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第1話

 東方には深い森に囲まれたシキという小国がある。大国が近隣にありながら、自然の手によって守られてきたこの小国では、王ズハンの統治のもと、穏やかな時が流れている。  シキの王や貴族は、城塞の内に住み、人々はそこを門内と呼ぶ。そして、庶民が住む町や村を門外と呼んだ。  ジン・リキョウは門外の子だ。今年で十歳になる。父は町の役所の書記で、母は実家の団子屋を手伝っていて、町一番の親切夫婦として評判だ。慎ましい両親はリキョウを甘やかすことはなかったが、溢れるくらい愛情を注いでくれた。  父のように勤勉で、母のように穏やか。しかし、小柄でひ弱な印象を与えるリキョウについて、ジン家の跡取りには頼りないと言う人も少なくない。だがリキョウは、両親にとって自慢の息子だ。謙虚な二人は誰にもそんなことは言わないけれど、父と同じように、書記になりたいといって毎日習字に励むリキョウを、二人は心底誇りに思っている。  午前は毎日学舎へ行き、昼になると家に帰って習字というのがリキョウの日常だ。真面目生徒として教師の覚えは大変良く、学業では随分目立つ。しかし、小柄なうえに走るのも遅く、力も弱くて口数も少ないので、いじめられることもしばしば。嫌がらせをされても言い返さないから、学舎の門を通った途端に、足をひっかけられてこけるのはいつものこと。目の前で遊ぶ約束をしているのにリキョウだけ誘われず、あからさまにのけ者にされるのも日常の一部で、せっかく書いた文を隠されたり、貶されたりするのもそうだ。  そんな日々を、両親に話すことはなかった。ひ弱な見た目につけこまれていると、言いたくなかったからだ。  リキョウの悩みを両親は知っていたが、無理に聞きだすようなことはしなかった。しかし母は、おとなしいリキョウの服に開いた不自然な穴や泥汚れを直しては、独り言のようにこう言った。 「知識は力だからねえ」  幼いころは、その意味がよくわからなかった。だが何度も聞くうちに、徐々に理解していった。  勉学に励み、成果をあげることで、リキョウは力を手に入れている。着実に力を蓄えているのだと、母は自信を与えてくれていたのだ。そして、見えない力はときに周囲の妬みや反発を誘ってしまうことも、静かに教えてくれていた。  勉強と習字は力になる。母の独り言はリキョウの信念に繋がって、学舎に通う足を軽くさせた。けれど、揶揄も嫌がらせも悔しいのは変わらなかった。多勢に無勢でどうしようもなく、どうしても悔しかったり寂しかったりするときは、近くの森にある沢に行った。母の背丈ほどの小さな滝があるその沢で、きれいな石を探し、その中でも特にきれいなものを、平らな岩の上に並べていく。そうして気持ちが落ち着いたら、全部を川に投げる。リキョウが頑張って探したきれいな石を、他の誰も見ることができなくなるからだ。どれほどきれいな石でも、宝石でもなければ砂金でもなく、なんの価値もないのはわかっている。それでも、自分がきれいだと思った石を、他の誰も見られない場所に投げてしまうことで、意趣返しをした気分になれた。  その日は、武術の稽古に通っている男子数人に、お前は来るなと言われた。リキョウは父と同じ書記になりたいから、武術の稽古に行く気など最初からない。みんなわかっているのに、身体が小さくて力も弱いから、稽古に来ると周囲の迷惑になるとわざわざ言われた。  初めてのことではない。けれど、やっぱり悔しくて、授業が終わるや否や家まで走って帰った。荷物を置いて、母が間食用に置いていってくれていた団子を持ったリキョウは、誰にも邪魔されないように速足で沢に向かった。近くにもっと広い支川があるから、ここで人に会うことはまずない。だから、同じ年ごろの男子がいて、リキョウは心底驚いた。 「やあ」  平らな岩に座っていた男子は、笑顔でリキョウに声をかけてきた。 「ここは誰も来ないな」  しばらくこの沢にいたらしい、その男子に見覚えはまったくなく、同じ町の子供でないことはすぐにわかった。  きりっと力強い目元と鼻筋が印象的な男子だ。片膝を立ててゆったり座っているが、特に持ち物もないようで、どうして一人でこの目立たない沢にいるのか気になった。 「何をしているの」 「散歩の途中で疲れたから、一休みだ」 「森に一人で入ったら危ないよ」 「お前だって一人じゃないか」  間髪入れずに返した男子は、あっけらかんと笑った。よく見ると、男子の着ている紺色の上着や、脱いで置いてある靴は上等なもののようだ。特に靴は、リキョウの草鞋と違って、革靴だった。  裕福な家の子なのだろう。遠慮のない話し方は、生まれ育ちのせいかもしれない。  一人で静かに、誰にも邪魔されずに団子を食べて、石を探したかったのに。母の実家の団子は町一番と評判で、リキョウの大好物だけれど、上等な食事を知っていそうなこの男子の前で広げたくなかった。万一みすぼらしいとでも言われたら許せないからだ。この沢は、リキョウのきれいな石がたくさん隠れた大切な場所だから、ここで嫌な思いはほんのすこしだってしたくない。 「散歩は続けないの」  一応訊いてみたが、男子は靴を脱いでいて、すっかり寛いでいる。 「しばらく休むつもりだから、俺に構わず行っていいぞ」 「そう言われても、僕の目的地はここだったんだ」  いつものように、一人で滝を眺めて団子を食べたかった。これ以上を一人で進むのは危険だから、このまま留まるか、引き返すしかない。  団子は葉で包まれているけれど、そろそろ食べないと固くなってしまう。二本あるから、一本分けてみようか。黙って食べるかもしれないし、この団子のおいしさがわかるやつかもしれない。  迷っていると、男子が話しかけてきた。 「何をしにここに来たんだ」  迫力のない滝は、目的地にするには物足りない。誰だってそう思うだろう。しかしここは、リキョウにとって大切な場所だ。 「この滝が好きなんだ。小さくて、音も立てないから、誰も見にこない滝だけど。雨が降らずに困る年も、なぜか絶対に涸れないで流れ続ける。逆に、大雨のあとも、穏やかに流れるんだ。目立たなくても、小さくても、立派な滝だから、嫌なことがあったときとか、天気が良い日はここに来るよ」  そして、この川底にはきれいな石がたくさん隠れている。石のことは、誰にも話したことがないから、この名前も知らない男子には教えなかった。 「そうか。涸れず、暴れずの滝か。確かに良い滝だ。俺も好きになった」  明るく笑った男子は、本当にこの滝が気に入ったようだった。 「お団子、食べる?」  悪いやつだとは思えなくて、懐から団子の包みを出すと、男子はぱっと目を輝かせた。 「いいのか。ありがとう」  串に刺さった団子を、男子は嬉しそうに手に取った。 「腹が減っていたんだ」  豪快に一玉口に入れた男子は、「うーん、うまい」と唸った。 「もう一本もあげるよ」 「それはいい。本当は両方ともお前の……、名前は何というんだ?」 「リキョウ」 「本当は両方ともリキョウのだから、もらえない。だがこの団子はうまい」  町一番の団子といっても、庶民の団子だ。身なりのいいこの男子が気に入るかどうか不安だったが、大喜びで食べているのを見ると気分が良かった。 「君の名前は?」 「ユーハンだ。よろしくな」  あっという間に団子を平らげたユーハンは、小さい口ですこしずつ団子を齧っているリキョウを見た。 「嫌なことがあったのか」  遊びたい盛りの年ごろなのに、リキョウは団子だけ持って一人で沢に来て、しかもさっき、嫌なことがあるとここへ来ると言った。問題があったのは明らかで、ユーハンは気にしてくれているようだ。 「僕は今年で十歳だけど、そんなふうに見えないだろう。だから、よくからかわれるんだ」  男は強く、大きく育つのが良いとされているから、リキョウがなぜからかわれるかも、ユーハンは察したようだった。 「そうか」

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