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第三章 暴かれる秘密 その男①
過去というものは、たとえ捨て去ったつもりであっても、石の下からミミズのように這い出てきて、現在の平和を脅かす。そのことを、千紘は今まさに痛感していた。
その日もいつも通り、颯希に叩き起こされて学校へ行った。それなりに勉強して、放課後はゲームセンターで遊んだ。景品のチョコレートを齧りながら店を出ようとすると、いきなり腕を掴まれた。
「久しぶりだなァ、千紘」
齧りかけのチョコレートが手から滑り落ちる。
「おうおう、大事な食いモンが落ちたぜ。拾えよ」
拾わなかった。千紘は男の手を振り解いて、脇目も振らず逃げ出した。湿った感触が手首に残り、何度も何度も石鹸で洗った。
それが先週の出来事だ。あの日以来ゲームセンターには行かず、学校から真っ直ぐ家に帰るようにしていた。それなのに、今再び遭遇してしまった。あの男に。
「ようよう、ずいぶんと冷たいじゃねぇかよ、千紘クン。何年ぶりの再会だってのによォ」
颯希と住むアパートのすぐ近くまで、男は迫ってきていた。これ以上逃げられない。
「……ひ、久しぶりだな、オッサン」
声が震える。気取られたくない。
「やーっと話してくれたなァ。会えて嬉しいぜェ、千紘。にしてもオメー、デッカくなったなァ。昔はこーんなチビだったのによ」
肩に手を置かれ、強く掴まれる。逃がすつもりはないと脅しているのだ。
「なァ、いい服着てんな、千紘。昔はオレのお下がりばっか欲しがってたくせにな」
颯希が千紘のために買ってくれた服だ。サイズはぴったりで、季節が来るごとに新しい服が増えていく。
「……べつに、その辺に売ってる服っスよ」
「ほ~お? にしちゃあ、いい家住んでんな? え? おい」
男は顎をしゃくった。住所まで割れているなんて、もうおしまいだと千紘は悟った。
「一緒に住んでる若い男、アレに買ってもらってんのかァ? ちゃあんと優しくしてもらってっかァ? オレぁ心配だぜ」
ひたり、と男の手が千紘の首筋を撫でる。全身の毛が逆立った。
「ぜんぜん、だいじょぶっスよ。オレもオレで、楽しくやってるんで……」
「ン~? まぁ~、だとしてもよ。積もる話もあっからよ、ちょ~っと面貸してくンねェか?」
男は細い路地を指す。薄暗くてじめじめしていて埃っぽくてカビ臭くて、最低の場所だ。しかし、千紘は足を踏み入れざるを得なかった。
ビルとビルに挟まれた狭い道が、まるで永遠のように続いていた。青空は、遥か上空にほんの僅かに顔を覗かせているだけ。目に映る景色はくすんでいて、晴れているのに曇り空みたいだった。
「オメー、母ちゃん死んだってなァ」
男は足を止め、ポケットを弄った。
「男殺して、首吊ったってよォ。ハハ、笑えるな」
煙草を一本取り出し、その汚い口に銜える。
「男好きの尻軽女が母親で、オメーも苦労するよなァ」
積もる話ってのはそんなつまらないことか、と千紘が突っ立っていると、いきなり平手が飛んできた。倒れ込みはしなかったがふらふらとよろめくと、男は舌打ちをした。
「オメー、久々に会ったがグズは治らねーのか」
「あっ……す、すんませ……」
「火ィ! 早くしろ」
「あ、……」
火。火。火といえば、煙草の火。ライターだ。千紘は急いでポケットを探る。昔はいつだって持ち歩いていた。切らすと今みたいに殴られたし、酷い時にはもっと……
しかし、いくら探してもポケットには何も入っていない。入っているわけがない。ようやく見つけたのは、キャンディの包み紙だ。おみくじが付いていて、大吉が出たから颯希に見せようと思って取っておいたものだ。
もたもたしていたら、また叩かれた。横っ面がじんじん痛む。腫れてしまったらどうしよう。颯希にどう言い訳しよう。
「このグズ! オメーの母ちゃんもグズでノロマで、何一つ取り柄のねェ女だったけどよ、体だけはサイコーだったのによォ~。惜しいことしたよなァ~」
男はポケットからライターを取り出して千紘に放った。うまくキャッチできたことだけが、この状況における唯一の救いだ。
早くしろとばかりに男は顎をしゃくる。千紘は震える手で火をつける。しかし、手が震える上に指が滑る。全くもって何もかもうまくいかない。
カチッ、カチッ、と火花だけが虚しく散って、肝心の炎が灯らない。しまいには、ライターを落っことした。慌てて地べたに膝をつくと、ライターを拾おうとした手を思い切り踏み付けられた。
「っ……!」
「ったくよォ~。っとにグズだな、オメーはよ~。図体だけデカくなって、中身は退化してんじゃあねェのかァ~? 脳ミソかち割って調べてやろうかァ?」
ぐりぐりと踏みしめられると、皮膚が引き千切れて肉が顔を覗かせる。鮮血を溢れさせる傷口に、砂利と泥が沈み込む。
男は、千紘の手を踏み付けにしたまま、もう一本ライターを取り出して火をつけた。颯希が吸っているのとは違う臭いに、千紘は顔を顰めた。変に甘いような、それでいて苦くて、臭い。煙たい。思わず咳き込むと、さらに乱暴に踏まれた。
「オレぁよ~、オメーの母ちゃんに借金があんだ。もちろんオレが貸してる側だぜ? ま、オレも鬼じゃねェからな、いつか返してくれりゃあいいと気長に待ってたんだけどよ。死んじまったら返せるモンも返せねぇわな」
雪のように灰が降ってくる。手の上に落ちたのを、咄嗟に払い除けた。
「親の借金は子供が返すのが義務ってモンだよなァ? 学のねぇオメーにゃ分からねェかもしんねぇがよ。義務ってのは、果たさなきゃ生きてる権利すらもらえねェんだぜ」
「……しゃ、借金て、いくら……」
「五十万」
「ごっ……!?」
払えるわけがない。そんな大金。小遣い何か月分前借りすればいいんだ。借金を返すために借金をするなんて本末転倒だが、残念ながら千紘はそのことに気付けない。
「利子はつけなくていいぜェ? オレぁ優しいからよ~」
「……む、むりだ」
「ムリなこたァねーだろう。あんなご立派な家住んでんだ。50万ぽっちさっさと返してもらわねェとなァ~」
「お、オレの自由になる金なんか、全然ねぇ。ないんです。だから、そン゛ッ……!」
男は、千紘の手を踏み付けにしたまま、ゆっくりとしゃがみ込んだ。男の全体重が圧し掛かり、骨が粉々に砕け散った。と千紘は思った。
「ぁ゛、っ……」
「つまんねェことを言うなよ。なァ、千紘?」
「だ、でも……」
「オメーの小遣いなんざハナから当てにしてねェよ。一緒に住んでるあの兄ちゃん、金持ってんだろ? いいとこにお勤めしてるみてェだもんなァ? オメー、隙見て盗んでこい」
「……」
それって、泥棒じゃないのか。盗みが見つかると酷い目に遭うということを、千紘は経験上知っている。
「……み、見つかったら……」
「見つかんねェようにやるんだろうが! このボンクラが!」
「……」
できる、だろうか。颯希の財布から数万円抜き取る、なんて、そんなのリスキーすぎるんじゃないか。もっと絶対的に安全で確実な方法はないものか……
「おいおいおいおい! オメー、分かってねェんかもしんねェけどよ。そーやっていつまでもウジウジ迷って決めらンねェなら、利子つけてウン百万請求したっていいんだぜ? なァ。返せんのかよ? グズのオメーに!」
男のおぞましい顔面が迫りくる。口に銜えた煙草の火が、千紘の柔らかい前髪を焦がした。熱い。
熱い。痛い。燃える。焼ける。全てが――
「ハハ、こんままデコ焼いてやってもいいんだぜ? 昔みてェによ。カワイー顔に傷が付いちまうなァ~、ハハハハ」
「……っわ、……っ、……わが、った……」
千紘は震える声を絞り出した。赤い火種が離れていく。
「明日、同じ時間にこの場所でな」
男は吸殻を投げ捨てた。
緊張が解けたのは、男が去ってしばらく経ってからだった。ずっと息を止めていたことに気付き、千紘は大きく息を吐いた。誰もいない路地裏の、油と埃で汚れた地べたに這いつくばって、千紘は胸を喘がせた。
*
程なくして、颯希が帰ってきた。千紘はいつも通りを装って、テレビを見ながら菓子を開けていた。しかし、その中身はほとんど減っていなかった。
「お前、その怪我どうした」
颯希は一目で千紘の異変に気が付いた。その鋭さに尻込みしながら、千紘は答えた。
「階段で転んじまってよ~」
「階段で……?」
「ほら、朝急いでただろ。んで、学校の階段でゴロゴロ~ってよ。はは、バカだよなぁ」
颯希は怪訝そうに顔を歪めたが、すぐさま保冷剤をハンカチに包んで、千紘の腫れた頬に当てた。
「しばらく冷やしとけ」
「え? ぁ……アリガト」
颯希は救急箱を開け、千紘の傷だらけの手に消毒液を振りかけた。酷く沁みたが、千紘は唇を噛んで耐えた。最後に、適当なサイズに切ったガーゼを当てて、丁寧に包帯を巻いてくれた。こんな風に誰かに手当てをしてもらうのは、千紘は初めてだった。
「すぐ飯にするから」
「……うん……」
颯希は優しい。嘘吐きの自分にもこんなに優しい。泣きたくなって、千紘はキッチンに背を向けた。
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