを確認すると、中村要という新しい連絡先を発見した。
「先輩、かなめって言うんですか」
「そうだよ、スミオくん」
先輩が初めて、僕の名字ではなく、名前で呼んだ。
「残念ですけど、今日は帰りますか」
携帯を学生ズボンのポケットにしまいながら言うと、先輩は「じゃーん」と効果音つきで財布から何かを取り出した。
「全市共通無料入浴券あるから、温泉行かない?」
噴煙をあげる活火山が見える土地だけあって、このあたりには温泉が多い。地元民の認識では銭湯=温泉だ。家に風呂があっても毎日通う人も多い。僕も当然嫌いではない。
「このあたりだとどこですか?」
いろいろあるよ、と先輩はいくつかの温泉名を挙げ、最後に「涙橋温泉はどう?」と言った。涙橋は、二つくらい先にあるバス停だ。
「わかりました」と答えると、先輩は駐輪場に僕を誘導した。止めてあった自転車の前かごにバッグを押し込み、サドルに跨って「どうぞ」と僕を振り返った。
「先輩、ニケツはやばいです。道交法違反です。制服でやったら、すぐ学校に通報されます」
「硬いこと言うなよ松元クン」
「うちの父、警察官なんです」
そうか、と先輩は肩を落とし、結局、自転車を押しながら歩いていくことになった。
プールからさらに歩いて十分と少し、橋を渡ってすぐの川縁に、涙橋温泉という大きな看板がかかっていた。時間帯のせいか入浴客もほとんどいなくて、貸し切り状態だ。
大きな湯船にのびのびと浸かったところで、「先輩、この間から少し気になってることがあるんですけど」と、僕は切り出した。
「何?」
浴槽の縁に頭を載せて湯の中に寝そべっていた先輩は、リラックスしきった顔で僕を見る。
本当はプールで聞こうと思っていたけど、ここでもいいだろう。晴れた日曜日の真っ昼間なんだから、何を聞いても今ならたぶん大丈夫な気がする。
「僕に、何か……というか誰か憑いてたり、します?」
「ついて?」
先輩の表情が、不思議そうなものに変わった。
「例えば、小さい男の子とか」
プールのロッカーで着替えてるとき、プールサイドで準備運動をしている僕を見るとき、先輩は必ず一度、僕の腰の横あたりに目をやるのだ。股間ではない。それにしては位置がずれているし、思わず何度も見てしまうほど大きくもない。
むしろ、僕の後ろに小さな子どもが隠れていたら、ちょうどああいう視線の角度になるのではなかろうか。
そのことに気づいた僕は、思い切って母に尋ねた。父は当直でいない夜だった。
「母さん、ひょっとして僕には兄さんか姉さんがいたんじゃない?」
お茶を飲んでいた母はふっと微笑み、何かを思い出すような表情で言った。
「そういえば、あなたにはお兄さんが一人、いたのよ」
兄と僕は十歳違いで、途中に一人いてもおかしくない。というより、いるほうが自然だ。
「いや、俺はそういうものは見えない性質だけど?」
湯の中に座っている僕を、先輩が不審そうに見上げる。
「じゃあ、時々僕の後ろの空間を見てるのはどうしてですか? 腰のあたり」
「ああ、あれか」
ざっと湯を切って先輩が半身を起こし、こちらを向く。
「出っ張ってるとこって、なんだか気にならない? 変な形してるなー、って」
「そうですか?」
「耳とか、鼻とか、唇とか、鎖骨とか……腰骨、とか」
先輩の言葉とともに視線が移動するのがわかった。腰骨の次の出っ張りがどこか思い当たり、湯の中で僕はとっさに股間を隠した。
「そこは別に見たくないよ」
声をあげて笑う先輩を軽く睨んだ。上気して赤くなってる耳とか、小さく汗をかいた鼻とか、うっすら開いた唇とか、しずくの張りついた鎖骨とか。なんか……よく考えると、ちょっとエロい場所ばかり?
でも、腰骨、はなあ。うーん、確かに出っ張ってはいるけど。
「出っ張ってるとこって触りたくなるんだよね、スイッチみたいで」
首を傾げている僕の鼻を、先輩の指が押す。お湯に浸かっていた指は濡れて熱かった。
その夜、父が風呂に入っている間に、母を問いだたした。
「あら、嘘はいってないわよ」
「母さん、過去形で言ったよね。あんな言い方されたら普通死んでる誰かだと思うだろ。兄さんはまだ生きてるし」
「あんたにとってはずっとお兄さんでも、私にとっては死んだも同然よ。弘基は私の息子をやめて、絵里香さんの夫になったようなもんなんだから」
母と兄嫁は仲が良く、電話やメッセージのやりとりも頻繁にしていたので、嫁姑の問題はうちには縁がないのだと思っていた。しかし、実際は根深いものらしい。
次の日曜日、母とのやりとりを報告すると、先輩は大笑いした。
「松元ってオカルト好きなの?」
隣のレーンの人がゆっくりしたクロールで泳ぐのを見ながら、ようやく笑いが収まった先輩が僕に聞く。
「そういうわけじゃないんですけど、母が好きで、よくそういうテレビ番組を見せられてたからかな」
「理系なのに?」
先輩はちょっと意地悪そうに口元を歪めた。そんな顔をしても、やっぱりイケメンはイケメンだった。
「科学は、わからないことを解明するためにあるんですよ、先輩」
悔し紛れに返すと、そうだね、と先輩はまた笑った。
僕の後ろの小さな子どもも、笑っているような気がした。
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