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第三章 暴かれる秘密 その男②

 翌日。昨日と同じ場所で男が待っていた。その顔を見るなり、千紘は現実に引き戻される。   「とりあえず三万でいいぜ」 「……す、すんません。昨日はちょっとムリだったんで、今から盗ってきます」 「あ~? 早くしろよ」 「へへ、急ぐんで。すんません」    千紘は笑顔を引き攣らせ、カバンを抱きしめて走った。    アパートに帰ると、当然颯希はいない。千紘は真っ先にリビングの引き出しを開けた。貴重品は全部ここに仕舞ってある。    通帳に、印鑑、そして、ATMでもらえる現金封筒。中身を検めれば、一万円札が何枚も入っていた。三万円といわず、これを全部持っていったら、しばらくは男に付き纏われずに済むのではないかと千紘は思った。    しかし、さすがに十数万円が全てなくなっていたら、あっという間に颯希の知るところとなるだろう。そうなったら借金を返すどころではない。千紘は、男に言われた通り三万円だけ抜き取った。    これを男に渡したら、今夜はきっとぐっすり眠れる。だけど、明日はどうだろう。明後日は?    三万円なんてパチンコ一回で使い切ってしまうだろうから、すぐにまた取り立てられるに違いない。そうなったら、またこうしてコソ泥の真似事をしなきゃいけない。あと何回、こんな惨めな思いをすればいいのだろう。    思考に沈んでいたので、背後の物音に気付くのが遅れた。はっとして引き出しを閉めるが、後の祭り。地を這うような颯希の声が、死刑宣告に聞こえた。    ぱち、と頬を叩かれた。「何してる」と颯希に問いただされて、千紘はへなへなと座り込んだ。   「……ごっ、ごめんなさい……」 「何してるか聞いただけだ」    颯希も床に膝をついた。千紘と目線を合わせて、その目に溢れる涙をそっと拭った。   「悪い。そんなに強くぶったつもりはなかった」 「っ、ぁ……」    喉を引き絞っても、声が出なかった。千紘は、自身の震える右手を見る。握りしめられていたのは、あのおぞましい男に渡そうとしていた三万円。急に恐ろしくなって手を放した。紙幣がひらひらと宙を舞った。   「……ごめ、ご、ごめん、なさ……」 「……お前、学校でいじめられてるのか?」 「へ……」 「それとも、その辺のチンピラにカツアゲでもされたか? 昨日も明らかに様子が変だったし、何か困ったことがあるならちゃんと言えよ。まさか、ただ小遣いが欲しかったわけじゃないだろ? だったら、それこそ先に相談しろって話だが……」    颯希が何か喋っているが、千紘の耳にはまるで入らなかった。右から左へ抜けていくようで、聞こえているのに内容を理解できない。ついさっき怒っていたはずの颯希が落ち着いて話をしているということ自体、千紘にとっては不気味でさえあり、訳が分からなかった。   「……べ、つに……なんもねーよ」 「何もないわけないだろ。だってお前――」 「いいからっ! なんもねーから! ただっ……こづかいほしかっただけだから……!」    千紘は弾丸のように飛び出した。颯希の声を背に、家を飛び出した。    千紘は迷わず路地に入った。薄暗くてじめじめしていて埃っぽくてカビ臭い、この世の最底辺の場所だ。ビルの隙間に青空は小さい。手を伸ばしても届かない。   「オッサン……」 「お~、遅かったじゃねェかァ、千紘。待ちくたびれたぜ」    男の周囲には煙草の吸殻がたくさん落ちていた。千紘は恐る恐る近付いて、ポケットから全財産を差し出した。   「あ~? んだこれァ」 「……や、やっぱオレ、盗みなんかできない、です。あ、あいつンこと騙して、泥棒、なんて……む、ムリ、っす……」 「ほ~お?」 「だ、から、その……これ、オレの貯金……これで、なんとか……」    次の瞬間、目の前で爆竹が炸裂したような、激烈な衝撃が走った。脳が頭骨の中で揺れている。視界がブレる。強かに頬をぶたれたのだと、すぐには分からなかった。    気付いた時には、地べたに這いつくばっていた。千円札一枚、硬貨数枚が、虚しい音を立てて転がった。   「てンめェ、このクソガキ、大人を舐め腐りやがってェ!」    思い切り腹を蹴り上げられる。昼に食べた弁当が出そうになり、千紘は歯を食い縛って耐えた。   「千円ぽっちで何ができるってンだ? えェ? 千円でパチが打てるかっつーのよ!」    胸倉を掴まれて、強制的に起こされた。全身力が入らない。足は立たないし、指一本動かせない。頭がガンガンする。ぶたれた頬が焼けるようにひりひりと痛む。昨日の腫れも引いていないのに、さらに真っ赤に腫れてしまった。   「言うこと聞けねー犬にゃあ躾が必要だよなァ~。あの若い兄ちゃんは教えてくんなかったのかァ? 大人にゃ逆らうなってよォ~」    汚い口に挟んだ白い煙草の先端に、赤い炎が燃えている。あの火を千紘に消させるつもりだ。千紘はすぐに分かった。分かりたくないことばかり、千紘はいつも知っていた。   「口開けろ」    千紘は大人しくベロを突き出した。朦朧とする意識の中でも、舌の中央を窪ませて唾液を溜めることは忘れない。こうしないと酷いことになるということを知っていた。   「おうおう、やりゃあできんじゃねェか。躾のなってねェ犬っころでもよォ」    黒い煙が青い空を焦がす。この吸いさしが颯希のものであったなら、舌でも腕でも何だって差し出したって構わないのに。    ふと、男の動きが止まった。そのことで逆に千紘が焦れる。早くしてくれないと、せっかく溜めた唾液が零れる。    しかし、男はいきなり千紘を解放した。男の手によってかろうじて姿勢を保っていた千紘は、無様に尻餅をついた。男は千紘を一瞥もせず、身を翻して行ってしまった。    突然のことに千紘は呆然とするばかりだったが、颯希の声で我に返った。仕事帰りのスーツ姿のまま、ゼエゼエと息を切らしている。この辺りを必死に探し回ったことが一目で分かった。   「ぁ……お、おれ……」    事の重大さを思い出し、千紘も逃げ出したくなった。しかし足に力が入らない。そうこうするうちに颯希が駆け寄ってきて、そっと抱きしめられた。   「何も言わなくていい」    やっぱり、颯希は訳が分からない。ここは問いただすべき場面じゃないのか。颯希にとって、今の千紘はただのコソ泥じゃないか。どうして、優しく抱きしめたりするのだろう。やめてほしい。    優しくされると、嘘がつけなくなる。   「っ……ご、ごめ……ごめん、なさ……ごめんなさいぃ……」    言い訳より先に涙が溢れた。安堵の涙だ。千紘はしゃくり上げて謝った。   「話は後でいいから。立てるか?」    小さな子供みたいに、負ぶわれて帰った。    昨日のように手当てしてもらいながら、千紘はだんだんと冷静さを取り戻し、颯希の前で泣きじゃくったことを今更ながら恥ずかしく思った。   「お前、あの男は知り合いか?」    千紘が落ち着いたのを見計らって、颯希は言った。   「……母ちゃんの男。昔の」 「名前とかは知らないか」    千紘は首を横に振る。   「最近たまたま会って、金持ってこいって脅されたのか?」    千紘は小さく頷く。   「……でも、オレが悪ぃんだ。母ちゃんが借金してたから、オレが返さねぇと。ギムだから……」 「そんな義務はねぇよ」 「でも……」 「相続放棄したから、返済の義務はない。そもそも、本当に借金なんてあったのか? 書類とか見せられたか?」 「ね、ねぇけど……」 「どうせ、適当なこと言って騙して、金巻き上げてやろうって魂胆だろ。汚ぇ大人だ」 「……そーなんだ……」 「次会ったら交番に駆け込め。それか、人の多い場所まで逃げるんだぞ」    一気に肩の力が抜けた。千紘が嘘吐きなように、あの男も嘘吐きだったのか。嘘吐きのくせに他人の嘘に踊らされて、バカみたいだ。    一応警察へは届け出たが、あまり積極的に動いてくれる雰囲気ではなかった。

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