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第6話
文官の試験とは、年に一度催される、門内の役人になるための試験だ。国中から学問に覚えのある者が集まる一大行事だが、実際にその試験から文官になった者はいないと言われるほどの難関試験として有名だ。
町の役所の書記も誇らしい仕事だが、なれるなら文官になりたい。文官になっても、そこからさらにある程度の地位に就かなければ門内に居することはできないけれど、堂々と門を通ってよい身分になれる。そうすれば、今のようにユーハンが門外に会いにきてくれるのを待つばかりではなくなるからだ。
「年齢になれば受けるとよい」
「精進します」
書く字がきれいなだけでは到底受からないから、受験できる十九歳になるまで勉学に励まねばならない。教本は高価だから、どこまでできるかわからないけれど、努力を重ねれば道は拓けると信じたい。
頭を下げて、笑顔で顔を上げると、ズハンはとても満足そうだった。
「良い子だ。シキの国の将来も明るいな」
わははと笑った王は、報奨品の筆を渡すよう、廷臣を促した。
「ありがとうございます」
木箱に入った立派な筆を受け取ったリキョウは、お辞儀をして席に戻った。
「実に有意義な書写会だった」
上機嫌で立ち上がった王ズハンは、参加者を労いつつ中殿から去っていった。その後を追う廷臣たちが去るまで、頭を下げていた子供たちだったが、最後に教師が中殿を出た途端、何人かが立ち上がってシュインを囲んだ。
「あんな庶民にシュインが負けるはずがない」
「貧乏人に筆を恵むための口実だろう。シュインが損をさせられるなんて、ひどい話だ」
わざと聞こえるように言っているのは、考えなくてもわかった。否定もしないし、書字で目立って嫌味を言われるのには慣れているので、リキョウはただ退場する頃合いだけが気になっていたのだが、嫌がらせに腹を立てたのはユーハンだった。
「聞こえているぞ」
立ち上がったユーハンは憤りを露わにしていて、シュインの取り巻きは気まずそうに俯いた。しかし一人は、自分たちの正当性を訴えようとする。
「王のご慈悲があったと言っただけです」
「お前は悪気がなかったとでも言うつもりか」
図星を指され、押し黙る取り巻きを一瞥したユーハンは、シュインを見た。
「シュイン、お前は負けを認めているのか」
酷にも感じられる問いにリキョウのほうが肩を竦めた。が、直後、信頼が込められていたことに気づく。状況に難癖をつけるのではなく、まず自分に目を向ける度量がある友人だと信じているから、ユーハンは訊けたのだ。
「はい。精進が足りなかったと思っています」
悔しさを隠さずにそう答えたシュインを、気丈だと思った。正当な自信と判断力、そして真の実力があることが、負けを認められる度量によって示されている。ユーハンも期待を裏切らないシュインをまっすぐ見ていた。
「本人がこう言っているのだ。お前たちは黙っていろ」
普段はおおらかで奔放な王子が、確固たる威厳を放った。離れた席のリキョウですら、心臓が強く打つのを感じ、目の前にいるシュインの取り巻きは相当焦っている。
誰かが言い訳をしようとして、ユーハンが掌を見せて制止する。
「シキの国は、一つの家族だ。民を貶すのなら、俺もお前を同じように扱う。覚えていろよ」
いずれユーハンが王となる国とその民を、蔑むことは許さない。言い放ったユーハンに反論する者はいなかった。
リキョウを振り返ったユーハンは、そのまま最後列まで速足で歩いてきて、成り行きを見守るしかなかったリキョウの腕を掴んで立たせた。
「行くぞリキョウ。腹が減った」
「うん」
腕を掴んだままリキョウを中殿の外に連れ出したユーハンは、腕を放すと、リキョウの顔を正面から見て、にかっと笑った。
「やったな、リキョウ。優勝だ」
今までの努力が正当に認められた勝ちだと、確信を与えてくれる笑顔だ。今日の勝因には、庶民の書字が目立ったことへの物珍しさや、多少の情けもあったかもしれない。けれど、ユーハンはリキョウ自身が勝ったと信じているから、それが嬉しかった。
「勝てて嬉しいよ」
笑って返すと、勢いよく肩を抱かれ、頬が触れるくらい強く引き寄せられた。
その瞬間、心臓がどくんと大きく打った。初めて感じる類の鼓動だ。照れに近いけれどもうすこし複雑な何かが、胸の中でいくつも弾けて、肩を抱かれているあいだ、ユーハンの顔を見られなかった。
衣装と髪飾りを返したリキョウは、懐に報奨品の筆をしまって帰路についた。
城の門をくぐり、門内を南北に貫く通りに出ると、待ち構えていたようにシュインが現れた。否、待ち伏せされていたのだ。取り巻きは連れておらず、明らかな嫌がらせをしに現れたというわけではないように感じる。じっと見据えられ、居心地は悪かったが、リキョウは自分から挨拶をしてみる。
「こんにちは」
「王子に呼ばれて門内に出入りしているのは知っている。だからといって庶民が気安く門内に入るべきではない。門外では教えないようだが、身分を考えて誘いを断るのも礼儀だ。覚えておくといい」
挨拶も名乗りもしないで、いきなりそう言い放ったシュインは、とても落ち着いていた。ただの注意といった体で、声音は冷たく鋭い。
門内の貴族として、幼なじみとして。庶民がユーハンの周りをうろつくのが気に食わないのはわかっているつもりだ。身のほどを弁えるという礼儀も知っている。しかしリキョウは、ユーハンの友達だ。
「そうかもしれない。でも、僕はユーハンが喜んでくれるなら、どこにだって行くよ」
門内、ましてや城に入るのは肩身が狭い。門外で会うほうがよっぽど気楽だ。門内に入るたびに、いつか自分のことが問題になり、ユーハンに迷惑をかける結果になるのではと案じている。けれど、友達に会いたいという純粋な願いが一番大切だと本気で思うから、ユーハンが無理を押してでも門外に会いにきてくれるぶん、リキョウも門内に来る。
「帰るね」
返事を待たずに歩き出したリキョウを、シュインが止めることはなかった。腹立たしそうなのは気づいていたが、リキョウにはどうしようもない。
友達をとられたようで気分が悪いのだろうと思う。貴族の子供の人間関係は、庶民の子とはくらべものにならないくらい複雑なのも察している。だがリキョウにそれを解決する術はない。シュインが自分と友好関係を築くつもりがないのは言われなくてもわかるし、なにより、シュインとユーハンの関係と問題だからだ。
ざらざらした気分で門を通ったリキョウだったが、町に出ると息がしやすくなった気がした。
良いことにだけ思考を集中させよう。胸元にしまってある報奨品の箱を、服の上から撫でれば、父の指導と自分の努力の成果が認められた喜びで、胸がいっぱいになった。
筆を持って帰ったリキョウは、両親にこれ以上ないほど褒められた。習字の師である父親は、目頭を熱くするほどの喜びようで、幸福を運ぶ孝行息子だと何度も言ってもらえた。
その翌日、新しい筆を使って、昼から夕方まで習字に精を出していると、父親が転びそうな勢いで家に入ってきた。
「そんなに慌ててどうしたの」
母もリキョウも驚くほど取り乱した父は、珍しく織物を抱えていた。
「さ、さっき、役所に門内の役人が来て、門内の書記職を与えられたっ」
「門内の!?」
母は手にしていた刺繍針を落としかけ、リキョウは筆を落としそうになった。本人が一番驚いていて、父は言葉がまとまらない様子で続ける。
「あさってから門内に通うことになる。これで服を縫ってくれないか。靴も、新調せねば」
織物を受け取った母は、丈を出していたリキョウの上着を慌てて畳んで、織物を広げた。
「急いで仕上げないと」
「おめでとう、お父さん」
「リキョウ、お前のおかげだ。お前の腕前があったから、門内に勤められるようになった」
「ユーハンが何か言ってくれたの?」
「王様が呼んでくださったと聞いている。書写会でリキョウが儂を師だと言ったからだそうだ。王子も口添えしてくださったかもしれない」
きっとユーハンがリキョウの腕を褒めちぎって、ズハンを乗り気にしてくれたのだろう。庶民にも有能な人間がいて、努力は評価されるべきだと話してくれた気がする。
リキョウも両親も、幸せいっぱいで笑顔が止まらなかった。母は夜なべをして上着を縫い、リキョウは翌日、母の代わりに洗濯や掃除をした。
そして、門内勤めの初日の朝、母の縫った上着を着て、新調した靴を履いた父は、とても嬉しそうに、そして誇らしげに、門内へと歩いていった。
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