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23.委ねられた道、変わらぬ選択
水の音が聞こえてくる。流れ、噴き出すような音だ。途端に歩が緩まった。鼻筋に手が伸びる。けど、そこには何もない。奏人 が持って行ってしまったから。
留持 さんはいつもの場所にいると言っていた。何か不都合でもなければ、噴水の近くにいるはずだ。
今更ながらに身だしなみを気にし出す。深緑色の厚手のシャツに、クリーミーな白いTシャツ。ズボンは黒、緩くもなくキツくもない。スニーカーはラテ色だ。
首の真ん中の辺りをなぞるとツルっとした感触がした。絆創膏 だ。マナーとして付けた。他意はない。
「4年ぶり……か」
連絡は一切取らなかった。努力していればそれが便りになる。そう言ってくれた留持さんの厚意に甘えた形だ。
「……っ」
留持さんは何を思ったんだろう。いや、考えるまでもない。失望だ。心底呆れたに違いない。膝 が震える。首を左右に振って強引に歩を進める。
「あっ……」
顔を上げると、すり鉢状の階段が見えてきた。奥の階段には水が流れ、手前は歩いたり座れるようになっている。円の中心には裸の女神像。その後ろには15本の水柱。横に一列に並んで虹を描き出している。
「……いた」
噴水から10メートルほど離れたところに見知った人影があった。ベンチに腰掛けて本を読んでいる。
ラテ色のスウェットにカーゴパンツ、黒のスニーカー。坊主頭に重く垂れ下がった目尻。軍人を彷彿とさせるような凛々しさと緩慢さを併せ持つ、隙があるようで隙のないミステリアスな人。
ああ、やっぱり留持さんだ。4年前から何も変わってない。ほっとしたら涙が出そうになった。ぐっと堪えて前に進む。
近くまで行っても留持さんが読書を止めることはなかった。悪気はない。熱中してるんだ。ああなると声をかけるか、触れるかしないと気付いてもらえない。
「るっ、留持さん」
留持さんは数回瞬きをした後で、ゆっくりと顔を上げた。目が合う。長い睫毛 に縁どられた静かな瞳。夕凪みたいだ。変わらぬ感想をそっと胸に抱く。
「……良かった。ちゃんと来てくれた」
やわらかで、気だるげで、それでいてどこかあどけない声。感情の波が押し寄せてくる。慌てて頭を下げた。膝に前髪が触れる。
「すみませんでした。僕は……留持さんのご厚意を踏みにじりました」
「…………」
「本当にすみませ――」
「ひとまず座りなよ」
「いえ。僕はこのままで――」
「目立っちゃうでしょ」
「あっ……」
確かにその通りだ。休日の公園。周囲には笑顔が溢れてる。そんな場所で深刻な表情、それも立ったまま話をしていたら否が応でも目を引く。
「……っ、失礼します」
促されるままベンチに腰掛けた。背後には常緑低木の衝立 。更にその後ろにはどんぐりの森が広がっていて、地面には枯葉や小枝が散乱している。近付く人がいれば音で分かるだろう。
おまけに、正面には絶えず虹を生み出す噴水がある。余程のことがなければ僕らに目が向くことはない。
「こっち向いて」
「はっ、はい……」
噴水から留持さんに視線を移す。
「……っ」
夕凪の瞳は僕の心の奥底まで見透かしているようだった。居たたまれず目を伏せると、留持さんの膝元に目がいった。
紺色の表紙に、黄色いアルファベットが並んでる。Philosophyだから哲学書。ofとかtoがあるあたり英語版だろう。
もちろんこれはカッコつけなんかじゃない。留持さんはいずれにも精通している。哲学はこの4年で。語学は環境から。
何でもご両親は英語教授。中学まではインターナショナルスクールに通い、日常的に英語を使っていたらしい。おまけに留学を経てドイツ語にも堪能になった。
五輪の優勝インタビューでは、日本語、英語、ドイツ語の3か国語に対応していた。まさに文武両道だ。
「ちょっと見ない間に、すっかりお兄ちゃんになって」
「いえ……図体だけです。中身はまるで」
「ん? 嫌味?」
「あっ! いっ、いえ! そんな……っ」
留持さんの身長は確か165センチ前後。男の中ではやや小柄な方だ。本人は気にしてないと言っているけれど、ちょっとでも触れようものならこうして噛み付いてくる。
「しっ、失言でした」
留持さんはおかしそうに笑う。
「やっぱり君といると退屈しないな」
「そう……でしょうか……?」
「尚人 、改めてよろしくね」
「へっ……?」
自分でも笑ってしまうぐらい間の抜けた声が出た。だって、その言い方じゃまるで。
「一時帰国……なんですよね?」
「えっ? 何それ? こっからはもうずっといるつもりだけど?」
聞いていた話と随分違う。でも、本人がこう言ってるんだから間違いないだろう。
「大学、終わっちゃったしね」
留持さんは、膝の上の哲学書に目を向けた。寂しげだ。燃え尽きた線香花火を見るような目をしている。
射撃と哲学の二足の草鞋 。傍から見れば、苦労ばかりが目についてしまうけど、当人からすれば充実した日々であったのかもしれない。
「部屋も借りたよ。君の家より、うんと郊外だけど」
留持さんは山梨の人じゃない。東京・中野の出身で高校進学を機に甲府にやって来た。
理由は単純明快。東京SSのコーチと反りが合わなかったからだ。タイプとしては甘利 コーチに近い。おまけに広報活動にも意欲的で、しがらみを何よりも嫌う留持さんとは絶望的なまでに相性が悪かった。
「おじいさんとはもう一緒に暮らさないんですか?」
「ああ。……亡くなったんだ。半年ぐらい前に」
「……すみません」
「謝ることないって」
留持さんは笑顔だけど侘 しくもあった。聞いた話では偏屈な人で、理解者と言えば20年前に亡くなった奥さんと、孫の留持さんぐらいのものだったらしい。
実子であるお父さんとは特に険悪で、留持さんは常々胸を痛めていた。和解出来たのかな。果たせていることを切に願う。
「……とまぁ、部屋の用意があるわけだから、そっちに呼べよって思うよね? でもね、無理なんだ」
遠い目になる。溜息も零れた。とても重い溜息だ。反対に僕の口からは笑みが零れる。
留持さんは買い物が苦手だ。特に好きなものを買う時は無計画になりがちで、本棚に入りきれない本達が床や机の上で積み上がっていて――さながら都会のビル群のような様相になっているらしい。
今は引っ越しして間もないんだろうから、段ボールまみれに……いや、留持さんの様子から察するに、既にビル群は形成されつつあるのかもしれない。
とはいえ、僕も人のことをとやかく言える立場にない。僕がそうなっていないのは偏 に奏人のお陰。あのお小言がなければ、同じような生活を送っていただろう。
「ここで十分ですよ。ここなら誰か来ても気付けますし」
留持さんは深く頷いた。でも、今度は笑う余裕はない。喉が干上がっていく。――いよいよだ。
「じゃあ、本題に入ろうか」
「……はい」
「君達の秘密を知る人間は全部で3人いる」
一層小さな声になった。念のためだろう。気遣いに感謝しつつ僕もそれに合わせる。
「武澤 頼人 さん、滋田 寛 さん、そして僕、留持 涼 だ」
そうか。だから兄さんは静観を解いたんだ。点と点とが繋がり合っていく。
「2人とは五輪の慰労会で知り合った。お兄さんは自発的に。中庭でサボってる僕を見つけ出してくれたんだ」
僕の認識では2人には親交はなかった。でも、過去には僕が、今は奏人がお世話になっているから、これを機にきちんと挨拶をしようと時間を割いてくれたんだろう。
「滋田さんは……ほぼ偶然だね」
「というと?」
「逃げてきたんだよ」
「逃げ……っ!?」
「見た目に反して内面はすごく地味というか、繊細な人みたいだね。気の毒に思うよ」
腑に落ちた。奏人が自衛に走らなければ、滋田さんのようになっていたのかもしれない。
滋田さんが自衛に走れないのは責任があるからか。もしかしたら、幼少期の環境も影響しているのかもしれない。病院暮らしであったらしいから。
「……変わらないね」
「えっ?」
留持さんは首を左右に振った。掘り下げる気はないみたいだ。気にはなるけど後回しだ。
「じゃあ、その……留持さんは、滋田さんから僕らのことを聞いて――」
「逆だよ。僕から滋田さんに密告したんだ」
「……半年前……僕が弟子入りをした時にはもう?」
「そうだね。話したのは1年ぐらい前のことだから」
「じゃあ、滋田さんは僕の魂胆も見抜かれた上で」
「俺のせいだって、そう言ってたよ」
「っ! ちっ、違います。滋田さんはきっかけに利用されただけで――」
「だろうね」
「えっ……?」
息を呑む。そんなことまで。留持さんにはどこまで見えているんですか……?
「あ……っ」
首に意識がいく。これを見て悟ったのかもしれない。
「見抜くポイントは勝った時、厳密に言うとその瞬間の表情だね」
話しが移った。やっぱりだ。悟ったのは今。十中八九、滋田さんはもちろん、兄さんにも僕らの関係は伝わっていないだろう。
奏人が僕との関係をオープンにしたいのか、あるいは伏せたいのかは定かじゃない。後者ならまた1つ留持さんに嘆願する事項が増えることになる。
「端的に言えば、相手に対して敬意……『ありがとう』の気持ちがあるかないかだ」
合点がいった。言われてみれば確かに決定的な違いだ。
奏人にとって試合、ひいては勝つことは最大の肯定。心のバランスを保つのに欠かせないことだ。だから勝利を渇望している。敬意を抱く余裕すらない程に。
「やっぱり、その……学のある方は違いますね」
留持さんは控えめに笑った。どこか冷めているというか、困っているというか、何にせよポジティブな感情でないことは明白だった。
「すっ、すみません――」
「ただ、好きなだけだよ」
「好き……?」
留持さんは擽 ったそうに肩を竦 めた。
「君の喜ぶ顔を見るのが」
「あ……っ、……~~っ」
視界が歪む。慌てて拭うけど止まらない。
「ごめんなさい……ごめん、なさ……っ」
「泣き顔は……ちょっと苦手かな」
タオルハンカチを差し出してくれる。ありがたいけど遠慮した。鼻水も出てしまっていたから。
「ぐっ」
「洗って返してくれればいいから」
顔に押し付けられた。こうなったらもう厚意に甘えるしかない。「すみません」と一言お詫びして目と鼻を拭った。ハンカチもまたラテ色だった。右端にはカップ片手に和むブチネコの刺繍が入っている。罪悪感も一入 だ。
「背中、さすってもいい?」
「いえっ……そんな……」
「ありがと。さするね」
留持さんの手が僕の背中に触れる。手の平は小さく、指はすらりと長い。すごく綺麗な手だ。僕は知っている。何度となく励まされて、憧れてきたから。
「僕以外にも、君達に対して違和感を感じていた人はいたと思う。それでも指摘せずにおいたのは、たぶん……違和感=未練、現チームメイトへの否定と捉えたから」
早撃ちをする僕を見て、走 は「尚人」と言い当てた。でも、直ぐに否定した。あれはきっと留持さんが今口にしたような葛藤を経てのことだったんだろう。
両手を握り締める――と、ハンカチを持っていない方の手に留持さんの手が重なった。そっと手の平に回り込んで拳を解く。既視感があった。ぐっとお腹に力を込める。
「あくまで仮説だけど、そういった可能性も考慮して道を選択してほしい」
「……はい」
「焦っても何もいいことはないよ」
留持さんの手が首に触れる。
「っ!」
いつもは静かでゆったりとした眼差しが、今は凛としている。あの日もそうだった。
あの日――留持さんがあの子に殴られて、気付いたらあの子や、走達が地面に倒れていた。手に痛みを感じて見てみたら、真っ赤に染まっていて――。
『うっ、……うわぁああぁああぁあああああ!!!!!!』
受け止めきれず、パニックになった。そんな僕の拳を留持さんが解いてくれた。綺麗なその手が血に染まることも厭 わずに。
そして、この目で僕を叱ってくれたんだ。
『君は間違ってる』
――と。
「ゆっくり議論して、折り合いをつけていけばいい」
「……………」
伝えるべきは、感謝と決意の言葉。他の言葉は不要。言っちゃダメだ。
「ありがとうございます。僕なりに励んでみようと思います」
頭の先から指の先、言葉尻に至るまで神経を張り巡らせた。
留持さんはそんな僕を見てそっと目を伏せる。口元には微笑みを湛 えていた。けど、その笑みにやわらかさはなく、どこか硬いような……そんな気がした――。
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