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第27話 藍に乱点(おまけ)
「S? 先輩、Sなんですか?」
「……うん」
驚いた僕の声に、なんだか恥ずかしそうに夏服の中村先輩がうつむく。
「遠慮しなくてもいいんですよ?」
「いや、遠慮はしてないんだけど……」
「僕はMです」
堂々と宣言する僕に、「がんばれ、純生」と先輩は小さく拍手した。
「そんなに大変でもないですよ。あ、すみませーん」
繁華街の本店に比べると、駅ビルの地下の店は小さい。声をかけるとすぐに店員さんが来てくれた。
「普通の白くま、MサイズとSサイズ、ひとつずつ」
夏休み中とはいえ、平日の午後四時過ぎという時間帯のせいか、席はそれなりに空いている。注文を終えて見回すと、駅ビルらしく、出張帰りの列車待ちのようなスーツのおじさんや、いかにもバカンス中というようなカップルがぽつぽつと座っている。食べているのは、みんな、フルーツやいろんな色の寒天が載ったかき氷――――白くまだ。
白くまといえば、この店が有名だが、実はあちこちの食堂や喫茶店でも食べられる。それぞれにトッピングや練乳シロップの味に違いがあるらしく、夏になると地元局のテレビ番組でも特集が組まれるほどだ。白くまといっても、チョコレート、ストロベリー、ヨーグルトに宇治金時など、種類はたくさんあって迷いそうなのだけど、なぜかいつも頼むのは普通の白くまばかりだ。
八月に入ってすぐのある日、駅ビルの上の階にある書店で英語の参考書を選んでもらうお礼という名目で、先輩を誘って地階のこの店にやってきた。そうでもしなければたぶん、先輩は僕におごらせてなんかくれない。
「純生、英語苦手なんだ?」
冷水の入った僕の目の前のグラスよりも涼しげに先輩が笑う。その後ろのクリーム色の壁には、青地に店名と七匹のクマが白ぬきされた絵のプレートが飾ってある。
旅行客や買い物客の途切れない通路側から先輩の後ろまで、一人用の席がL字型に並んでいる。壁に向かって黙食のスタイルだ。一人で来るお客も多いんだろうか。
この店は、お好み焼きや鉄板焼も注文できる。でも頼むのは白くまだし、向かい合わせの二人席じゃなくてそっちの席でもよかったかな、と思ったけど、この席を選んだのは先輩だ。後輩としては逆らうわけにはいかない。
「国語も苦手ですよ。特に現代文と古文」
なかでも、詩とか短歌とか俳句とか、苦手だ。昔からあの世界はよくわからない。
「どの教科が得意なんだっけ?」
「数学は、割と。あと、化学かな」
「ほんとに理系だね」
先輩と同じクラスの姉を持つ、水泳部副部長・佐野の情報によれば、中村先輩はオールラウンダーで、数学も得意らしい。経済学部志望だし。
「そういえば先輩、来週、十日の夜って予定ありますか?」
「……特にないけど」
「あの、うちに遊びに来ませんか」
三年生は忙しい。断られるかもしれないと、どきどきしながら言うと、先輩は少し驚いた顔をしながらも「大丈夫だと思う」と答えた。
「でも、なんで夜? ご両親が旅行に行ってひとりきり、とか?」
ひとりで留守番するのが怖いの? とでも言いたそうに、先輩の目が細くなった。
「そうじゃなくて! うちの母が、あの、いろいろお世話になってるから、お礼をしたいと言っておりまして……浴衣も借りたし、なんかほら、今日は参考書も選んでもらったし、食事をしに来ないかと」
冷や汗が出そうだった。
実は違うのだ。先日の六月灯の画像を見た母が、どうしても実物の先輩を見てみたいと言いだしたのだ。
「母が餃子も作るって言ってますので」
「餃子?」
先輩が怪訝そうな顔をする。
「あ、うちの母の餃子、美味しいんです。めんどくさいって滅多に作ってくれないけど」
先輩ごめんなさい。
あのイケメンの先輩を家に連れてきたら、餃子をいくらでも食べさせてやると母さんが……。
餃子のために、先輩を売ってしまいました!
後ろめたさにうつむいていると、楽しそうな声が聞こえた。
「ふーん、純生んちの餃子か」
「嫌いなら無理にとは」
「いいよ。餃子大好きだから」
慌てて顔をあげると、先輩はにこにこしていた。
「ありがとうございます! 帰りは送っていきますので、母が!」
「わかった。俺もうちの家族には話を通しておくよ。あ、ほら、来た」
先輩が僕の後ろを見ながら、あごを上げてみせた。
「白くま、Sサイズのお客様~」
はい、と先輩が手を上げた。先輩の目の前に、こじんまりサイズの、僕の前には見覚えのあるサイズの白くまがそれぞれ置かれる。
伝票を置いた店員さんが行くと、先輩はスプーンを手にした。
「じゃあ、今日はごちそうになるね」
「はい、どうぞ」
僕もスプーンを手にする。白くまは、年に一回くらい、家族で繁華街の本店のほうに食べに行くけど、今年はまだだった。
白い平皿の上のガラスの鉢に、こんもりと盛られた練乳がけのかき氷。それが白くまだ。
てっぺんに赤い缶詰のチェリーが、その周囲に三粒置かれた干しぶどうが白くまの顔に見えるから、とも言われているが、僕にはそうは見えない。小さく切ったメロンとスイカがボリュームのある山に一切れずつささっていて、白い側面には赤や緑のカラフルな寒天と、缶詰のみかんやパイナップルのオレンジや黄色が万遍なくちりばめられ、かなりにぎやかだ。
僕はチェリーを最初に口に入れ、久しぶりにこれを食べたなと思った。次にメロンとスイカを片付ける。先輩を見ると、チェリーは残したまま、やはり生フルーツから手をつけている。食べなれた地元民ならば先鋒・生フルーツは定石の戦略だ。重みのあるフルーツがささったまま本体に手をつけると、バランスを崩した壁面が決壊し、下皿へと氷がなだれ落ちる可能性があるのだ。もったいない。
そっと側面にスプーンを入れると、軽い手ごたえと一緒にたっぷり練乳のかかった氷が銀色のスプーンの上に落ちる。それを口に入れると、練乳とシロップを調合しているのだろう、練乳だけとは思えない軽やかな甘さが、冷たさと一緒に広がった。
どんどんスプーンを進めると、エアコンでも消せない暑さが引いていくのがわかる。
「純生、食べきれそう?」
ふう、と体の中にたまった冷気を吐き出すように、先輩が息をついた。
「大丈夫です」
途中の寒天や缶詰フルーツで冷たさも一時中断されるので余裕だが、サイズが小さいせいか、食べるペースは先輩のほうが速かった。もう、ガラス皿の底のほうを探っている。
「白くまって一個だけ豆入ってるじゃない。大きいやつ」
「ああ、十六寸 ですね。あれ、うちの母が大好きなんですよ」
「俺も、好きなんだよねこれ」
見つけたクリーム色の大きな豆を、おいしそうに先輩はほおばった。和菓子より洋菓子党に見える先輩だが、意外と和菓子派かもしれない。
十六寸は二、三センチくらいの白い豆を甘く煮たもので、母方のばあちゃんの作るおせちにも必ず入っている。僕はといえば、母の実家に行くたびにばあちゃんがもたせてくれるので、嫌いではないが、年に一度、正月に食べるだけで十分な感じだ。
それより、早く白くまを食べてしまわないと、もうすぐ食べ終わる先輩を待たせてしまう。
と、焦ったのがいけなかった。
「う……」
スプーンを置いてこめかみを押さえた僕に、「あったかいお茶もらおうか」と先輩は声をかける。
「いえ……いいです。それより、先輩、これ食べてください」
氷の中からわずかに顔をのぞかせた豆を指さす。
「いいよ。純生が食べなさい」
「先輩、食べてくださいよ。好きなんでしょ」
どうぞ、と鉢ごと押しやるが、先輩は首をふる。
「はい。あーん」
仕方ないのでスプーンですくって先輩の口元に持っていくと、思わず、というように先輩は食いついた。そんなに好きなら遠慮しなくてもいいのに。
少し恥ずかしそうな、困ったような、微妙な顔で黙ってもぐもぐしている先輩を見ていると、なんだかおもしろくなってきた。鳥の雛にえさをやるのってこんな感じかもしれない。
「僕まだ頭痛いんで、もうちょっと食べてください」
「え、いらないよ」
「はい、あーん」
問答無用でスプーンを差し出すと、先輩ははむっと食べた。
「もうちょっとお願いします。はい、あーん」
ごくんと飲み込んだあと、「あーんはやめて、純生」と先輩はささやいた。僕はなぜかおもしろくて仕方なかった。
「じゃあ、あと三口くらいお願いします」
先輩は黙って三回、口を開いてくれた。
白くまのいいところは、氷の途中にも底にもたっぷりと練乳シロップがかかっていることだ。あと、底のほうにも寒天や缶詰フルーツが埋まっている。
さて、頭痛もとまったことだし、白くまの残りを食べようかな。
なんだか恥ずかしそうな先輩の顔を見ながら、ゆっくりと。
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