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31.形は変わっても
同日夜――シャワーを浴びた僕は、タオルドライもそこそこに1着の部屋着を手に取った。上はよれた緑色のTシャツ。下は黒いシャカパンだ。
「……奏人 ?」
台所にもリビングにも奏人の姿はなかった。部屋にいるのかな。訪ねることも考えたけど、悩んだ末に控えることにした。状況が状況だ。軽はずみなことはしない方がいい。
「えっと……」
部屋に戻って早々、ハンガーに服をかけ始めた。明日の準備だ。灰色のセーターに、黒いズボン。この上に深緑色のポロコートを羽織ることにした。
「さてと」
クローゼットの扉を閉めて鏡の前に立つ。
「うわっ……」
首には赤い痣 のようなものが付いていた。谷原 さんに付けられた『首絞め痕』だ。首の中央から側面にかけて断片的に付いていて、所有の証もこの痣の一部みたいになっていた。
「包帯あったかな?」
事情はどうあれ見ていて気分のいいものじゃない。隠そう。考えを纏めた僕は、扉に足先を向けた。
「痛っ。……ん?」
肩甲骨の辺りに鋭い痛みが走った。自力では見えない位置だ。
「何だろう?」
Tシャツを脱いで鏡を見る。
「あ……っ」
背中には赤い線が刻まれていた。2本。いや、3本か。短いけど深く刻まれている。これはたぶん『爪痕』だ。
「……っ」
苦痛に悶える奏人の声。肌で、目で感じた奏人の涙。
――守れなかった。
その事実を改めて痛感する。
「……………」
肩を強く握り締める。深く息をつくと扉がノックされた。
「えっ……?」
初めてのことだった。奏人がノックを? 何で? 困惑している間に声が飛んでくる。
「ちょっといいか?」
「あっ! ああ! うん! ちょっと待って」
歩きながらTシャツを着て扉を開けた。
「お待たせ」
奏人はゆったりとしたパーカー、ストレートジーンズに着替えていた。言わずもがな上下共に黒。相変わらずの黒ずくめだ。手にはビニール袋を持っている。
「買い物行ってくれたの? ごめんね。奏人もしんどいのに――っ!」
胸に何かが当たる。見ればそれは奏人が手にしていたビニール袋だった。
「やる」
中には包帯が6つ。ホワイトテープが2つ入っていた。
「っ! ごめん! ありがとう」
「巻くのは自分でやれよ」
「……うん」
超えてはならない一線。それを明確に定めているんだろう。偏 に兄と弟になるために。奏人の意思は固い。けど僕は、未だ踏み切れずにいる。
「それともう1つ」
「……何?」
「お前さ、谷原にテル番教えた?」
「へっ……?」
素っ頓狂 な声が出る。奏人の方を見ると険しい顔をしていた。
「……教えるわけない」
「だよな。じゃあ、やっぱりお前以外の誰かが漏らしたんだな」
過ったのは橋屋 君、そして橋屋君を慕う中田 君と田中 君の姿だ。甲府FSの1軍、2軍には電話番号を共有している。謂わば連絡網。写し取るのは容易だ。
先日の一件に限らず、僕は奏人のコネで何かとお目こぼしや優遇措置を受けてきた。その関係で3人からは特に妬 まれ、嫌われている。動機としては十分だ。けど、もし仮にそうであったとしても恨むのはお門違いだ。全部、自分で蒔 いた種。自業自得なんだから。
「電話来たの?」
「いや、ショートメールだ」
「そっか。それであんなに早く」
「……まあな」
僕は無言のまま勉強机に向かった。そこには僕のスマホがある。
「無駄だ。とうに消したよ」
「何で?」
「……あんなもん、見せられるわけねえだろ」
奏人の表情が歪む。ありがたい反面、返すべき感情が、言葉が思い浮かばない。呆れるほどに宙ぶらりんな自分が心底嫌になった。
「安心しろ。データは俺の方で控えてあるから」
「……うん」
「それと、弁当買ってきたから。テキトーなタイミングで食えよ」
「ありがとう」
「………………」
奏人は目を伏せると、そのまま扉を閉めにかかった。
「おやすみ」
「………………」
返事は返ってこなかった。静かな音を立てて扉が閉まる。
「……ごめんね」
身勝手な謝罪を口にして、スマホを手に取った。
「……あった」
着信拒否リスト。そこに格納されている真新しい番号をタップして、ショートメールを起動させた――。
翌朝早朝。僕と奏人は見知らぬ土地に――調布 駅のエントランスに立っていた。
「やっとか」
「何だかほっとするね」
ホームは地下にあった。3本ものエスカレーターを乗り継いで今に至る。頬を照らす太陽の光に、救いと安らぎを感じる。
調布駅は、京帝 線という路線の主要駅だった。都市部に出るのに20分もかからないらしい。
甲府に比べると全体的に手狭だけど、飲食店からアパレルまで名の知れたチェーン店が軒を連ねている。日中~夜にかけての賑わいは想像に難くない。
「行くぞ」
「あっ、うん」
奏人の後に続いて歩いていく。僕は予定通りの服装に馴染みの眼鏡、首に包帯を巻いて紺色のマフラーで隠している。奏人は昨日の晩と同じ、上下黒、ゆったりとしたパーカー、ストレートジーンズ姿だ。
これは何も相手を選んでのことじゃない。奏人はいつもこんな感じだ。単純にオシャレに興味がなく、着飾るのに時間とお金をかけるぐらいなら他のことに回したい。そんな考えを根強く持っている。
周囲からは『シンプルに見せかけた手抜き』なんてお節介な落胆を向けられているけど、完全まる無視。改める気はさらさらないのだろうと思う。
「あ! ネコ……」
赤い前掛けをしたお稲荷さんの下にいる。ハチワレでちょっぴり強面 だ。
「かわいい……っ!」
パシャっと軽快な音がした。出元は奏人のスマホ。カメラはネコの方を向いていた。
「これ、やるから」
言いながら顎 で前を指した。奏人はネコ好きでも何でもない。僕に先を急がせる、その意図で撮ってくれたんだろう。途端に恥ずかしいやら、情けない気持ちになった。
「ごめん……」
「…………………ふっ」
「っ!」
奏人が――笑った。騒動後、初めてのことだった。顎に力が籠る。それと同時にフラッシュバックした。
『やるよ』
そう言って、例の馬のストラップをプレゼントしてくれた幼い日の奏人の姿が。
「……っ」
潤みかけた視界をきゅっと閉じる。
「バーカ」
「ごめん」
「……謝んな、バカ」
「……ありがとう」
「おう」
奏人は小さく零すと足早に歩き出した。慌てて後を追う。
「ここだな」
5分ほど歩いたところで奏人の足が止まった。目の前にはマンションがそびえ立っている。10階建てみたいだ。1階には不動産屋さん、2~3階には塾が入っている。たぶん、そこから上が住居スペースなんだろう。
「あれか」
奏人は不動産屋さんの左隣にあるガラス戸を開けた。エレベーターは住居スペースとテナントスペースとで分かれているらしい。谷原さんがくれたメモに、※付きで書かれていた。
「余計な真似すんなよ」
神経がピンと張り詰める。
「黙って守られてろ。いいな?」
高圧的なようでいて、願い乞うような物言いだった。頷くと鼻で嗤われる。見抜かれているんだろう。居心地悪く目を逸らす――と、1つのポストに目が留まった。
郵便物が溢れ出ている。ポスト自体が小さいわけじゃない。一般的な国語辞典なら、横にも縦にも2冊程度は並べられる、そんなポストだ。最低でも1~2か月は置かないとあの状態にはならないような気がする。
「谷原の家のだな」
奏人が呟く。確かに表札には801 谷原と書かれていた。貰った住所情報とも一致する。間違いないだろう。
『ようこそ』
コール音が鳴り響いた直後、谷原さんが応えた。奏人は心底面倒臭そうな態度を取る。
「約束通り、兄ちゃんも連れてきたぞ」
『結構です。ご一緒にお上がりください』
扉の先に進んでエレベーターに乗る。籠は小さめだった。乗れて5人程度だろう。
「っ!」
扉が開くと強い風が吹いた。8階は伊達じゃない。正面には調布市の街並みが広がっている。いくつか高い建物は見えるけど、全体的に平たい印象だ。壁を感じていた街に、ほんの少しだけ親しみを感じた。
「誰もいねえな」
「うん。良かった……」
幸い廊下にも人の姿はなかった。奏人もほっとしたのか深く息をつく。
「801号室……ここだね」
谷原さんの家は左奥にあった。飛び降り防止のためか、半透明なスクリーンが設置されている。
「っ!? ~~っ、痛……っ」
不意に突き飛ばされた。背中を廊下の手すりに、頭をスクリーンにぶつける。
「お前はそこにいろ」
「っ! 何言って――」
反論しかけたところで扉が開いた。言わずもがな現れたのは谷原さんだ。
「お待ちしておりました」
言葉とは裏腹に酷くだらしのない恰好だった。上下黒のスウェット姿。使い古しているのか、白い毛玉がたくさん付いていた。髪は相も変わらずボサボサで、鼻下と顎の無精ひげは一層濃くなっている。
「御託はいい。さっさと――っ!?」
「えっ……」
奏人の身体が扉の向こうに消える。
「っ!? 奏人!!!」
閉じゆく扉。僕は無我夢中で腕を伸ばして、扉を掴んだ――。
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