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14.予期せぬ再会
リレイの生家へ続く道中、ワースの母親が立っていた。
逃げ出したリレイを父親は快く思っていないと始めに伝えられた。だから門は潜らせられない、代わりに自分が迎えに来たのだと。彼女の管理する薬草園から続く勝手口を通って、母が押し込められた離れに向かう。
途中の薬草園から香る香草の匂いが、すうっと胸の支えを溶かしていった。
「……長い間、面倒をおかけしました」
「面倒なんかではないわ。家族の看病をするのは当然のことよ」
ワースの母親は、この家の2番目の妻。聖女と呼ばれるほどに様々な治癒術を使いこなす治癒術師だ。母と同じように魔力を見込まれて嫁ぎ、跡取りを見事産んだ女性。特権階級に許された複数の伴侶達の中で一番立場が上の奥方だ。
……この女がワースさえ産まなければと憎んだ事もあったけれど、母の治療をしたり見舞ってくれていたのはワースの母親だけだった。不調に苦しむ母を救いたかった時、治癒術を一から教えてくれたのも彼女だった。
「……治してあげられなくて、ごめんなさい」
ワースの母親が少し震える声で呟く。治そうとしてくれていたというのか。リレイですら運命だと諦めて、見捨てようとしたというのに。
「いえ、感謝しています。貴方が居なければきっと母に会う機会すらなかった」
最初の子であるトルリレイエと2番目の子であるワースラウルは勢力が敵対する対立軸だった。最終的にワースラウルが勝ったけれど、トルリレイエがまだ優勢だった時から彼女はトルリレイエにもティレリアにも優しかった。
ワースの母親こそ本物の聖女だと、リレイは改めて思う。
本宅から少し遠い、離れ。
薬草園に近い一階の部屋で母は居た。穏やかな顔に見えるが目に見えて痩せ細っていて、顔周りは特に痩せこけているという表現がぴったりだった。ひゅうひゅうとすきま風のような呼吸音をさせて眠っている。
「母様……」
そっと手を両手で包む。ほっそりとした手は力を入れたらリレイですら手折れてしまいそうだ。恐る恐る持ち上げて、頬に当てた。
昔、どうにもならない気持ちを爆発させて癇癪を起こしていた時に頬を撫でてくれた手。泣きわめいても、嫌いだと言葉をぶつけても、変わらず抱き締めてくれた手。
「……トルリレイエ……?」
ゆっくりと、母の青い瞳が姿を現す。視線が真っ直ぐリレイを捉えてすうっと目が細められた。
「言ったはずですよ……二度と戻るなと」
聞き取るのがやっとの、か細い声。けれど魔力を纏った声は1文字たりとも溢れ落ちること無くリレイに伝わってくる。
「ごめん、なさい……」
懐かしさのせいだろうか。時間があの日へ一気に巻き戻ったような、不思議な感覚に心臓が揺れた。
「出来損ないでごめんなさい、貴方を見捨ててごめんなさい、戻ってきてごめんなさい、でも」
押し留めていたものが溢れ出して止まらない。上手く昇華したと思っていた母親への未練がゆっくりと顔を出す。
「どうしても……母様に会いたかった……」
ぽつりと転がり落ちてきた言葉。
少しだけ、母の瞳が見開かれたような気がした。リレイが頬に押し当てていた母の手が意思をもって動いて――そっと頭を撫でた。
「……息災に、していましたか」
静かに、落ち着いた声が鼓膜を揺らす。
「はい。魔術師になりました。冒険者をしています」
よかった、と微笑む笑顔は弱々しいが優しい。まるで幼い頃に魔術の師をしてくれていた時の母のような、凛とした瞳。
「お友達は……大切な人は、できましたか」
「人付き合いが、下手で……」
あぁそうでしょうねと母は困ったように笑う。少し釈然としないが、トルリレイエはプライドの高さが隠せない子供だった事を思い出して反論の言葉を引っ込めた。
「でも、一番の相棒が出来ました。大切な……パートナーが」
少しだけ、ハーファを街に置いてきた事を後悔した。出来るなら母には会わせたかった。今一番大切にしている人を、大切な家族に会わせたかった。
その言葉を疑われているのか母はしばらくリレイを見つめた。少し間を置いてから、よかった、と吐息を溢す。
「ならば早くその方の元へ帰りなさい。ここに居てはいけません。この家に縛られずに生きなさい」
いつも母は逃げろと言う。自分自身は恐ろしいほど己の役割に頑なだったというのに。その生き方に何か思うところがあったのだろうか。
「貴方には小さい頃から無理をさせてしまいましたね……辛い思いばかりさせてごめんなさい」
少しずつ声が小さくなっていく。代わりに言葉が魔力を纏って、直接頭の中に響いてくる。
「会いに来てくれて、ありがとう……トルリレイエ……私の、大切な…………宝物………………」
「…………母様?」
リレイを見つめたまま急に動かなくなった母に、認識が追い付かなかった。ついさっきまで微かに揺らいでいた魔力が溶けるように消えていく。リレイを撫でていた手が滑り落ちて、シーツの上にぱたりと落ちる。
「あ……かあ、さま……」
嫌でも分かる。体が弱いと言われていてもさざ波のように揺らいでいた母の豊かな魔力は、今や空っぽで。安らかに微笑んだ口元から呼吸の音は何もしない。先程まで暖かかったはずの手は冷えきっていて、ついさっき死んだ人間のそれではない。
シーツの上で固まってしまっている手をゆっくりとさする。溢れてくる涙が押さえられずに、数滴落としてしまった。
待っていてくれた。戻るなと言っていたけれど、リレイが会いに来るのを待っていてくれた。死した自分の魂を魔術で骸に繋ぎ止めてまで、話すために時間を戻す禁術を仕込んでまで、リレイを想ってくれていた。
「トールさん……」
今度こそ、約束を守らなければ。
「……見つかる前に、帰ります。すみません、後の事は」
「分かったわ。……全て終わったらお母様の物を何か渡せるようにするから」
「ありがとうございます」
ワースの母親は、母の亡骸を抱き抱えて部屋を出ていった。薬草園から出る時間を稼ごうとしてくれているのだろう。反対方向にある本宅の方へと足音が響いていく。
気持ちは落ち込んでいると分かるのに、どこか清々しかった。ずっと心の端に引っ掛かっていたトゲが抜け落ちたような。
……早く帰ろう。背中を押してくれたハーファの元へ。
けれど。
「帰っていたんだね、トルリレイエ」
部屋を出ようと意識を切り替えた時、入口から聞こえてはいけない声がして体が凍りついた。
父親は、リレイを快く思っていない。
期待の第一子が剣すら扱えないというのもあるけれど、一番の理由は能力を持ち逃げしたことだ。弟には伝わらなかった、父親が持つ【連結】の能力。知らない弟妹が引き継いでいるという訳でもない限りはリレイだけが持っているはずだ。
見つかってしまったら二度と自由はないだろうと、あの日の母は言っていた。
「父、様……」
どくどくと心臓が走り始める。
目の前の男は笑顔ではあるが笑ってはいない。恐ろしく重い怒気を含んだ気配がひたひたと押し寄せてくる。
父親は真面目すぎる人だ。家のためにと関わる血を選び、伴侶を選び、子供を選んだ。そこに父の意志があったのかは分からない。一番人生を犠牲にしてきたと言っても過言ではないかもしれない。
出来損ないの自分に苦しんだのは母の事だけではない。父親も周囲からの重圧に曝されていると知っていたからだ。
なのにリレイは全て捨てて逃げ出した。そのくせ、こうしてのうのうと舞い戻っている。
昔から、いつも感情を抑え込んでいる父親から溢れてくるものは怒りばかりだった。今も目の前の男は怒りだけを滲ませて微笑んでいる。
「よく戻ってきてくれたね。待っていたよ」
「……ご迷惑をおかけしました。すぐお暇いたしますので」
近付いてはいけない。話してはいけない。今のリレイが何を言っても父親の神経を逆撫でする結果にしかならない。
全面的に服従するならまだしも、そんな訳にはいかないのだ。帰らなければ。
「そんな悲しい事を言わずに。そろそろ気も済んだだろう? 戻っておいで」
……執拗に食い下がってくるという事は、自分の能力を他の子供に継がせることが出来なかったんだろう。一子相伝だなんて説を見かけた事はないけれど、引き継がれる確率は低いという事だろうか。
じりじりと距離を詰めてくる父親の隙を伺いながら、突破口を探す。
年齢差があるとはいえ現職の騎士である父親の方が身体能力は遥かに上。術の扱いも経験が豊富で魔法剣を使いこなす向こうに分がある可能性が高い。魔術師のリレイが単純に勝てるものは魔力の強さのみだろう。
「嬉しいお言葉ですが、待たせている仲間が居りますので。失礼いたします」
壁をぶち破って、地面に打ち付けた魔術の反動を利用して距離を取るしかない。着地が少し心配だが、ただ走り出した所ですぐに追い付かれるだけだ。
結局力業になるのかと心の中で自嘲した瞬間、父親が不気味にニイッと笑った。
「……その仲間というのは、彼の事かな?」
おいで、と呼ばれて現れた影。室内の明かりに照らされて見えた姿は、深い緑の混じる茶色の髪と、瞳。
動きやすい服に軽い鎧を身につけたその人は、街で自分を待っているはずの相棒と同じ姿をしていた。
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