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第3話 銀色の句点(1)

 沖縄はもう梅雨入りしたというけど、本土はもう少し先の話だ。  数日前から道路に降り積もった火山灰は車が通るたびに舞い上がり、いつか見たテレビの西部劇のように、町全体がほこりっぽくくすんでいる。だけど、僕たちの上にはみずみずしい五月晴れの青空が広がって、濡れた髪も乾きかけていた。  模試のなかった先輩と部活を午前で終えた水泳部員の僕は、昼過ぎに落ち合って市営プールで一泳ぎしてきたところだ。  来月になればプール開きだから、学校のプールが使える。先輩も受験生だから、のんきに泳いでるヒマなんかなくなる。そしたらもう、こんなふうに一緒にプールに行くこともないのかもしれない。今度の予選会に部の誰が出る、なんてことを話しながら、楽しそうな先輩の横顔を見て思った。 「あと十分くらいだからね」  笑顔のまま、先輩がこちらを向く。  さっきプールのロッカールームで着替えながら、腹が減ったという話になった。 「じゃあ、うちでおやつでも食べる?」 という先輩の提案に、僕はありがたく応じることにした。行ったことのない先輩の家にも興味はあった。  このあたりは大学に近く、路面電車と車が併走する大通り沿いには飲食店が何軒も並んでいる。それが途切れたあたりに、歩道にはみ出すように野菜を並べている店があった。缶詰やカップ麺も段ボール箱に入ったまま、派手な蛍光色の手書きの値札がついている。  スーパーのようなちょっと違うような変わった感じの店で、僕がめずらしそうに見ながら通り過ぎようとしていると、「寄ってく?」と、先輩が僕の腕をつかんだ。  店の中は雑然としていて、じいさまの住む田舎の食料品店のようで少し懐かしい。しかし、店の中央に何かふたの閉まった大きなケースが縦列していて、覗き込むと鶏肉や春巻やインゲンの大袋が白く凍っているのだった。 「ここ、小売りもやってるけど業務用の卸売店なんだよ。お菓子やジュースも売ってるから何か買って帰ろう」  先輩は僕の手をつかんで店の奥に向かおうとしたが、散歩の途中で座り込んだ犬のように僕が動かないので、慌てたように手を離した。 「先輩んちって、卵と牛乳、ありますね?」 「……あったと思うよ」  育ち盛りの中高生男子が生息する家庭においては、必須アイテム。常備してないわけがない。 「おやつ、ホットケーキにしませんか?」  壁際の箱に貼り付けられた「一袋五十円!」の黄色い値札を僕は指さした。  「おじゃましまーす」と玄関先で大声を出した僕の前に、「今日は誰もいないって言っただろ」と笑う先輩が、来客用のスリッパを置く。  先輩の家は、一軒家でもなくマンションでもなく、小さいビルだった。一階が駐車場、二階が何かの事務所、三階と四階は単身者向けのマンションで、一番上の五階はまるまる先輩の家なんだそうだ。 「着替えてくるから、ちょっと待ってて」  通された居間に僕を置いて、先輩はいなくなった。  でっかいテレビと寝心地良さそうなソファ。大きい窓からは、建物の間に火山の噴煙がかすかに見える。居間と続きの台所の前には四人掛けのテーブルがあった。  すぐに戻ってきた先輩はTシャツとジーンズで、僕も家では似たような格好をしているはずなのに、あか抜けて見える。  どこが違うんだろうと僕が首をかしげているうちに、先輩はホットケーキの袋の説明書きを見ながら道具と材料を揃え、ボウルに入れた材料を泡立て器でかき混ぜた。台所のテーブルにセットしたホットプレートの上で、バターを軽く右往左往させた後、ボウルからお玉で生地を垂らした。クリーム色の円が四つ広がる。  ゆっくりと気泡が弾けて甘い匂いが漂ってくるのを、僕は子どものようにわくわくしながら椅子に座って見ていた。 「そうだ、純生、これが何かわかる?」  食器棚の引き出しを探っていた先輩が、フォークと皿を僕に手渡しながら、もう片方の手でつまんだ小さな袋を見せた。銀色の粒がたくさん入った、十センチくらいの細長いプラスチックの袋だ。これ、見たことがある。つい眉間にシワがよった。 「仁丹ですか?」  小さい頃、親戚のおじさんが口に入れているのを見て、お菓子と間違えてねだったことがある。咳が出るとよくばあさまに飲まされてた咳止め薬と似た味がして、ティッシュに吐き出したら笑われた。 「アラザンていうんだ。砂糖でできてるんだって」  先輩は袋を破って、数粒てのひらに乗せ、ホットプレートごしに僕のほうに差し出した。  僕は先輩の手に顔を近づけた。仁丹特有のあの匂いはしない。思い切って口を開き、舌先にくっつけるようにしてちょんと粒を舐めとった。  確かに甘い。けど、砂糖のガツンとくる直接的な甘さではなく、もっとぼやけた甘さだ。口の中で転くがしていると、硬そうなイメージとは違い、どんどん小さくなってあっけないほどすぐに消えた。 「ほんとだ。甘い」  そう言って目を上げると、先輩が僕を見つめていた。最初は睨まれてるのかとぎょっとしたが、少し笑ったような、脱力したような、微妙な表情で、何度かまばたきをした。それから自分の左手を見て、僕を見て、もう二セットそれを繰り返し、なにか言いかけたところで、他の何かを思いだしたように立ち上がって僕に背を向けた。 「飲み物、コーヒーでいい?」 「……はい」  やかんに水を入れる先輩の後ろ姿を、さっきのあれはなんだったんだろうと不思議に思いながら、僕は見ていた。  だが、そんな疑問もホットケーキが焼き上がった瞬間、吹き飛んだ。  バターの白いかたまりを乗せると、あの独特の香りがほわっと立ちのぼって、黄色い液体になって生地にすうっと吸い込まれる。次に、容器に入ったはちみつをたっぷり垂らす。きつね色の生地の上に、とろりと半透明の膜が広がり、縁から流れ落ちる。仕上げにアラザンを振りかけると、銀色の粒がきらきら光った。 「あ、キレイ。ホットケーキじゃないみたいだね先輩」 「だろ?」  先輩はどや顔で自分のホットケーキにもアラザンを振りかける。 「いっただっきまーす!」  一緒に合唱して、同時にかぶりついたホットケーキは、噛むとアラザンがサクサクした感触を残す。確かにただのホットケーキなのに、もっと特別な何かみたいだった。 「先輩、おいしいですねえ」 「そうだねえ」  コーヒーをブラックで飲んでいても、そう言う先輩は小学生みたいな笑顔だった。きっと僕も同じようなガキんちょ面だったに違いない。  ホットケーキを食べる僕たちは、いつも子どもに戻るのだ。  きっと十年経っても。二十年経っても。

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