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第六章 番外編 バレンタインデーにはチョコレートを②

「――てなわけで、その日はいい感じに終わったんだけどさ」 「待って待って、僕は何を聞かされているわけ?」    バレンタインの顛末を、千紘は小林に話して聞かせていた。   「だって、オマエにしか話せねーじゃん。オレと颯希んこと知ってんの、オマエだけだし」 「だからって、友達のそういう話はあんまり聞きたくないよ」 「そーか? オマエって物知りだし、けっこー頼りにしてんだけどな」 「……それで、その後どうなったの。いい感じじゃなくなったのかい?」 「問題はバレンタイン当日よ! オマエも、なんかいっぱいチョコもらったっつってたけどよ~……」    今年のバレンタインデーは平日だった。千紘のクラスでも、男女問わずに皆そわそわと色めき立っていたが、バレンタインデーに浮き立つ気持ちになるのは、何も思春期の少年少女に限った話ではないらしい。その日、颯希は大量のチョコレートを抱えて帰宅した。    颯希はネクタイを緩めながら、紙袋いっぱいに詰まったチョコレートをテーブルにどさどさとばら撒いて、「好きなだけ持ってけ」と千紘に言った。   「……なンこれ」 「チョコ」 「見りゃわかんだよ! えっ、なに? 颯希ってもしかして、会社でモテまくってんの?」 「よく分からんが、今年はやたらといっぱいもらった。捨てるのも悪いし、毎日ちょっとずつ食ってくれ」 「そ、そりゃあ、食うけどよぉ……」 「心配すんな。別に告白されたわけじゃねぇから」 「し、心配なんかしてねっつーの! くそぉ、これだからイケメンはムカつくぜ!」 「なんだお前、俺をイケメンだと思ってんのか」 「モテモテだからって調子のんなし! ばーかばーか」 「それと、こっちのは美山先輩がくれたチョコだ」    颯希がカバンから取り出したのは、小洒落たミントグリーンの手提げバッグだった。   「二人で食べろって」 「えっ、オレも食っていーの?」 「当たり前だろ、そのためにくれたんだから。後で電話してお礼言っとけよ」    バッグと同じミントグリーンの四角い箱は、まるで小さな宝石箱だ。値段を聞かなくても、ぱっと見ただけで高級ブランドと分かる。こんなもの、特別な相手にしか贈らない。相手が茜でなかったら、それはもうれっきとした告白だ。    いや、待て。よくよく見てみれば、さっき颯希がテーブルの上に雑に広げた義理チョコの中にも、本命らしきものがいくつか混ざっているではないか。    かわいらしいハート形のボックスを開けてみれば、いつかショーウインドウの向こうに見た、真っ赤なハートのボンボンショコラが顔を覗かせる。    千紘は真っ先にそれを頬張った。かりっと小気味よい音を立てて弾け、蜜が溢れた。甘すぎずほろ苦い、上品な大人の味がした。     「――ってな感じで、颯希は会社でモテまくってる。間違いねぇ」 「それでキミは、颯希さんが浮気するかもって心配してるわけ?」 「はぁン? んなことあるわけねーだろ!」 「えぇ……」 「颯希がんなことするわけねーもん。心配もなんもねーよ」 「そう。信用してるんだ」 「そ! 信用してる! けど……」    颯希に色目を使う女がいる、ということ自体がどうしても嫌だった。千紘のあずかり知らぬところで颯希に触れたり話をしたり、千紘の知らない颯希の姿を目に焼き付けたりしている女がいるのかと思うと、全くもっておもしろくない気分になってくる。   「はーぁ、オレって心が狭いんかなぁ~。ケチくせー生活のせいで、心までケチんなったんかな。オレばっか意識してるみてーで、なーんかムカつくしよ~」 「……じゃあ、颯希さんにも焼きもち焼いてもらおうか」 「んなことできんの」 「できるよ。ちょっとこっち来て」 「……?」    学ランの第二ボタンまで外されて、シャツの襟をぐいと引っ張られた。伸びるからやめろ、と言おうとした時、首筋を強く吸われた。ちくりと刺すような微かな痛み、今までに経験したことのない刺激を覚えた。   「っ……?」 「おまじない。いざって時に颯希さんに見せてごらんよ」 「はぁ……?」    目をぱちくりさせるばかりの千紘に対し、小林は意味深長な笑みを浮かべた。    *    さて、明日はお待ちかねの休日だ。今夜は思う存分夜更かしして、颯希とイチャイチャできる。ということは、きっと今がいざって時なのだろう。    風呂上がり、千紘は張り切って、あえて薄着で颯希の前に立った。   「さ~つき♡」    颯希は千紘の声に顔を上げた。かと思えば、目を剥いてコーヒーカップを取り落とした。「あっ」と驚く間もなく、黒い染みがカーペットに広がった。   「えーっ!? えっ? どっ? えっ、えっ? 颯希ぃ!?」    こんな大惨事にも係わらず、颯希は呆然と千紘を見続けるばかりで、千紘の方が慌ててしまった。    えっと、えっと、こんな時、まずは雑巾だ。雑巾で拭かなきゃ。でも、アレ? 雑巾ってどこにあるんだっけ。ていうか、颯希は大丈夫なのか? 火傷とかしてない? どこか痛くて動けないとかだったらやだな。    そういえばキッチンに床用の雑巾があった。そう思い出して動き出そうとした千紘の肩を、こちらもようやく動き出した颯希ががっちりと掴む。   「お前……」    地獄の扉が開くような恐ろしい声に、千紘は身を竦めた。「早くしないとカーペット染みになるよ」なんてとても言い出せる雰囲気じゃない。   「何だよ、それ。首の……」    ああ、やっぱりコレに反応してこうなっているのか。でも、なんだか聞いていた話と違うような。    小林の話では、焼きもちを焼かせるだけだって。でも、今の颯希は明らかにキレている。キレている上に、通常ならばあり得ないくらい取り乱している。コーヒーをぶち撒けたのに、平気でそのままにしているなんて。    颯希は、凄まじい雄の獰猛さを隠そうともせず、千紘に迫った。鋭く閃く眼差しに刺し通され、千紘は身動き一つできない。恐ろしいからではない。今、颯希の全神経が己に集中していることを感じ、肌がヒリつくほどにそれを感じ、あまりにもぞくぞくして動けなかった。    もしかしたら、これこそが颯希の焼きもちなのかもしれない。そうだとしたら、なんて苛烈なんだろう。颯希の焼きもちに比べたら、千紘のそれなんて子供の戯れみたいなものだ。自分はとんでもない男を好きになったのかも。でも好き。   「だっ……だって、チョコが……」    喉を震わせて、千紘はようやくそれだけ答えた。颯希は訝しげに眉を顰める。   「チョコ? バレンタインのか?」 「さ……颯希だけ、いっぱいもらってずりーから、オレも……」 「……それでなんでこうなるんだ」 「だっ、だって……! オレだって、颯希にヤキモチ、妬かせたかったんだもん……!」    千紘の肩を鷲掴みにしていた颯希の力が緩む。   「……は?」 「ホントそんだけだし! 颯希ばっかモテて、オレばっかムカついてたら、ふこーへーじゃん! 颯希にもヤキモチ妬いてほしかったの! そんだけ!」 「はぁ……?」    お子ちゃまのわがままみたいなことを自棄になって喚いて、千紘はだんだん恥ずかしくなってきた。    颯希がモテることにムカついているとか、颯希の周りの女にムカついているとか、子供じみたヤキモチを妬いているとか、そういうの全部、颯希本人にだけは知られたくなかったのに。千紘がどれだけ颯希を好きか、バレてしまう。心が裸にされるみたいで恥ずかしい。   「……だ、からって、浮気は――」 「はぁ~ン!? そんなんしねーよ! するわけねーじゃん! 颯希のアホ!」 「はぁ!?」 「オレぁ颯希一筋だぜ? 一途だかンな!」 「……はぁ~~!?」    颯希は素っ頓狂な声を上げた。こういうの珍しいな、と千紘は密かに思った。   「じゃ、じゃあ何なんだよその痕は!? どう見たって――」 「あ~? コレぁ、おまじないらしいぜ。颯希にヤキモチ妬かせるための」 「だ、おま、んだそれ、そんなん、お前……」    颯希は本格的に取り乱し、たたらを踏んだ。それからはっと気付いたように後ろを振り返り、リビングの惨状にまたもあたふたと取り乱したのだった。    *   「で? バレンタインでチョコもらってきた俺に嫉妬して? 焼きもち焼かせたくてキスマーク付けてきたって? そういうわけだな?」 「ぅ……はい」    改めて言葉にされると恥ずかしい。颯希は眉間を押さえ、深く溜め息を吐いた。   「小林ってのは、前にお前が泊まりに行った?」 「うん」 「あいつか……」    颯希は軽く舌打ちをする。   「お前、二度とさせるなよ。隙も見せるな」 「でもよぉ~、キスマーク? って何なんだよぉ。小林はなんも言ってなかったぜ? そんなやべーもんなん?」 「はぁ~、お前……」    颯希はまたも溜め息を漏らす。   「いいか? キスマークっつうのはなぁ……」 「わっ」    いきなり抱きすくめられ、ベッドに押し倒された。   「キスマークっつーのは、セックスしましたって証拠みたいなもんだ」    パジャマの襟をぐいっと引っ張られ、首筋に吸い付かれた。小林の付けた痕を上書きするように、歯を立ててきつく吸われる。皮膚が引き攣れ、血液が吸い上げられ、チリチリと焼けるように痛い。    もういいだろってくらい十二分に吸ってから、ちゅう、と音を立てて唇が離れ、一段と色の濃くなった鬱血痕をべろりと舐められた。   「それから、俺のモンって印でもある」    千紘を見据える颯希の目は、完全に獲物を狙う捕食者のそれで。ぞくりと背筋が粟立った。   「へ、へぇ~……」 「分かるまでじっくり教えてやるから、覚悟しろよ」 「ほ、ほどほどでいーヨ……」 「ほどほどで済むかよ。まだムカついてんだ」    大変なことになったかも、と千紘は冷や汗を流すが、後の祭りだ。

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