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第四章 すれ違う心 撃鉄を起こす

「う~い、今日もいい湯だったぜェ~」    風呂上がり、パンツとシャツだけの恰好で、千紘はリビングに現れる。   「おい、頭濡れてんぞ」 「え~、いいじゃん。もう寒くねーんだしよ~」 「駄目だ。こっち来い。やってやるから」 「んぇ~? 颯希はいちいちこまけーなァ」    文句を言っているようで、千紘は少し嬉しそうだ。鏡の前に立たせてドライヤーを当ててやると、終始にこにこして鏡越しにこちらを見つめる。    千紘の髪は綺麗だ。ミルクティーのような透明感のある色合いも、猫の毛のようなしなやかさも、綿毛のような癖っ毛も。綺麗というのは語弊がある。俺が好きなのだ。千紘の髪が、俺は好きだった。   「あちッ!」 「あ、悪い」    ぼんやりしていて、千紘の髪を焦がすところだった。危ない危ない。   「んだよ~、らしくねぇなぁ。疲れてんの?」    千紘が、気遣うようにこちらを振り向く。一年前と比べて、格段に肉付きがよくなった。頬の辺りはもちろん、肩幅や胴回りなど、年相応の少年らしくなってきたと思う。    身長は、平均よりはまだ小さくて、俺と目を合わせようとするとどうしても上目遣いになってしまうが。その眼差しも、俺は好きだった。   「颯希……? な、に――」    気付けば、キスをしていた。ほとんど本能的なものだ。蝶々が菜の花に止まるのと同じ原理で、俺は千紘にキスをした。リップクリームなんて使ったこともない唇は、少しカサついていた。   「ん……? ふぇ……??」    千紘は真っ赤になって瞬きを繰り返す。   「前向いてろ」 「へっ? えっ……??」    再びドライヤーをかける。千紘は俯いて、指先で唇をなぞっていた。その間、鏡越しにも目を合わせてはくれなかった。      やらかしただろうか。俺は既に自身の軽率な行動を悔いていたが、千紘は今夜も一緒に寝たいとねだった。いいのか? と訊きたくて、やっぱやだと言われたら立ち直れない気がして、俺は何も言わず迎え入れた。   「へへ、やーった。颯希の布団、あったけーからな~」 「お前の布団と変わらないだろ」 「変わるぜ? 颯希の布団のがあったけぇ」    千紘は、いつものように俺の腕に腕を巻き付けて、自分の枕があるのに俺の枕に頭を寄せた。いつもと違うのは、俺の手に自身の手を重ねてきたことだ。   「へへ、颯希の手もあったけー」    形を確かめるように、手を開いたり閉じたりする。指の長さを測るように、指を絡めて握りしめる。爪の先から指の付け根をくすぐるように撫でる。    なんだか、腹が立ってきた。こっちの気も知らないで、好き勝手に愛嬌を振り撒きやがって。そっちがその気なら、俺だって好き勝手にやらせてもらうぞ。    本能が牙を剥きかけたが、理性も必死に抵抗する。乱暴なことをして嫌われたら一巻の終わりですよ。まずは十分甘えさせて、懐かせて、安心させて、そうして俺がいなくちゃ生きていけない体に育て上げてから、優しく食ってあげなくては。それが作法というものですよ。    いやいやいや、理性もぶっ壊れつつあるじゃないか。どっちの理論を採ってもケダモノだ。俺はそういうつもりじゃないんだ。俺はただ、千紘が大切なだけだ。ただただ、大切にしたいだけで。   「……なーぁ、颯希?」    千紘が甘えた声を出す。かわいいけど、やめてほしい。大切にできなくなりそうだ。   「さっきの、さ……キス、だろ?」    そうだとも違うとも言えない。認めてしまったら、全てが終わってしまいそうで。   「あれさぁ……その……き、気持ちよかったから……もっかいしたい。ダメ?」    ああ、まずい。どうしよう。なけなしの理性が本能に押し負ける……    俺は、上半身を起こして千紘の上へ覆い被さった。影が重なり、千紘の表情は見えない。    ちゅ、と軽いリップ音を鳴らして、二人の影が離れる。豆球の明かりでも分かるくらい、千紘は顔を真っ赤に染めて、額に手を当てた。   「……おでこ……」 「今のは……おやすみのチューだ」 「おやすみの……」    千紘は、額に手を当てたままきょとんとしている。    自分でも、何をふざけたことを言っているのだろうと思う。口へのキスを既に済ませてしまっているのに、今更おでこでお茶を濁すなんて。千紘は誤魔化されてくれるだろうか。   「え、へへ……」    誤魔化されてくれたようだ。照れくさいのか、変な笑い方をする。   「ふへ、えへ、うふふ……ありがと」    何に対するありがとうなのか分からない。   「気が済んだなら寝ろよ」 「ん。おやすみ」    千紘は、声を弾ませて眠りについた。こんな簡単なことで喜んでくれるのなら、もっと早くこうすればよかった。これからは毎晩おやすみのキスをしてあげようかな。なんて、この時の俺は呑気にもそんなことを考えていた。    *   「はよぉ~……」    大きなあくびを隠そうともせず、寝惚け眼を擦りながら千紘が起きてきた。俺に叩き起こされる前に自分で起きて、その点は偉い。   「おはよう。飯はまだだから、先に顔洗ってこい」    しかし、千紘は俺の声を無視して、忙しい最中のキッチンへ入ってくる。   「おい、狭いんだから……」 「なぁ~」    千紘は、何やらそわそわした様子で、小首を傾げつつ上目遣いに俺を見た。それから、物欲しげに唇を尖らす。   「おはようのチューは……?」 「ほぁ……?」    素で頓狂な声が出た。    おやすみのキスがあるならおはようのキスもあるだろうと、そういう推理を展開したのだろうか、この目の前の純粋な子供は。そうだとしたらなかなか賢い。論としては何もおかしくない。おやすみの対になるのはおはようだものな。よく知っているじゃないか。偉いぞ。   「颯希ぃ……?」    千紘は、不安そうにそわそわしている。俺は、その丸く柔らかいほっぺたに、軽く唇を落とした。   「ほら、おはよう」    千紘は、目を丸くして頬を押さえる。どうしたのだろう。俺は何か間違えたろうか。   「……ほっぺ……」 「……嫌だったか?」 「ちがっ、ちがうっ」    千紘は、ぶんぶん首を振った。そして、愛おしげに頬を押さえたまま呟く。   「うれしい……」    まるで、春先に花の蕾が綻びるような、そんな笑顔で。    普段生意気で、ガサツで、食事の仕方が汚くて、自分で髪も乾かせなくて、寝相が悪くて、いびきもうるさくて、その上寝穢い。そんな千紘が、この時ばかりは天使に見えた。天使のように見えたのではない。今まさに、天使が舞い降りたように思ったのだ。   「……んじゃ、顔洗ってくんぜ!」    軽やかに駆けていくその背中に、天使の翼が揺れていた。    俺の目も大概おかしい。疲れているのか。睡眠不足か。近いうちに休暇を申請してみるか……。    しかし、困ったことは立て続けに起きるものだ。家を出る直前、玄関で、「いってきますのチューは……?」と来たもんだ。    いやいや、おやすみとおはようは対になっているからまだ分かるが、いってきますはどこから来たんだよ、という無粋なツッコミは内心だけに留めておいて、俺は、千紘の形のいい鼻の頭にキスを落とした。    そして、どうしていちいちキスの場所を変えているのだろう、と自分の行為に疑問を抱いた。おやすみもおはようもいってきますも、全部額へのキスで統一したってよかったものを。    ここまで来れば予想は付いていたが、いってきますのキスに対応するただいまのキスもせがまれた。帰ってきて玄関を開けると、千紘がリビングから駆けてきて出迎えてくれ、「ただいまのチュー……」と上目遣いにねだるものだから、断れるわけもなかった。    ただいまのキスは瞼にした。睫毛が唇に当たってくすぐったかった。   「にへへ。おかえりぃ」    千紘は嬉しそうに笑って、俺のカバンを持ってくれた。俺が教えたのではないから、おそらくドラマから得た知識だろう。    そしてもちろん、寝る前にはおやすみのキスをせがまれた。起きたらおはようのキスを。玄関ではいってきますのキス、帰ってきたらただいまのキス。再びベッドでおやすみのキスを。こんな調子で、挨拶代わりのキスが日常のルーティーンに組み込まれてしまった。      職場で盛大な溜め息を吐いて、美山先輩に心配してもらっても、とてもじゃないが相談なんてできっこなかった。夜中の擦り付けオナニーの回数は減ったんですけど、代わりに毎日何回もキスするようになっちゃって~、なんて言えるわけないだろう。    美山先輩が女性だから言えないのではない。他の誰にも知られてはいけないことだから、誰にも言えないのだ。これは俺と千紘だけの秘密にしなくてはいけない。あいつがもし、学校の先生なんかに喋っていたりしたら、その時点で俺は破滅だ。

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