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第四章 すれ違う心 泥沼

 颯希が飲み会に行った。なるべく早く帰る、と朝は言っていたのに、日付を越えても全然帰ってこない。    いい加減待ちくたびれた千紘が寝ようとした時、チャイムが鳴った。「颯希!」と飛び出した千紘を抱きとめたのは、待ち焦がれたその人ではなく。   「ごめんね~、千紘くん。寝てたよね?」 「あ……アカねーちゃん」    颯希の職場の先輩。パンツスーツが似合う美人。ちょうどその豊満な乳房に飛び込んだ千紘は、思わず緩んだ頬を引き締める。   「颯希待って起きてたから、全然へーきだぜ!」 「その颯希くんね、アタシがお届けに上がりましたぁ~」    ほら立って! と茜は颯希の腕を乱暴に引っ張る。そして、千紘の方へと押しやった。ぐでんぐでんに酔っ払った颯希を見るのは、千紘は初めてだった。   「うわっ!? んだこいつ、酒くさッ!」    一応抱きとめたが重くて敵わず、千紘は颯希を廊下に転がした。「いてっ」と小さく呻く声が聞こえた。   「アカねーちゃん、こいつ担いできたんかよ?」 「まさかぁ。肩貸してあげただけだよ。でも重かったわぁ、肩バッキバキよ。颯希くん、ちょっと悪い酔い方しちゃってね。お水飲ませてあげて」 「はァ~い」    千紘はコップを二つ用意して水を汲み、一杯は茜に渡し、もう一杯は颯希に飲ませた。自力で飲むのは苦労するようだったので、颯希の頭を持ち上げて膝枕をしてやって、コップを口元まで運んでやった。   「ワハハ、ざまぁねーなァ。お水おいちいでちゅかァ~?」 「颯希くんがこんなになるところ、アタシも初めて見たよ」 「アカねーちゃんは付き合い長いんだろ?」 「普段はもっと、自制心があるっていうかさ。こんな風に酔い潰れるのはアタシの役割だったのに、今夜は逆転しちゃった」 「へェ~」    羨ましいと思った。千紘は颯希と酒を酌み交わすことができない。隣で煙草を燻らすこともできない。目の前にいる美女は、千紘が知らない颯希の顔をたくさん知っているのだろう。千紘が来る前の颯希の生活も知っているはずだ。   「颯希くんさ、なんか、疲れてるのかな」 「さぁ? おい、どーなんだよ」    千紘はぺちぺちと颯希の頬を叩くが、まともな答えは返ってこない。   「なんか、悩んでるみたい、っていうか。もしね、何か困ってることがあるなら、アタシも二人の力になりたいって思ってるからさ」 「……困ってるって、こいつが言ったんか?」 「言ってないよ。アタシが勝手にそう思っただけ。今日の颯希くん、明らかに様子が変だったから。ちょっとね、その、何ていうか……」    様子がおかしいというなら、今日の茜もどこかおかしい。普段の竹を割ったような性格はどこへ行ったのだ。奥歯に物が挟まったような言い方ばかりして。本当に言いたいことはそんなことじゃないはずなのに。   「……疲れてて悩んでて困ってるって、颯希が言ったの?」 「ううん、違うの。違うんだよ。ただ、アタシがね、アタシがただ……」    茜は口籠り、空になったコップを両手で握る。   「アタシ、キミの本当のお姉ちゃんになってもいい?」 「……えっ……」    額面通りの言葉ではないと千紘にも分かった。酔いのせいだけではなく茜は頬を赤らめて、それでいて真剣な眼差しで千紘を射通す。握りしめたガラスのコップが熱で曇っていた。   「……だ、め」    千紘は勢いよく立ち上がり、茜に詰め寄った。膝枕から颯希の頭が滑り落ちて、ゴツン、と痛そうな音がした。   「ダメ、だ。いくらアカねーちゃんでも、颯希はやんねぇ。颯希は……颯希は、オレんだから!」    茜は呆然と立ち尽くし、「そっか」と微笑んだ。   「じゃあ、アタシ帰るね。お水ありがと」    普段通りの茜だった。ショックを受けた様子もなく、本当に帰ってしまった。千紘はへなへなと座り込んだ。颯希は、酒に酔った赤い顔をしていたが、案外気分はよさそうに眠っていた。   「……これで……」    よかったのだろうか。千紘はよかったけれど、颯希はよくないかもしれない。美人で巨乳で面倒見がいい年上の女に惚れられるなんて、颯希にとっては願ったり叶ったりのイベントかもしれないのに。それを邪魔する権利が、千紘にあるだろうか。    考えてみれば、颯希が疲れていて悩んでいて困っていることがあるとすれば、十中八九千紘のせいだ。一緒じゃなきゃ寝られないだのキスしてほしいだの体を触ってほしいだの、毎晩毎晩無茶ばかり言って颯希を困らせているのは千紘だ。    颯希は、千紘との触れ合いに消極的だった。千紘がわがままを言うから、仕方なく付き合ってくれているだけだ。千紘にだってそれは分かっていた。    キスしてくれたり一緒に寝てくれたり、他にもたくさん、颯希は千紘に優しくしてくれるが、それらも全部、憐れみや同情からの行為だったりするのだろうか。千紘がわがままを言って面倒くさいから、仕方なく優しく接してくれているだけなのだろうか。    千紘がいる限り、颯希は普通の恋愛ができないのではないか。千紘が颯希を諦めればいいだけの話だが、そばにいながら諦めるなんてとてもできそうになかった。    颯希は、普通の女性と普通の恋愛をするべきだ。千紘が来る前はずっとそうしてきたはずだ。颯希の人生を邪魔しているのは千紘だ。千紘と暮らすより、茜と一緒になる方が、颯希の幸せに繋がるはずだ。    考えれば考えるほど、思考は深みに填まる。颯希を引きずってベッドに寝かせ、千紘は自分の布団に横になったが、朝が来るまで一睡もできなかった。

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