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春疾風(はるはやて)

 翌日、三限目から登校すると、昼休みに担任から職員室に呼び出された。 「夏目、今日どうした? 体の具合だいぶ悪いのか? たしか一、二年も春先頻繁に休んでたよな」  だいたい内容は察していたが、案の定だ。  オメガである旨は、届け出義務があるので学校にも知られている。だが、ストレイシープであることまでは報告していなかった。  だから担任は、春から夏にかけてすばるが休みがちなのを単なる体調不良かサボり癖だと思っている。心証はよくないだろうが、真相を話すつもりはなかった。その分テストでは常にトップをとって挽回に努めていた。  人の口に戸は立てられない。好奇の目から逃れるためには、知られる人数をごく少なくするに限る。 「まあ、卒業資格に足りてりゃいいし、普段の態度が真面目なのもわかってるけど。他の生徒の手前もあるから、一応注意な」  受験を控えた三年早々に遅刻早退が増えれば、当然の指導だ。遅刻したくてしているわけではないが、教師も職務に忠実なだけだ。すばるは「すみません」とだけ残して、職員室をあとにした。    教室に戻る。  半分はまだ食事中で、半分はさっさと食べ終えて談笑に興じているといった様子の教室で、すばるは自分の席が誰かに占領されていることに気がついた。  ――流星だ。  いつもつるんでいる陽キャ連中と机をくっつけて昼をとったらしく、近くだったすばるの椅子を自分のもののように使っている。  昨日もいきなり寛いでたけど、どこでも自分ちのように振舞えるの、凄い。 取り敢えず近くまで行ってみると、流星はすばるの姿に気が付いて、談笑の輪の中から面を上げた。ここぞとばかりに睨んでやると、なにやら口の形だけで告げてくる。 「じゅ、う、ま、ん」  ――くそ。  今日の帰り、絶対に下ろしてくる……!  拳を握ってぷるぷるしていると、クラスメイトの志村が手招きしてきた。 「夏目」  志村は、隣町の同じ中学から唯一この高校へ進学した生徒だった。誰ともあまり深く関わらないようにしているすばるとしては、一番親しいと言っていい。 「これ、午前中のノート」 「ありがとう」と受け取ると「出席のこと?」と小さな声で訊ねてくる。  すばると叔父が事故的につがいになり、その後引き離されたことは、地元の連中はなんとなくは知っている。だから志村もぼんやりとはすばるの事情を承知しているようだった。  きっと、親が交流を禁じたのだろう。それまで仲が良かった友だちたちとも距離ができ、中学時代は友だちがいなかった。  そんな田舎を離れるために国公立大を目指すことにした。そのためにこの高校を選んだ。  志村もここに進学したと知ったときには、正直身構えたものだ。せっかくあの好奇の目で遠巻きに見られる地元を離れてきたのに、と。  しかし志村は、すばるの予想を裏切って、過去などなにも知らない様子で屈託なく接してくる。  元来人と適切な距離を取るのがうまいのだろう。すばるにときどき声をかけつつ、クラスの中でも浮かないのは流石だ。    すばるは頷くと、家から持ってきた羊羹バーの封を切った。 「またそれ?」 「とりあえず脳に適切な糖分が入ればなんでもいいから」  もとはといえば羊羹は祖母の好物で、家に常備してあったものだ。その合理性に気づいてから、自分でも買い足している。 「最近マラソンとか災害の備えにも使われてる」 「えー、美味しいの?」 「いる?」  そんなに言うなら一つやろうと思い、鞄を探りながら言うと、さっと手が伸びてきて、すばるの食べかけを奪っていった。 「あっま」と言う声が降ってくる。――流星だ。 「出席のことって?」  どうやら、話が聞こえていたらしい。人の食べかけの羊羹を奪ったことを詫びるでもなく、訊ねてくる。  志村がこちらにちらっと視線を投げてきた。あっちに行けといったところで、また「十万」と言われるだけだ。仕方なくすばるは、話していいの意味で小さく頷く。  志村は一瞬意外そうに目を瞬いたものの、絶妙にぼかした範囲で口にする。 「春は夏目休みがちだから。夏目の塩対応が知れ渡るまでなんだけどね」  春に入学してくる新入生は、新しい環境に浮き足立って、上級生が五割増しでよさげに見えるものなのだろう。一見少女のように見えると評判のすばるの容姿は、穏やかそうな印象を与えるらしい。成績はトップクラス、かつ生徒会に所属しているとなると、女生徒からの告白をすべてすげなく断るとは思わない。〈新しい環境! 新しい恋!〉の対象に、打って付けということなのだろう。  しばらくするとすばるの冷たい所業は女子の間に広まって、告白される回数はぐっと減る。一年のときも二年のときも、じっとそのときを待つしか術はなかった。  流星は羊羹バーのアルミ袋を咥えたまま、なにやら険しい顔をしている。  欲している情報は渡してやったんだから、さっさとあっちに言ってくれないかな、などと考えていると、 「おーい、夏目。おまえに用事だってよ」  教室の入り口から誰かに呼ばれた。  呼んでいるのはクラスメイトの男子で、その向こうには、一年生らしき女子生徒の姿が見えた。  志村の言う通り、自分が絶対に告白を受け付けないことが知れ渡るまで、もう少しかかりそうだ。  すばるは前髪をかき上げ、大きなため息をついた。仕方なく席を立ち、のそのそとドアへ向かう。 「うわ、でっかいため息」 「おモテになる人は違いますなあ」 「あー、俺も困るほど言い寄られてみたーい」 「三年になったのに余裕あるな」  聞えよがしな声が聞こえてくる。  そんなにいいなら変わってやろうか。  喉元まで出かかった言葉をぐっと飲みこんで入り口にたどり着く。立っていたのは、上履きのラインから察するに一年生の女生徒だった。  もしかしたら友だちが廊下の隅辺りで待っているのかもしれないが、三年生の教室までやってくるのは見上げた度胸だと、嫌味でもなんでもなく思う。  人々の恋愛にかける情熱には圧倒されるし、尊敬の念すら抱いている。  ただ、自分にはどうしても応えられないというだけの話で。  だから、ことさらに冷たい声を出した。 「なに?」 「あ、はい、えっと――今日、放課後、お時間頂けないかなと、思って」 「無理」  ぴくっと女子生徒の肩が震える。思いやりがないことはわかっている。けれど、こうでもしないとあとあと面倒なことになるのは経験上思い知っていることだった。  すばるは、自分の地頭が実はあまりよくないことを知っている。  この進学校に入れたのだって、なんとかして自分の過去を知っている人間がいないところに行こうと、必死で勉強したからだった。  だから、何度もアプローチをかけられたり、ましてや、昨日のように触られたりするのは困る。どうしても体調を崩してしまうし、その度に勉強が遅れる。  高校と卒業と同時に遠くへ行きたい。すばるにはそのために必死なだけだった。  女子生徒はめげずに面を上げる。 「あ、あの、じゃあ、明日は」 「無理。その先もずっと、無理だから」  一分の隙も与えないよう、きっぱりと応じる。  すると、女子生徒を背中にかばうようにして、別の生徒が現れた。 「そんな言い方ないんじゃないですか?」  案の定、友だちが近くで待機していたようだ。 「この子、凄く頑張ってここまで来たんですよ? 断るにしても言い方ってものがあるんじゃないですか?」  勝気な瞳で睨みつけられる。  知ってる、そんなこと。だからこそ冷たくあしらってるんだ。  気が付くと、教室中の視線が自分たちに集中していた。廊下側を見れば、隣のクラスからも何事かと顔をのぞかせている生徒までいる。 「今年の一年生はたくましいな」 「いやでも、言ってることまっとうじゃん」 「だよな。夏目がちょっと調子乗りすぎ」  そんな声まで聞こえてくる。  世の中はおおむね恋する人間に好意的だ。  好意を向けられることが恐怖でしかない人間がいるなんてこと、考えつきもしない。    いっそ、話す約束を取り付けて、ひとまずこの場を丸く収めてしまったほうがいいのか?  すばるの胸を、そんな考えがよぎる。  でも、気を持たせる方が残酷だ。  それに、昨日みたいに触られたりしたら、また――  酷いのはわかっている。だけどこんなとき、視界が真っ暗になるのだ。そして聞こえる。あの言葉が。 『おまえが誘惑したんじゃない、よな?』  と。    ――吐き、そう。  せっかく一日で治まってたのに。これ以上休むわけにいかないのに。  ちりっとした痛みが走り、無意識でうなじを押さえたときだった。 「うわ、なんだよ」 「ちょ、机の上乗るとか」 「誰?」  不意に背後が騒がしくなった。  いつの間にかドア側に密集していた人波を避けるために、誰かが机の上をどかどかと歩いてこちらに向かってきている。  誰か――流星は、ざわめくクラスメイトたちに顔色一つ変えずに入り口までやってくると、机から身軽に飛び降りた。  呆気に取られるすばるの背後から覆い被さるようにドアに手をかけると、女生徒ふたりに向かって言い放つ。 「こういうの、もうやめてくれる? こいつ、俺とつきあってるから」

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