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第5話 男の合格点
革靴は蒸れる。運動靴は雨が染みる。
いっそサンダル通学が認められればいいのにと思う、温かい雨の季節が始まった。その最初の日曜、僕たち水泳部員は学校のプールを掃除をした。
夏は風向きのせいで、火山の噴煙が僕らの住む街のほうに流れる。その降灰を避けるため、体育館の一階部分の屋内にプールは作られている。他の高校に行った友だちに聞いたところ、体育館は二階建てで、二階が運動場とステージ、一階が室内プールと、公立高校は大抵そういう造りらしい。
小中学校は未だに露天のプールが多く、オフシーズンも水を張ってある。水中に降り積もった火山灰と枯葉と大量のおたまじゃくしを、プール開きの前に排除するのはいろんな意味で大変だった。最近では補強工事によって、いつも水を張っている必要がなくなり、掃除も簡単になりつつあるらしいのだが、僕はその恩恵にあずかることなく義務教育を終えた。
だから、中学の夏休みの一日体験入学でこの学校のプールを見たときは「高校ってすごい!」と感動したものだ。
水泳部のオフシーズン活動――筋トレやストレッチもプールサイドでやっているから、いつも掃除もやっている。改めてプール掃除といっても昼には終わった。
水が溜まるまで時間がかかるので、今日は泳げない。部活はいつも通り昼で解散になるが、掃除に参加した部員たちには、体育教官全員からの厚意により、ケーキがふるまわれるのが恒例だ。
プールサイドに置いた会議用机からは、イチゴロールの甘い匂いがする。一切れとって窓の外に目をやると、校舎の二階の教室に灯りがついている。
昨日と今日の二日間、三年生はセンター模試だ。今の時間は試験を終え、自己採点の最中のはずだ。
来年は我が身だと思うと、少し湿度にやられた気分になる。
「松元、昼飯は?」
山田島がウーロン茶の入った紙コップを渡してくれた。頭も気もいいやつで、一年のときから同じクラスで席も隣なこともあり、いろいろ助けてもらっている。宿題写させてもらったり、マンガ貸してもらったり。
「弁当持ってきた、お前は?」
「小園たちと天街(てんまち)でランチ」
会議机の近くでケーキを食べている女子部員のグループを目で示し、山田島がにこっと笑った。
「お前も行く?」
笑顔で首を横に振りながらも、少し心配になる。
こいつ、義理堅くて本当にいいやつなんだが、一度に発する言葉は基本三語以下なのだ。女の子とのコミュニケーションは成り立つのだろうか?
「市営プール?」
三語以内の問いにうんうんと頷くと、山田島は「だれんごなあ」と年寄りみたいなばりばりの方言で僕の身体を気遣い、女子たちのほうに近づいて行った。華やかな笑い声がやつを迎える。
モテるのかな山田島。脊、高いもんな。うちのオヤジと兄貴には負けるけど。
顔もいいもんな。中村先輩には負けるけど。
さっきとは違う意味で、気分が湿ってきた。
だけどそんなこと、泳げば忘れるのだ。
一時間後、模試が終わった先輩と僕はプールに向かった。
先輩も試験でストレスが溜まっていたのか、二人してガンガン泳ぎまくって、また誰もいない先輩んちでおやつ(今日はお好み焼き)をごちそうになって、先輩の部屋を見せてもらったりしてたら、いつの間にか爆睡していた。先輩のベッドで。正確にいえば、ベッドカバーの上で。
僕が目を覚ましたのに、先輩はすぐ気が付いたようだった。
机に向かっていた青いTシャツの肩が動いて、こちらを向く。
「おはよう。よく寝てたね」
朝の挨拶の言葉に、ぼんやりと辺りを見回す。雨模様だから暗いけど、まだ日没という感じじゃない。安心して、持ち上げかけた頭をベッドに落とす。
「先輩、このベッド、なんかすっごい寝心地いい。僕が不眠症になったら、寝に来ていいですか?」
「いや、三十秒で寝る男に不眠症はありえないだろう。それに、そのとき俺はどこに寝ればいいの? 床?」
椅子に片腕をかけてこちらを向いたまま、先輩は困ったような顔で笑った。
「一緒に寝ればいいじゃないですか。先輩ちょっとこっち来て、寝てみて」
へへっと笑って手招きをしてみたら、先輩はおとなしく僕の横に寝転がる。少し狭いけど。
「ほら、大丈夫」
先輩の腕をぽんぽんと叩いたらとたんに、また眠くなってきた。その気配を察したのか、先輩は飛び起きると部屋から出ていった。
すぐに戻ってきた先輩は、コップを僕に差し出す。まだぼーっとしている僕は起きあがって、アリガトウゴザイマス、とロボットみたいにぎこちなく頭を下げ、何も考えずに口をつけた。コーヒー牛乳だ。一気飲みすると冷たくて甘くて、少し目が覚めた。
ベッドの上で膝を伸ばして座っている僕の方を向いて、先輩はベッドの縁に腰かけた。
「小犬とか子猫って暴れてるなーと思ってたら、電池が切れたみたいに寝るよね。純生も、乾電池入ってるんじゃない? このあたりに」
軽く触られてしまった。
友だち同士、冗談やおふざけはあるから怒ることでもないんだけど、ちょっとびっくりした。おかげで完全に目は覚めた。
「……先輩」
「単三かな?」
先輩はにやっとした。
「失礼な。せめて単二って言ってください」
一緒に温泉行ったときにサイズをチェックされていたかと、今更ながら恥ずかしくなってきた。僕は胡座をかいて、腹の前で空いたコップを両手で持って、さりげなく隠すようにしてみる。
そのコップを取り上げた先輩が、覗き込むようにその部分に視線を送る。
「気にしてるみたいだね」
「そりゃ、まあ男のコ……カン? に関わる問題ですから」
もぞもぞとベッドの上で体育座りをしてガードする僕を見て、先輩が吹き出す。
「純生くん、もっと本読んだ方がいいよ。何か借りていきなさい」
空のコップを持って部屋から出ていった先輩は、しばらくして2冊の文庫本を持ってきた。ちょうど図書室で借りた朝読書用の本も読み終えるところだったので、ありがたく借りて帰ることにする。
玄関で靴を履いていると、先輩が「大丈夫だよ純生は」と背中から声をかけた。「はい?」と尻上がりに振り向いた僕に、先輩は言った。
「平均的な成人男性の使用前の太さは、単一電池と同じくらいなんだってさ」
家に帰った僕がまずやったことは、懐中電灯から取り出した単一電池と比べてみることであったのは言うまでもない。
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