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第三章 暴かれる秘密 ポラロイド

 平穏な生活を取り戻したかに思われたが、そう簡単に追い払える相手ならば苦労はしない。男は、三度千紘の前に現れた。    あの件以来、わざわざ一つ前の駅で降りて、そこからバスで帰るようにしていたのに、学校のすぐそばで待ち伏せされた。しかし、もはや男に怯えて縮こまるばかりの千紘ではない。   「ぁんだよ、オッサン。まだオレに用があるんかァ?」 「テメー千紘、調子ン乗りやがって」 「へっ、ちょーしにも乗るね! 颯希にビビッて逃げたダッセーオッサンなんかに、誰がビビっかっつーの! おっと、それ以上近付くなよ! こいつを引っこ抜くぜ」    千紘は防犯ブザーに指を掛ける。颯希が護身用に持たせてくれたものだ。   「言わせておけばこのガキ……」    男は額に青筋を浮かべたが、深呼吸をして怒りを鎮める。そして次の瞬間、千紘は、調子に乗って男に近付いたことを後悔するのだった。後悔なんて言葉では足りないほど、己の軽はずみな言動を悔いた。   「ところでよォ、千紘。これ、覚えてねーか?」    男が懐から取り出したのは、一台のインスタントカメラ。千紘はそれに見覚えがあった。嫌というほど覚えていた。瞬時に顔色が悪くなる。   「おうおう、覚えててくれたみてェで嬉しいぜ。オレ達の大切な思い出だもんなァ」 「てめっ……きたねーぞ!」 「写真は大切に取ってあっからなァ~。今度家に送ってやろーかァ?」    男は、いやらしい笑みを浮かべて勝ち誇ったようにふんぞり返り、ついてこいと言う風に顎をしゃくった。    千紘は、結局また男の意のまま。この世で一番嫌な場所である路地裏へ、再び連れ込まれてしまった。   「遠慮すんなって。一番よく撮れたやつ、送ってやんよ。あのにーちゃん、サツキっつーのか? に見せつけてやりゃあいいだろーが」    臭ぇ汚ぇ下品な口で軽々しくその名を呼ぶな、と言ってやりたいのを、千紘は唇を噛みしめて耐える。   「あぁでも、あーいうタイプが一番嫉妬深いからなァ。あんな写真見せられたら、プッツンきちまうかもしんねーなァ、ハハ」 「……颯希は、そーいうんじゃねぇ」 「そーいうっつーのは、具体的にどーいうんだ?」 「だから……」    言葉にするのは憚られる。   「ま、でもよ。オレぁ、そーいうひでェ男だからな」    男は、油と埃にまみれた室外機に腰掛けた。   「んじゃ、しゃぶってもらうかな」 「……」    千紘は俯き、唇を噛む。   「オイオイオイオイ! いーのかァ? んな態度でよォ~」 「……したら、写真……」 「おーぅ、いいぜ。送らねーでおいてやるよ。知られたくねェんだろ? あの、サツキってにーちゃんにはよォ……」 「……」    千紘は、油と埃にまみれたコンクリートに跪いた。    その日の夕食は千紘の好きなカレーライスだったが、まるで味がしなかった。    *    三日後、男はまたも千紘の前に姿を現した。学校の最寄り駅で待ち伏せされた。インスタントカメラと、色褪せたポラロイド写真を一枚、男はこれ見よがしに振りかざした。   「……な、んで……」 「なんでもクソもねェよ。オレぁ、写真を送らねーでやるとは言ったが、いつまでとは約束してねェぜ? 明日突然気が変わって、うっかりポストに投函しちまうかもなァ」    ひらり、と古い写真が宙を舞う。千紘は走っていって捕まえた。そこに何が写っているにせよ、衆目に晒されていい内容ではないということだけは明白だった。   「ヒャハハハ! 貴重な女のヌードだぜェ!? もっと喜べよ! あ、母親のハメ撮りじゃヌけねーか!」    男は、品性の欠片もない下卑た高笑いを響かせる。千紘は舌打ちをして、写真を破り捨てた。   「てめ、クソ……ゲス野郎が……」 「千紘く~ん、そんな態度でいいのかなァ? 今オレに歯向かったところで、何の意味もねェだろが。どうすンのが一番賢い選択か、バカなオメーにだって分かんだろ?」 「……っ」    駅の便所に連れ込まれた。暗くて狭くて汚くて臭くて、トイレというより便所と呼ぶにふさわしい。世界最低の場所が更新された。    しかし、便所の刺激臭の正体は何なのだろう。鼻をつんざく悪臭だ。家のトイレはこんなに臭くない。単なるアンモニア臭とも違うような気がする。下水の臭いと混じったようと言われればそんな気もする。    などと、千紘が明後日の方向に思考を巡らせているのは、ひとえに現実逃避のためだ。    いつ掃除したのかも定かでないタイルに膝をついて、和式便器を跨いでふんぞり返っている男の、臭くて汚い股間に顔を埋めている、この最低の行為から少しでも意識を逸らしたかった。   「歯ァ立てんなよ。噛んだらイラマの刑だかンな~」    そんなこと、今更言われなくても知っている。それに、たとえ噛まなくたって乱暴にされる時はされる、ということも知っていた。   「口は男も女も変わんねェからなァ~。でもよ~、オレん気のせいかもしんねーけどよォ、昔より締まりが悪くなってねェかァ? えぇ? おい」    ほら、来た。頭を鷲掴みにされて、無理やり前後に揺さぶられる。喉を突かれるとどうしようもなく辛く、昼食べた弁当を全てぶち撒けてしまいそうになるが、吐くわけにもいかない。そんな粗相をしたらもっと酷い目に遭うことを知っている。   「……ッあ~、イイ。やればできんじゃねェか。口だけなら母ちゃんよりもイイかもしんねェなァ、ハハ」    それにしても、昔はこんなにも辛かったろうか。こういう行為を日常的にしなければならなかった頃は、もっとうまい苦痛の逃がし方を心得ていたんだっけ。颯希と暮らすようになって、千紘は不器用になった。   「ア~、出る出るッ! ありがたく飲めよ~」    飲みたくない。こんなもの。好んで飲む人間なんか存在しない。苦くて臭くて汚い。オッサンの体液だと考えるだけで吐きそうになる。    粘着いている上に量が多く、飲み込むのが辛い。つい頬に溜めてしまうが、そうすると口の中が青臭さでいっぱいになって逃げ場がなく、一層辛い。辛いって分かっているけど、直接喉に流し込むのも辛い。   「ぅ、ンぐ、っ……」 「あーあー、零すなよ、もったいねェ。貴重なタンパク質だぞ? オラ、こっち向いて口開けてみろ。アーンってしてみろ、アーン」    言われるまま、上を向いて口を開ける。口の中を換気したい、その一心だった。    パシャ、と目の前が一瞬明るくなった。暗闇に慣れ切った目には強すぎる閃光だった。元の薄暗い空間に戻ってからも、しばらく目が眩んだままだった。フラッシュを焚かれたのだと気付いたのは、その後になってからだった。   「え、ぁ……写真……?」 「ン~?」    男は、薄気味悪い粘着いた笑みを浮かべた。ウィーン、と機械音が響いて、インスタントカメラがフィルムを吐き出す。写っていたのは、目を背けたくなる惨たらしい現実。千紘が今必死で見ないようにしていた、残酷で無慈悲な現実。   「ゃ……」 「オイオイ、何終わったつもりでいンだよ。舐めてキレイにしろ。前は自分からしてたろーが。忘れちまったのかァ?」    髪を乱暴に掴まれ、喉の奥までこじ開けるように突き入れられた。白目を剥いた瞬間に、再びフラッシュが光る。   「ハハッ! イイ顔すんじゃねーか! うまそうにしゃぶりやがってェ、この尻軽が!」    千紘は三白眼に涙を浮かべて男を睨み付けるが、男は何がおかしいのか下品な声で笑うばかりだった。    *   「約束通り、古い方の写真は捨ててやってもいいぜェ? ただし、今日撮った写真はこンまま持っとくからよ。これがある限り、オメーはいつまでもオレん奴隷だかんな。そこんとこ、忘れンじゃねーぞ。その虫ケラみてーな脳ミソによォ~く叩き込んどけ」    ようやく解放された。千紘は、便器を抱えるようにうずくまり、喉に指を突っ込んで嘔吐した。    昼に食べた弁当も、たった今口にしてしまった、世界中の穢れを集めて煮詰めたような代物も、胃の中のものを余すことなく吐き出した。胃液で喉が焼けても吐き続けた。服が汚れるだとか、便器の臭いだとか、そんなことを気にする余裕はなかった。    手洗い場の鏡に映る姿は、実に酷いものだった。顔色は青白く、目の下は窪んで、げっそりとやつれている。颯希と初めて会った頃よりも痩せ細っているように千紘は思った。髪の毛まで傷んで見える。毎日風呂に入っているのに。    いけない。こんな姿では颯希に心配をかけてしまう。心配かけたくない。こんなつまらないことで……    そこまで考えて、千紘は改めて、こんな自分を心配してくれる人が存在するという事実を嬉しく思った。と同時に、いい歳こいてチンピラ風情の男にいつまでもいいように使われている自分を、強く恥じた。    これ以上、颯希には迷惑をかけたくない。ただでさえ、この前危うく泥棒になりかけたせいで信頼が落ちているというのに、これ以上幻滅されたくない。幻滅されるほどの大きな期待を寄せられてはいないだろうが、それでも、颯希にだけは嫌われたくなかった。    千紘は、冷たい水道水で顔を洗った。何度も何度も口を漱いだ。鏡に映る姿は、そりゃあ酷いものであったけれど、その目はまだ光を失っていなかった。    今回の件は自分だけの問題だ。颯希は巻き込まずに、自分だけで解決しよう。青空は見えなくてもいい。遠くても、そこに確かに存在しているのなら、それだけできっと救われる。      しかし、いくら決意を固めたところで、何の武器も持たない子供に一体何ができるだろう。千紘の選んだ解決策は、大人しく男の言いなりになることだった。    ただの時間稼ぎ、解決を先延ばしにしているだけだが、素直に従ってさえいれば、あの忌まわしい過去を写したものが颯希の目に触れることはない。学校に送り付けられるより、駅前でばら撒かれるより、千紘にとって一番怖いのは颯希に知られることだった。

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