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第三章 暴かれる秘密 悪夢

 十二月に入り、街はにわかに色めいている。そこかしこからクリスマスソングが流れ、天に届くようなクリスマスツリーが飾られ、あちこちでイルミネーションが煌めいている。道行く人はすっかり冬の装いで、家族連れもカップルも、心なしか浮かれて見える。   「どうした。疲れたか?」    今日は颯希と買い物に来ていた。不意に立ち止まった千紘を気遣って、颯希も立ち止まった。   「別に。腹減ったなーって」 「さっきハンバーガー食っただろ」    颯希は、抱えていた大きな箱を地面に置き、千紘のマフラーを巻き直した。   「ちゃんとしろよ。風邪引くぞ」    黒い手袋をした颯希の手が、千紘のマフラーを優しく握る。それだけで、千紘はひどく満たされた気持ちになる。千紘にマフラーを巻いてくれる人なんて、今までどこにもいなかった。   「……い、いいって。自分でやっから」 「自分でできてねぇから俺がやってるんだろ。いいから、大人しく巻かれてろ」 「ん……」    この白いマフラーも、白い手袋も、颯希が買ってくれたものだ。白なんて汚してしまうからと断ったのに、「いくらでも汚せ。何回でも洗ってやるから」と案外頑固な颯希に押し切られた。   「お前、サンタさんに何頼むか決まったか?」 「サンタ……」    最近至るところで目にする、赤服で白ヒゲの太ったじいさんのことだ。クリスマスの夜に世界中の子供達にプレゼントを配って回るという、奇特なじいさんだ。赤鼻のトナカイを使い魔にして空飛ぶソリを引かせているという、やんちゃなじいさんだ。   「手紙を書かないとサンタは来てくれないぞ。欲しいもの、ないのか」 「ん~……だって、サンタはオレんとこ来ねーだろ。今までだって……」 「それは、サンタがお前の家を知らなかっただけだって言っただろ」 「だけど、サンタはいい子ンとこしか来ねーんだろ? オレぁ、ダメだぜ。オレ、全然いい子じゃねぇ。悪い子だもん。だから、サンタは……」 「千紘お前……」    マフラーの結び目を丁寧に整えて、颯希は千紘の肩に手を置いた。じっと見つめられ、今のは失言だったかと千紘は身構えたが、颯希の言葉は意外なものだった。   「そんなに腹減ってるのか」 「へ? ……や、腹は……減ってねぇけど……」 「じゃあ何だ、この前怒ったのをまだ気にしてるのか? でもあれは、職場に持ってく菓子を勝手に食ったお前が悪いんだからな」 「わ、わーってるよ! ンなこと! ゴメンね!?」 「そうか? あの時は色々言ったけど、今はもう怒ってないから、そんなに引きずるなよ」 「引きずってねーし! あーっ! な~んか腹減ってきたなぁ! ハンバーガーよりうめーもん食いてぇ! 決めたぜ! サンタにゃあ、うめー食いモンをお願いするぜ!」 「食べ物は困ると思うが……」    颯希は、地面に置いた箱をよいしょと持ち上げた。   「元気ならいい。いい子かどうか決めるのはサンタなんだから、クリスマスまでに欲しいものを決めておけよ」 「おー」 「甘いものでも食べて帰るか」 「マジ? やった!」    十二月に入り、街はにわかに色めいている。そこかしこからクリスマスソングが流れ、天に届くようなクリスマスツリーが飾られ、あちこちでイルミネーションが煌めいている。道行く人はすっかり冬の装いで、家族連れもカップルも、心なしか浮かれて見える。    この風景に、千紘はいつも溶け込めなかった。千紘だけは、この世界から爪弾きだった。一緒にクリスマスを祝ってくれる人はいない、サンタクロースはやってこない、誰の目にも映っちゃいない、そんなちっぽけな存在。    だけど、今年の冬は悪くないと思えた。こんな自分でも、少しは世界に許容されているのではないかと。    *   「この寒ィのに、外でなんてやれっかよ」    男の現れる場所は少しずつアパートに接近していたが、とうとう家にまで上がられてしまった。颯希と毎日を暮らしている大切な場所、聖域といっても差し支えない大切な場所を、土足で踏み躙られる気分だ。   「せめて廊下で……」 「廊下でだァ~? 廊下も寒ィだろーがよ! だからオメーはいつまでもグズなんだよッ!」    颯希がいつも料理をしている台所を物色される。戸棚を開けて、冷蔵庫を開けて、「ビールしかねェのかァ?」などと騒いでいる。まだ何もされていないのに、まるで犯されている気分になって鳥肌が止まらなかった。   「せっかくだからベッドですっか?」    男は、颯希のベッドに図々しく腰掛ける。汚い尻をのせるなと言いたいが、言えない。   「ハハ、すげェスプリングだな、こりゃ。毎晩アイツんことイかしてやってんのかァ? このベッドでよォ~」 「颯希はそーいうんじゃねぇって……」 「そりゃオメーが日和ってっからだろーが。一回してやったらよォ、ハマるかもしんねェぜ? 今度試しに襲ってみろよ」 「……もう、いいだろ。リビングで……」    本当はリビングでだって嫌だけど、颯希のベッドを汚すよりは百万倍マシに思えた。    普段、颯希と二人で食事を取っているテーブルのすぐそばで、男のチャックを下ろす。およそ口にすべきでないものを、口いっぱいに頬張ってしゃぶる。    この場所で食べる颯希の料理はいつだっておいしいのに、今口にしているものは味も臭いも見た目も最悪だった。誤魔化すこともできないほど、最低だ。   「そーいや、もうすぐクリスマスか。クソおもしろくもねェ。どいつもこいつもバカみてェに浮かれやがってよ」    リビングの隅に飾ってあるクリスマスツリーが目に入ったらしく、男は吐き捨てた。    ツリーは、先日颯希と買ってきた新品だ。説明書を見ながら、二人で組み立てた。林檎のようなオーナメントや、雪の結晶や天使のモチーフを飾り、ピカピカの電飾を巻き付けた。てっぺんに載せる一番目立つ星は、千紘が飾った。    ツリーの他にも、棚の上にはスノードームが置かれ、玄関にはクリスマスリースが飾られて、この家もすっかりクリスマスの装いだ。これでクリスマスソングが聞こえてきたら完璧なのに。千紘は、颯希に教えてもらった歌を頭の中で口ずさんだ。    大丈夫。こうして目を瞑って、頭の中で歌っていれば、口に広がるドブのような臭いも味も、少しだけ気にならなくなる。    クリスマスに食べる予定の、真っ赤なイチゴがたくさんのった真っ白なショートケーキを思い浮かべれば、今口にしているこれも生クリームに思えてくる。だから、大丈夫……    バギ、と鈍い音が直接脳内に響いた。鋭い衝撃が全身を貫き、追いかけるように熱い痛みが走る。突然電池が切れたみたいに、視界が真っ暗になった。    光が戻った時、千紘は床に転がっていた。殴られたのだ、と今になって理解する。理解したところで、もう手遅れだ。   「千紘よォ、テメーよォ~~……」    男は、倒れて動かない千紘に馬乗りになって、二発三発と続けざまに拳を食らわせた。   「テメェよ~、テメェ、オレんチンポしゃぶりながら、他の男ンこと考えてたなァ!? えェ? おいッ! どーなんだよッ!? この尻軽がよォ!」    訳の分からないことで詰りながら、四発五発とぶつ手はやまない。    顔面が燃えるように熱いし、痺れて感覚を失いかけている。口の中がざっくり切れて、殴られた弾みで血を吐き出す。鼻の粘膜も切れて、鼻血の海に溺れそうだった。   「テメーは昔っから、クソつまらねェガキだったぜ! ガキならガキらしくピーピー泣き喚いてみろってんだよ!」    おもむろに、男は千紘の顔の上へ跨った。血塗れの口に汚物を突っ込む。痛みと不快感に千紘は顔を歪ませ、身を捩って吐き出そうとするが、男に押さえ付けられて身動きできない。   「ちゃんと舌ァ使え! ド下手クソ!」    乱暴に出し入れされて、舌を使うどころではない。気道を圧迫され、呼吸さえもままならない。口の中、喉の奥、胃の腑まで、体の内側が汚いもので埋め尽くされる。そうなったら、体中の穴という穴から汚物が噴き出すのだろう。その感覚に戦慄した。   「ぅ゛……オ゛ェえ゛ッ」    とうとう吐いてしまった。口を塞がれていてうまく吐けず、鼻から逆流する。色々な臭いが混ざり合って、さらに吐き気が誘発される。   「テメ、クソッ! チンポゲロまみれにしやがって!」    男が腰を浮かし、千紘はようやく解放された。床に突っ伏して、今度こそ思い切り嘔吐する。颯希がいつも綺麗に掃除してくれている家を汚した罪悪感で、涙が出た。   「クソッ、きったねェ! おい! 舐めてキレーにしろ!」    男は千紘の頭を鷲掴みにし、再び口に突っ込もうとするが、千紘もしっかりと口を閉ざして抵抗する。もう一度入れられたら、またすぐに吐いてしまう気がした。それに、いくら自分の吐いたものでも、それを舐め取るなんて生理的に受け付けない。   「おいッ、口開けろっつってんだよ!!」    男が拳を振りかぶる。千紘は目を瞑って衝撃に備えた。    しかし、いつまで待っても拳が振り下ろされない。恐る恐る目を開けると、部屋の隅で男が伸びていた。   「千紘」 「さつ……」    強く抱きしめられた。吐瀉物と血と精液にまみれた汚い体を、颯希は強く抱きしめてくれた。スーツが汚れてしまうと思ったが、千紘はただその温もりに身を委ねた。   「悪い。俺がもっと早く気付いていれば」    どうして颯希が謝るのだろう。悪いのは千紘なのに。颯希に本当のことを言えないまま、自力で解決することもできなかった。挙句、男に家に入られて、こんなに汚してしまった。全部千紘のせいだ。   「……ごめん、オレ……」 「お前は悪くないだろ。酷い傷だ。痛むよな」 「だいじょぶ……」 「大丈夫なわけあるか。待ってろ、今タオルを濡らして……」    颯希は立ち上がりかけて、再び千紘を強く抱きしめた。それから、動かなくなった。   「颯希……?」    千紘が最初に感じたのは、血のにおいだ。でも、自分の血ではない。もっと新しい、迸る血液のにおいだ。    それは、颯希の血のにおいだった。千紘を抱きしめたまま、脇腹に包丁が突き刺さっていた。千紘が怯んで後退ると、颯希は力なく倒れ込んだ。倒れると同時に包丁が抜け落ち、鮮血が噴き出した。黒いスーツが真っ赤に染まった。    逃げろ、とカサついた蒼い唇が震えた。血の気のない頬を、脂汗が玉となって滴り落ちた。    千紘は動けなかった。自身の喘ぐような息遣いだけが、耳鳴りのように聞こえていた。      ミータローが死んだ時のことを思い出していた。男に殴られて涙を零してしまった弱い千紘を守るために、ミータローは果敢にも男に飛び掛かった。鋭い爪で引っ掻いて、鋭い牙で噛み付いた。    けれども、その攻撃は男を激昂させる要因にしかならなかった。男は、ミータローの小さな体を床に叩き付けた。物凄い剣幕で狂ったように叫びながら、小さな体を蹴り飛ばした。ミータローはどす黒い内臓のような血を吐いて、それでも男の暴行は止まらなかった。    千紘は動けなかった。部屋の隅でうずくまって震えていた。最愛の家族が壊され、死んでゆくのを、ただじっと見ていた。      また、あの時のように、大切な人に守られて大切な人を失うのか。そんなの、まっぴらごめんだ。    千紘は弾かれたように飛び出した。薄ら笑いを浮かべ、冷や汗を掻いて立ち尽くしている男に、思い切り飛び掛かった。千紘はもはや、黙って泣いて震えているだけのちっぽけな子供ではなかった。    男を張り倒し、その穢らわしい股の間にぶら下がった、弛み切った玉袋に蹴りを入れた。とにかく無我夢中で、無茶苦茶に蹴って蹴って蹴りまくって、息もつけない勢いで蹴り飛ばして、二度と使えなくなるまで蹴り潰してやった。   「……ちひろ」    颯希の声で、我に返った。振り返ると、血の海で颯希が呻いていた。途端に血の気が引く。   「さ、つき……」    溢れ出る血は赤いのに、その顔はほとんど真っ白といってよく、苦痛に歪んだ眉の上には大粒の汗が浮いていた。   「……どっ、どど、どーしよっ、どうしよう! さつき、死んじゃっ……」 「落ち着け……」    颯希は、震える指で電話機を指す。   「119……教えたろ」 「あ……ぅ、うん、うん!」    千紘は、震える体を奮い立たせて、受話器を取った。

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