19 / 42
第四章 すれ違う心 引き金を引く
しばらくは、額や頬、鼻や瞼へのキスでお茶を濁し続けた。千紘もそれで満足そうにしていたから、俺も安心していた。しかし、ある晩とうとう爆弾が撃ち込まれたのである。
「口にはしねぇの……?」
いつも通り、おでこへのキスを終えた後だった。千紘の声があまりに切なげで、放っておけなかった。
「したいのか」
「……したい……」
ベッドに入る前とは別人のような、しおらしい態度。俺は、年甲斐もなくドキドキしていた。
そっと唇を寄せる。マットレスの軋み、シーツの擦れる音が、やけに耳障りで。
「ん……」
優しく触れるだけのキスをした。唇を軽く押し付け、少し離して、また軽く押し付けて。何度も触れ合わせることで、千紘の唇の柔らかさを確かめる。少しカサついているけれど、それさえも刺激になって気持ちがよかった。
「ん、ん……ン……」
千紘は、震える手で縋るように俺の袖を握りしめる。その姿がまた健気で、俺は堪らない気持ちになった。
閉じた唇を擦り合わせるだけのキスなのに、どうしてこんなにも離れ難いのだろう。魔法にかけられたみたいに、唇が離れない。息の仕方を忘れてしまったらしい千紘は苦しそうに喘いでいるけれど、その姿にさえも情事の際の息遣いを重ねてしまう。俺は悪い大人だ。
「はっ、ぁ……」
ようやく唇を離してみれば、千紘は顔を真っ赤に上気させ、苦しげに肩で息を整えながら、緩んだ口元に赤い舌を覗かせる。
「さ、つき……」
赤い舌が、電球に照らされて妖しく光る。誘うように、ちろちろと蠢く。
「もっとぉ……」
舌足らずに呼ぶその声はあどけなく、それでいて魅惑的で。相反するものが共存している矛盾に、俺は背徳的な興奮を覚えずにいられなかった。
「もっと?」
「も、っと……」
短い舌を一生懸命突き出して続きをねだる様はどう見ても子供っぽいのに、どういうわけか艶っぽくも見えてしまって。亀裂の入った理性が、いよいよ音を立てて崩れていく。
俺は、千紘の顎にそっと手を添えた。一生懸命に突き出した舌のその先端に、自身の舌先を重ねる。軽く突ついて、くるりと円を描くようになぞって、ちゅう、と音を立てて吸った。
「んン゛っ――!」
ビクン、と千紘の腰が跳ねる。それでも舌を離さずにいると、ビク、ビク、と余韻だけで千紘は身を震わせた。
「んっ……く……ぅふ……っ」
締まりのない口の端から涎を零し、涙の膜が張った三白眼で虚空を見つめている。俺は、その涎を舐め取ってやって、よしよしと頭を撫でた。
「寝られそうか?」
「んぇ……あ、ぇ……?」
「おやすみ」
「やっ……もっと……」
千紘は、弱々しく俺の腕を握る。この“もっと”が何を指しているのか、この先の行為が何を意味するのか分からないほど、俺は鈍感な男ではないが、だからこそ、これ以上流されるわけにはいかなかった。
「おしまいだ。おやすみ、千紘」
「あ……」
もう一度おでこにキスをして、布団を肩まで掛け直してやって、俺は千紘に背中を向けて横になった。
「……颯希ぃ……」
千紘がもぞもぞ動いている。背中にぴったり密着されて、暑い。
「颯希ぃ……寝ちまったのかよぉ」
ぐす、と鼻をすする。まさか泣いているのか、と俺は肝を冷やした。突き放して泣かせたいわけでは決してないのだ。
しかし、千紘は鼻をぐすぐす言わせながら、ずりずりと腰を動かし始めた。微かではあるが確かに硬い、熱い感触が腰に当たり、俺は何とも言えない気分になる。
「んっ、ふっ……ぅ、んぅっ……」
必死に声を押し殺し、非力な腕で俺にしがみつき、首筋に鼻を埋めてにおいを嗅いで、そうしながら夢中で股間を擦り付けている、このかわいくてかわいそうな子供を、今すぐこの手で慰めてあげたい。
しかし、これ以上進んではいけない、とひび割れた理性の残骸が俺に囁く。これ以上は後戻りができなくなる。一度坂道を転がり落ちたら、二度とまともな道には戻れなくなる。だから――
「んっ、ン……さつき、さつきぃ……」
甘く切なく掠れた声で俺を呼ぶ子供を前にしても、狸寝入りを続けるより他にない。
*
颯希にキスされた。
それは突然やってきた。ロマンチックでも何でもない、他愛ない日常の狭間に、突然キスが降ってきた。
ファーストキスの味ってどんなだろう、と淡い妄想を膨らませていた千紘にとって、それはあまりに呆気なかった。呆気なくて、なのに、いつまでも忘れられない味になった。それは、夕食に食べたオムライスの味がした。
セカンドキスは、ファーストキスよりも長いキスだった。
颯希と鼻が触れ合う距離でどうやって息をすればいいのか分からず、息を止めていたら物凄く苦しくなった。苦しいのに離れ難くて続きをねだったら、舌先を舐められた。ビリッ、と腰に電気が走るようだった。気付けば、キスだけで達していた。
舌を舐められた感触、颯希の舌の味を反芻する。セカンドキスは煙草の味だった。ほんのりと苦くて甘い。これがきっと颯希の味なのだろう。不思議なことに、千紘はこの味をもっと前から知っていた。
煙を嗅いだことがあるから知っていたのではない。舌の柔らかさ、熱さ、唾液のぬめる感じも、千紘は以前経験したことがあった。しかし、いつ経験したのかは思い出せない。きっと、今のこれは通算三度目のキスだったのだ。
感覚を反芻するうち、達したばかりのペニスが再び頭をもたげた。颯希は眠っていたから、千紘は颯希の匂いを吸いながら自慰に耽った。一回イクのも二回イクのも変わらない。下着の中はびしょびしょになった。
千紘は颯希が好きだ。好きだということを自覚していた。理由は多すぎて挙げ出したら切りがないほど好きだった。けれど、颯希のことをよく分からないとも思っていた。
颯希は、一日に何度も甘いキスをくれる。挨拶のキスだ。千紘はこれが好きだった。ほっとした気持ちになるし、今日も一日頑張ろうと思える。顔が近いことだけ、ドキドキしてしまって心臓が痛くて辛いのだが、そのドキドキも好きだった。
夜のベッドでは、エッチなキスもしてくれる。舌を舐めたり吸ったり、今夜は口の中まで舐められた。颯希は手先が器用だが舌も器用で、その自在な舌で口の中をあちこち暴かれて、千紘は触らずに何度も達した。
くたくたになってベッドに沈む千紘を、颯希は優しく撫でてくれて、乱れた布団を掛け直してくれる。こんなに優しいのに、千紘をほったらかしてあっさりと眠ってしまう。いくら呼んでも揺すっても、絶対に起きてくれない。
颯希の分からないのはここなのだ。キスでイかせる程度には千紘を愛してくれているように思えるのに、その先のことは絶対にしてくれない。
千紘がしてほしがっていることに気付いていないとはとても思えない。分かっていて、あえて知らないふりをしているようにしか思えない。
どうしてだろう。千紘には分からない。千紘は颯希が好きだと自覚していたが、自分が愛されているかどうかについては自信がなかった。愛される価値のない自分を、颯希は愛してくれないかもしれない。そう思うと不安で、だけど、やっぱりどうしようもなく好きだった。
「んっ、んぅ……さつきぃ……」
好きだから、深夜のトイレに一人籠るのはひどく虚しい。
すぐそばに想い人がいるのに、触ってくれないし触らせてくれない。唇に残る温もりと残り香だけを頼りに一人で処理しなくちゃいけないというのは、ひどく切ない。胸が締め付けられるように痛む。ドキドキする痛みとは違う痛みだ。
「んッ、く、いくっ――!」
切ない感情は置いてきぼりで、だけど射精は気持ちいい。気持ちいいけど、やっぱり違う。本当の望みはこんなことじゃ叶わない。また、サンタクロースに手紙を書いてみようか。それとも、神社へお参りに行ってみようか。どうすれば、この願いは叶うのだろう。
ともだちにシェアしよう!