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春眠(1)

   翌朝、すばるはどぎまぎしながら登校した。  昨日は帰ってからも振り回されていたからすっかり忘れていたが、 『こいつ、俺とつきあってるから』    などど、皆の前で大々的に宣言したのだ。    ただでさえ目立つ流星が、あんな突飛もない行動に出たのだから、きっと噂は知れ渡っているはず。下手したら教師も知っているんじゃないだろうか。  胃が痛い――  腹の辺りをさすりながら教室に入ると、案の定ぴたっと話し声が止んだ。  あまりにあからさまに静かになってしまって、クラスメイトたち自身も気まずい思いをしているのが伝わって来る。 「おう。どうした?」  間の悪いことに、背後から流星が登校してきた。今更踵を返して逃げ出すわけにもいかない。  誰もがどうしたらいいのかわからずにいる。そんな膠着状態を果敢に破ったのは、志村だった。 「辻! 夏目! おはよ」 「おう」 「お、はよう」  志村の声で、金縛りにあったようだった教室の空気の緊張がほどける。すばるが席につくと、流星は当たり前のようにすばるの席に腰をおろした。  なぜ。  戸惑っていると「ん」と顎で自分の膝の上を指し示してくる。 「なんでだよ!」  すばるが抗議の声を上げると、流星は「俺が上だと重いだろ」などと嘯く。 「いやポジションの問題じゃなく……」  額を押さえつつ呟くと、流星は愉快そうな笑みを浮かべたまま机の上に座った。それもどうかと思うが、膝に乗られるよりはましだ。  一連のやり取りを見ていた志村が、感じ入ったように呟いた。 「付き合ってるって、本当だったんだなあ……」 「は?」と大声を上げそうになったが、ぎりぎりで堪えた。 「嘘ついてどうすんだよ」  すばるとは裏腹に、流星は一ミリも悪びれる様子もない。クラス中に聞こえるように声を張っているのに、全然わざとらしくないから凄い。詐欺師の才能があるんじゃないだろうか。  志村が声を落とした。 「夏目がいろいろあったとき、俺たちはまだ子供で、どう接したらいいかわからなくて、結果孤立させちゃったなって。……ずっと、申し訳ないって思ってたからさ」  志村がなにかと気にかけてくれているのは感じていたが、単に同じ中学から唯一の進学仲間というだけでなく、そんな罪悪感からだったとは、思いも寄らなかった。  なんだかくすぐったくて、落ち着かない。 志村が流星に向かって言う。 「小学生のときとかは、もっと人懐こかったんだよ、夏目」  余計なことを、と内心舌打ちしていると、志村の表情が暗く曇った。 「それがどんどん口数も少なくなってって。――でも、辻とやりとりしてるときは、なんか表情が豊かっていうか、遠慮がなくて、ずいぶん人間ぽいよ。だから安心した」  志村は我がことのように微笑む。  志村はいい奴だ。  いい奴に嘘をつくのは心苦しい。しかし「十万円のTシャツに吐いてしまって、脅されている」とはいまさら言い出せない雰囲気だった。  苦々しい気持ちのまま予鈴が鳴る。一日が始まった。  しかし、始まってみるとその日は意外なほど快適な一日になった。  まず、女生徒から一度も呼び出されなかった。 「どんな美少女にも塩対応の夏目すばるが、東京から来たヤンキー辻流星と付き合っている」  という噂はあっという間に広まったらしい。  廊下を歩いているとちらちらと視線を投げかけられることもあったが、だいたい背後で流星がひと睨みすると、慌てて逃げていく。  クラスメイトたちが陰口を叩くのも、要はモテるすばるへの妬みだったらしい。  今後絶対に競合しない流星と付き合っているとなると、むしろどうでもいいようだ。教室内で、陰口を囁かれることもなかった。 「快適かも……」  思わず呟くと、流星は「だろ」とばかりにドヤ顔をしてみせた。  そうこうしているうちに、午後の体育の授業になった。  内容は持久走。受験に堪えられる基礎体力を養うということで、この学校では暑さが殺人的になるまでは、とにかく走らされる。  すばるは一、二年と体育を単位ギリギリまで休んでいた。  中学生の頃、下心のある教師に柔道の組み手で触られて吐いたことがある。  それがトラウマになっているから、極力体の接触がある授業は避けたい。  だから、クラスメイトのほとんどが難色を示す持久走は、すばるにとってはマシな種目だった。休みが多いのを指摘されたばかりだから、今日はなおさら出席しないわけにはいかない。  準備体操ののち、グラウンドをひたすら走る。柔道よりはマシというだけなので、基礎体力で自ずと別れていったグループの中では三つ目、最下位の団子の中に所属だ。  最下位仲間同士、親近感がわいたのか、クラスメイトのひとりが話しかけてきた。 「しんど。なあ、夏目これ、暑くねえの?」  これ――うなじの付け根まで伸ばした髪のことだろう。  髪型を規制する校則はないから、長い髪の男子生徒も珍しくない。だいたい体育の授業中は縛るのが普通だ。自分が疲れてきて、すばるの暑苦しい髪が気になるといったところだろうか。  すばるは髪を縛る気がない。  ――そこにもう、噛み痕がないとしても。  無防備に晒すことには抵抗があった。もっと言えば、恐怖だ。  晒して歩くことは怖い。たとえ汗になってもだ。 「暑くない」 「いや、見てるだけでも暑いって――」 「――、」  クラスメイトが、手を伸ばしてきて、すばるはびくっと体を強ばらせた。思ったより反応が大きくなってしまい、焦ってしまう。 「あ――」  取り繕わなきゃ、と思っているうちに、足がからまる。倒れ込むと、後続の生徒が蹴躓く。痛い、と思う間もなくその後ろの生徒も蹴躓く。  図らずも、次々背中にのしかかられる形になって、すばるの心は悲鳴を上げた。    あの日。  それまでいつものように笑顔で一緒にゲームをしていた叔父さんが、突然のしかかってきた。  大きな体の下敷きになって、すばるは身じろぐこともできなかった。  ――性的な行為に及ばなかったのは、叔父が強靱な精神力で堪えてくれたからだと思う。  その分、アルファの本能は、オメガのうなじを噛んで支配するという一点に強く向かった。  あの日の恐怖と痛みを、今も忘れられない。  汗ばんでいたはずなのに、体が冷たく冷えていく。 「――夏目!」  最後に誰かがそう叫ぶのを耳にして、すばるは意識を手放した。  

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