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25.隷属(☆)

「いやぁ~、自衛官も陸将ともなると……。実にいい暮らしをしていらっしゃる」  谷原(たにはら)さんが室内を見回していく。無遠慮に。それこそ嘗め回すように。  嫌悪感を抱く余裕はない。ひたすらに恐ろしかった。まざまざと痛感させられたから。父さんもまた射程内にいるのだと。 「そう警戒しないで。から」 「えっ……?」  即席で用意した台本がゴミと化した。頭がむやみやたらと回転して眩暈(めまい)がする。 「まぁ、それもですがね」  谷原さんが近付いてくる。距離が縮まる度に萎縮していく。あの目のせいだ。暗くて底の見えないあの目の。 「……お金、ですか?」 「」 「っ! んぅ……!」  不意に腕を取られた。自覚して間もなく、口を塞がれる。かさついた生温かな感触。灰とコーヒーの香りがする。 「んっ? ……んぅ!? んん゛っ!!??」  キスだ。キスされてる。理解した瞬間吐き気がした。ダメだ。嫌だ。ダメだ。谷原さんの胸を押すけど、抱き込まれて意味をなさない。 「やっ……!」  顔を逸らして辛々逃れる。漏れ出た自分の吐息から灰とコーヒーの香りがした。 「あっ……」  手が伸びていく。触れたのは自分の唇。しっとりと濡れていた。  破滅の足音が聞こえる。不気味なほど静かで、冷たい足音が。 「奏人(かなと)君は諦めます」 「へっ……?」 「アナタが相手してくれるのなら、ね」  不協和音が鳴り響く。裏を返せばそれは、僕が応じなければ奏人に危害が及ぶということで。 「それと……アナタと私のは記事同様、秘匿とします。誰にも言いません。無論、奏人君にも」 「えっ……? っ!」  谷原さんの血色の悪い手が僕の頬に触れる。後退しかけた。寸でのところで堪える。 「ご理解いただけましたか? そう。すべてはアナタ次第。のですよ」  ()呑みにするならそうなる。でもきっと、だろうから。 「アナタはフェンサーとして、果たすべき責務を全うでき、お兄さん、滋田(しげた)さん、留持(るもち)さんは栄誉を失わずに済みます。そして――」  谷原さんの指が首筋に触れる。鈍い音を立てて絆創膏(ばんそうこう)が剥がされた。 「奏人君は変わらずアナタを愛することができる」  首にある所有の証に、谷原さんの指が――触れた。 「かっ!? はっ……!」  首を絞められる。両手を使って。視界が明滅する。押されて、壁に背中を打ち付けた。 「ね」 「あ゛っ! が……っ、ハァ……っ!!!」  苦しい。口が勝手に開く。酸素を求めているんだ。(よだれ)が溢れ落ちて谷原さんの手を汚していく。それでも谷原さんは手を離さない。 「どうです? 素晴らしいでしょう?」  粘っこい笑顔。不気味だ。僕には到底理解できない。 「かはっ! ゲホッ……ゲホッ……!!」  不意に首の拘束が解かれた。むせ返る。息を整えようにも思い通りにならない。 「さて……では、お返事を聞きましょうか?」  選択肢なんてあってないようなものだ。唇についた唾液を手の甲で拭う。  応えたところで変わらない。谷原さんは十中八九事実を公表するだろう。遅いか早いか。それだけの違いだ。  でも、遅らせることによるメリットは大きい。多少なりとも対策を。被害縮小に向けて動くことが出来るのだから。 「……分かりました」 「賢明ですね。さすがです」  身体のことは伝えずにおくことにした。興ざめされても困る。それに、この調子ならきっと自分本位なセックスを。陵辱目的ならむしろ都合がいいんじゃないかと、そう思ったからだ。 「……っふ」  谷原さんが嗤った。ご満悦なんだろう。 「っふ、ははははははははっ!!!」  気を強く持つ。この程度で揺れてるようじゃ話しにならない。 「……結局来ちまうんだな、アンタも」  聞き流しかけて、慌てて掴み取る。 「どこに……ですか?」  谷原さんは何も言わない。ただ苦笑するばかりだ。 「っ!」  谷原さんの指が僕の唇に触れる。口紅を塗るようにラインをなぞった後で、ふにふにと感触を愉しみ出した。 「……夜の8時までには」 「ええ。それまでには、ね。退散致しますよ」  僕は頷き返すと、谷原さんの首に両腕を回した。谷原さんの方が背が高い。今更ながらに知った。とはいえ取るに足らないことだ。腕力で後れを取ることはたぶん、ないだろうから。 「……っ」  重たくなった唾を呑み下して、(あご)を上向かせた。顔を寄せる。触れる直前に目を閉じた。 「ん……っ、……」  緩く食んで吸い付く。甘ったるい音がした。谷原さんは無反応だ。薄っすらと目を開ける。 「っ!!!!!」 「ふふふっ」  カメラのレンズみたいな大きくて黒い瞳がこっちを見ていた。漏れかけた声をぐっと呑み込む。 「いいですね。すごくいい……」  谷原さんが大口を開ける。目を閉じると、口に何かが引っかかった。勢いよく下げられて口が勝手に開く。 「んうッ……!!」  口の中に舌が入ってきた。鳥肌が立つ。苦い。いや、辛い? 舌がピリピリする。喉奥が震えた。拒んでいるんだ。谷原さんとの交わりを。身体と心が対立する。 「甘い……ハァ……癖になりそうですよ……」  谷原さんは吐息交じりに囁きながら文字通り貪っていく。僕の頭の後ろに大きな手が乗り、混ざり合った唾液が口端から零れて落ちていく。 「尚人(なおと)……なおと……はぁ……ハァ……」 『……っ、……なお……ハァ……』 「~~っ」  塗り替えられていく。奏人の体温も、味も、香りも。  ごめん。ごめんね……。 「~~っ、ゲホゲホ!! ごっ……、……ゲホ! ゴホッ!!!」 「おやおや」  息が整わない。口を押えてるけど至近距離だ。せめてもと首を横に傾けて咳をする。 「ハァ……ハァ……」 「落ち着きました?」 「はっ、はい……」 「では……アナタの部屋はどちらですか?」  緊張が走る。いよいよだ。僕はこれからこの人に抱かれる。 「……そこです」  右斜め前にある扉を指さす。みっともなく指が震えた。畳んで拳の中に隠す。 「……っ!? ちょっと!」  谷原さんは僕が指さした扉とは別の扉――斜め向かいにある奏人の部屋に向かって歩き出した。 「なんでっ……?」 「愉しいからですよ。こっちの方がずっと、ね」  瞬時に谷原さんの企みを理解する。 「おっ、お願いです! 僕の部屋にしてください」  言いながら後ろ脚に力を入れて谷原さんの腕を引っ張った。 「……はっ」  空気が凍てつく。これはたぶん苛立ちと怒りだ。 「と、そうお伝えをしたはずですよ?」  息を呑む。悪手だ。抗えば破滅。その事実を今更ながらに痛感する。 「……すみません」  力を抜く。今度は膝が震えた。 「結構です」  谷原さんは打って変わって笑顔を浮かべると、そのまま奏人の部屋のドアノブに手をかけた。  終わったら掃除をしよう。寝具も一式交換して。  扉が開く。ベッドも、クローゼットも、棚も、ほぼほぼすべてが真っ黒な奏人の部屋。見慣れたその部屋が谷原さんの眼前に広がっていく――。

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