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第四章 すれ違う心 失踪②
颯希と別れた千紘は、とりあえず遠くへ行きたいと思い、新幹線に乗るつもりで、颯希と初めて会った駅へと降り立った。しかし新幹線の切符は思いのほか高価で、切符代だけで貯金がなくなることが判明し、新幹線は諦めた。
そして、結局のところ行く当てのない千紘は、見知った町へと舞い戻ってしまったのだった。
以前颯希と一緒に猫の死体を埋めた河川敷をねぐらに決めた。水道とトイレが近所にあり、橋の下で雨宿りもできる、なかなか悪くない場所だった。問題は藪蚊が多いことで、夜はあまり眠れなかった。
眠れないので、夜も出歩くことが多かった。昼と比べて涼しくて、夜活動するのは案外理に適っているように思えた。
人も獣もいない真っ暗な河川敷、土手の上の細い道、深夜でも煌々と輝く自動販売機。光に群がる昆虫と同じように、千紘も明かりに吸い寄せられる。キリッと冷えた炭酸ジュースが恋しいが、お金がもったいないから我慢する。飢えも渇きも水道水で誤魔化せる。
ふと空を見上げる。煌めく星はいつも変わらない。夏の大三角形が天に張り付いていた。
去年の今頃、颯希と見た夜空を思い出した。颯希が七夕伝説を教えてくれた。年に一度しか会えない織姫と彦星だけど、年に一度は必ず会える。カササギが天の川に橋を架けてくれて、二人は年に一度の逢瀬を楽しむのだ。
千紘は、颯希に二度と会えない。川に隔たれているわけではなく、神様に邪魔されたわけでもないのに、千紘が自分で会わないと決めたから会えない。
颯希は、きっと今も二人で暮らしたあのアパートに住んでいるし、今頃は温かいベッドで休んでいるのだろうけれど、千紘の手はもはや届かない。まるで別世界に行ってしまったような、遥か遠い存在に思えた。
もうこの世にいないはずのミータローの方が、余程近くに感じられた。だって、いつだって空の上にいて、千紘を見守ってくれているのだから。
今光っている星のどれかが、きっとミータローなのだ。一番明るい星がきっとそうだ。今決めた。あの、暗く高い天の上から、いつでも千紘を見てくれている。
去年の今頃はかわいい女の子との恋愛を妄想し、レモン味のファーストキスを夢見ていたのに、今思い出すのは颯希としたキスばかり。
オムライス味のファーストキス、煙草味の苦いキス、唾液を絡める濃厚なキス。頬を撫でる手の温もりも、舌の甘さも柔らかさも、全て鮮明に覚えている。覚えているのに、二度と触れることは叶わない。
目を閉じて、自分で自分の唇をなぞってみる。指を噛んでみる。それでも、颯希とのキスには遠く及ばない。
そのうちこの感覚さえも忘れて、颯希の輪郭だって薄れてしまうのだろう。出来のいい脳味噌ではないから、きっとすぐに思い出せなくなる。千紘にとって、一番怖いことだった。
*
「……瀬川くん……?」
暑さを逃れてコンビニで一休みしていたら、高校のクラスメイトに出くわした。名前は、確か小林。
「オマエ、なんでこんな時間にこんなとこいんだ? 学校サボり?」
「人聞きの悪いこと言わないでくれよ。テスト期間だからさ。瀬川くんこそ、何してるの? 学校にも来ないで」
小林の千紘を見る目は、心配と少しの好奇を孕んでいた。何しろ、今の千紘の恰好は酷いものだ。夏だというのに風呂に入らず、着替えもない。自分では気付かなかったが、相当汚れていた。
「……もしかして、行くとこないの?」
「はァ~? 行くとこくらいあらァ」
「そう?」
「お~よ。オレぁ、あちィからちっと涼んでるだけで――」
強がってみたが、腹の虫は抑えられなかった。ぐるるるる、と餓えた狼の唸り声みたいな音が鳴ってしまった。
「……お腹空いてる?」
「う……まぁ、ちょっとな。ちょっとだぜ? こんくらい、全然我慢できるし……」
目の前に並ぶ菓子パンが、ショーケースに陳列された宝石のように思えた。目で食べて我慢するつもりが、逆に目の毒だったかもしれない。また腹の虫が騒ぐ。
「何か買ってこうか。僕もお腹空いてきたし」
「いや、オレぁ、ホントにいいんだ……」
この程度の空腹ならば、水道水で満たせるはず。経験から知っていた。けれど、昔よりも空腹に対して脆弱になった気がする。颯希の旨い飯に慣らされたせいだ。
「瀬川くんのも買ってあげようか」
「えっ!? あ、や、でも……」
千紘は一瞬喜んだが、他人に軽々しくごちそうになってはいけない、と颯希に言われたことを思い出した。
「い、いいって、ホント。気ィ遣うなよな~」
「でも、お腹空いてるんでしょ? 別に、パン一個買うくらいのお金あるよ。選びなよ。それともホットスナックにする? ほら、唐揚げとかあるよ」
唐揚げと聞いて、涎が溢れた。目にしてしまえば、抗えなかった。
「……ホントに?」
「いいよ。好きなの選びなよ」
「じゃ、じゃあ……」
コンビニの前で、二人で唐揚げを食べた。あったかくてしょっぱくて脂っこくて、人生で食べた唐揚げの中で二番目にうまかった。
「ごちそーさま。あンがとな、腹膨れたわ」
「瀬川くん、そういうとこちゃんとしてるよね」
「は? どーいうとこ?」
「いや。ねぇ、今晩うち泊まったら?」
「はァ!?」
千紘は一度断ったが、「唐揚げ奢ってあげたんだから」などとよく分からない理屈を付けられ、最終的に折れた。
*
久しぶりのシャワーは極上の気持ちよさだった。千紘は、知らないシャンプーの匂いに包まれた。湯船にも浸かりたかったが、贅沢は言っていられなかった。着替えも貸してもらった。嗅ぎ慣れない柔軟剤の匂いがした。
夕食までごちそうになった。メニューはカレーライスだった。颯希のカレーは福神漬けがトッピングされているが、小林家のカレーはラッキョウだった。肉も野菜も大きめにカットされていて、キノコが入っていて、ルウは辛口で、千紘はヒィヒィ言いながらも完食した。
夜は、小林の部屋に来客用の布団を用意してもらった。布団はふかふかで気持ちよかったが、やっぱり嗅ぎ慣れない匂いがして落ち着かなかった。
「なんか、わりィな。何から何まで」
「普通じゃない? 友達ならさ」
「友達かぁ」
友達の家に泊まるのは、千紘は初めてだった。小林も、友達を家に泊めるのは初めてだと言った。
「瀬川くん、明日は学校来る?」
「あ~、学校なぁ……」
「このままだと、夏休みずっと補習受けさせられちゃうよ?」
「……いーんだ。オレぁ、もう学校やめっから」
一人で生きていくと決めたんだ。今はまだ宿なしだけど、そのうちアルバイトでも見つけて、一生懸命働いて、颯希がいなくても真っ当に生きていかなくては。
「せっかく入学したのにもったいないよ。お兄さんも心配するよ?」
お兄さん、と言われてはっとした。学校で颯希のことを話す時は、兄貴だと説明していた。本当は、そんな単純な言葉で表現できる関係じゃないのに。一言で言い表せる関係ならば、どれほどよかっただろう。天井の木目がぐるぐると渦を巻いて、落っこちてきそうだった。
「瀬川くんってば」
小林の呼びかけに、千紘はまたはっとなった。
「わ、悪ぃ。考え事してた」
「……」
小林はゆっくりと体を起こし、千紘を見下ろした。
「お兄さんのこと?」
「ちがっ……」
小林の全てを見通すような目に、千紘は観念した。
「……違くない。オマエ、なんか知ってんの?」
「そうだな。言うつもりはなかったんだけど」
お兄さんから電話があったよ、という小林の言葉に、千紘は勢いよく布団を蹴飛ばした。
「はァ!? マジかよ! 早く言えよぉ、そーいうのはよぉ~」
「ごめんごめん。何日か前にね……」
千紘がそちらへ行っていないか、もし来たら連絡をください、という旨の電話だったらしい。捜さないでと手紙に書いたのに、颯希はちっとも千紘の言うことを聞いてくれない。
「電話は僕が出たから、親は知らないよ。でもクラス中に電話が回ってるみたいだから、見つかるのも時間の問題じゃない? 家出なんてやめて、帰りなよ。心配してくれる家族がいるって幸せなことだし、キミも家が恋しいんでしょ?」
「そりゃあ……」
恋しいに決まってる。家が恋しい。颯希が恋しい。あの声で名前を呼んでほしい。頭を撫でてほしい。……キスしてほしい。
「やっぱダメだ。帰れねぇ」
「どうしてさ。そんなに酷い喧嘩したの?」
「そんなんじゃねぇよ。オレがただ……あいつンそばにいっと、オレがつれェんだ。だから……」
だから、逃げた。今理解した。逃げるなんてかっこ悪いことだけど、じゃあ他にどうすればよかったのだろう。もっといい方法があるなら、誰か教えてくれよ。
「……僕さ、前からずっと気になってたんだけど。瀬川くんとお兄さん、本当はどういう関係なの? 本当は兄弟じゃないんじゃないの?」
「……うん」
「やっぱり」
「あいつ、いいやつなんだ。オレんこと引き取って、育ててくれて。兄貴だと思えって、最初会った時にあいつが言ったから、オレもそのつもりでいたんだけどよぉ……」
「最近は違うの?」
「……オレが変わっちまったんだ」
初めての外泊に浮かれているせいなのか、照明が落ちているおかげなのか、不思議とすらすら言葉が出てきた。小林はクラスメイトではあるけれど、込み入った話をするような深い仲ではなかったのに。
「オレ、あいつの特別になりたかったんだ。でも、あいつはオレをそんな風には思ってなくて。颯希の人生にとって、オレは邪魔モノでしかねーんじゃねーかって思ってさ。オレさえいなけりゃ、颯希ももっと自由に生きれるんじゃねーかって」
「それが本当の理由?」
「本当の……? 本当は……」
こんなこと、友達に話していい内容なんだろうか。千紘は分からなくなっていた。ただ、話せば楽になるんじゃないかとも思った。
「……ホントは、もういやンなってたんだ。オレんこと見てくれねー颯希にムカついてた。いつまでも保護者面しやがるのが気に食わなかった。オレんこといつまでも子供扱いしやがって、そーいうとこがマジで……大っ嫌い」
「ふぅん」
薄暗い照明が小林の影に遮られる。千紘の視界に闇が落ちる。
「じゃあ、試してみる?」
「……何を?」
「僕が、キミの特別になってあげるよ。そうしたら、お兄さんにムカつくこともなくなるんじゃないかな。家にも帰れて、学校にもまた通えるし、お兄さんの人生を邪魔しないで済むよ」
「……そーなん?」
「うん。そんな酷いお兄さんのことなんか、忘れちゃいなよ」
「……そーいうもんか……?」
小林の手が、千紘の顔の横に置かれる。ゆっくり、ゆっくりと、小林の顔が近付いてくる。真っ暗闇の中、遠近感が掴めない。
鼻先が触れ合うほどの距離まで迫られて、千紘はようやく、この先に待ち受けている行為を理解した。咄嗟に、小林の顔を両手で覆った。掌に、唇の湿った感触があった。
「せ――」
「ごめんやっぱムリ!」
「……傷付いたよ」
「えっ、えっ、ごめん」
小林はあっさりと離れていった。
「僕は嫌い?」
「キライじゃねーよ、全然。だって友達だろ?」
「うん。でも、お兄さんに対する気持ちとは違うんだね」
「んぇ? うーん……」
「なんでそこで考えちゃうんだよ」
「オマエのことも、いいやつだって思うぜ? 食いモン奢ってくれて、家泊まらしてくれたし」
「でも、それ以上はないんだろう?」
小林は、自分の布団に横になった。
「キミ、やっぱり帰った方がいいね」
「帰んねーってば」
「だってキミ、颯希さんじゃなきゃ駄目なんだろう? この先、誰の特別になれたところで、颯希さんじゃなきゃ意味がないんだろう? このままじゃ、一生満たされないまま生きることになるよ。そんな人生でいいの?」
「うっせーうっせー! オレぁ、もう帰んねーって決めたんだ」
「まぁ、こういうのは自分で決めないと意味ないよな」
「オマエ、告げ口すんなよな!」
「しないよ、そんなつまらないこと」
千紘は布団に包まり、丸くなって眠った。野宿よりもずっと快適なはずなのに、なぜか心が寒かった。こんな夜は、誰かに抱かれて眠りたい。
早朝、家族がまだ寝ているうちに、千紘はひっそりと小林宅を後にした。借りた服は畳んで返し、世話になったことへの感謝を書置きに残した。
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