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第1話

みおまお 冷凍庫の中に余ったご飯があることも、そろそろ消費しないといけない葉物野菜が残ってることも覚えていたけど、なんだか料理をするのも片づけをするのも気が乗らなくて、外食してしまった、なんてことが出来るのも、自分が独り身だからなんだよなぁ、とお冷を飲みながら考えた。 19時過ぎのファミレスは程々に混み合っていて、家族連れやカップル、高校生で埋め尽くされている。若干軋むソファに腰掛け、可愛い文字で「スイーツフェア」と書かれているメニューをパラパラめくってみる。 こういうものが美味しいものではなく、胃に負担が来るものになってきたと感じた瞬間、なんだか凄く悲しような虚しいような気持ちになったのを、よく覚えている。 「お待たせしましたー」という明るい声とともに、ハンバーグ定食が運ばれてきた。ありがとうございます、と頭を下げると、店員さんは綺麗なお辞儀とともに去っていく。 外食って楽だよな、としみじみ思う。作るのも生ごみの処理も、何にもしなくていい。ただ美味しいものを食べてお金を払うだけでいい。 一人もくもくと食べていると、向かいの席の子供が俺の方を見ているのに気が付いた。小さく手を振ると、子供も振り返す。乳歯が抜けたばかりなのか、下の歯がなかったけれど子供らしい可愛い笑顔を浮かべていた。 「コラッ、椅子の上に足乗せないの」母親だろうか、子供は叱られながら自分の席に戻されていく。うえーん、という泣き声があたりに響きだし、店内の何人かが視線を向けるが、またすぐ何もなかったかのように自分たちの世界に戻っていく。 「うちの旦那さー、本当になんにもしないの。休みの日なんか一日中寝てるし家事も何にもしないんだよ」「うちだってそうよ、黙ってればご飯出てくると思ってんの、本当にムカつくもん」「あーあ、なんで結婚しちゃったんだろ」どこからかそんな会話が聞こえてくる。 「結婚」という言葉を聞くと、胸の内がざわざわと波を立てる。 俺には無縁なのだ、関係ないんだと言い聞かせ、聞こえないふりをして、もう少し味わいたかった定職を若干急ぎ気味に食べてファミレスを出た。 「えー、今週の売り上げはどのフロアも達成しています」朝礼で店長が眠そうな声で言う目の下のクマが今日は一段と濃い。「昨日、すっごいクレーマーのお客さんの電話対応して、大変だったみたいですよ」隣でパートさんが教えてくれた。「そうなんすか…」 都内の大きな画材屋で社員として働く俺は、今年から副フロア長になった。異例の昇進とか言われたけど、単純に人がいないからだろうなと思っている。 新卒で卒業してからここで働いてるから、大体7年くらいだろうか。なんだかんだ人にも恵まれ、楽しくやっている。俺は今年で30になる。今29歳。正直、年をとるのがものすごく怖い。もう若くない、という事実が音を立て目前まで迫っているのを、ひしひしと感じるのだ。寝ても取れない疲れ、肩こり、慢性頭痛。十の位が変わってしまうのだ。その事実に心と覚悟が追い付いていない。人間不安を感じるときは大体暇だからだ、と誰かが言っていた気がする。だから、不安を忘れるために働いている。レジ打ちを無心でしていれば、客からのお問い合わせに答えていれば、理不尽な注文にイライラしていれば、クレームに謝っていれば、不安はどこかに消えている。でも、家に帰って一人考えていると、消えたはずの不安はどこからともなく現れ、鉛のように体にまとわりつく。 今日も俺は、不安を頭から消すために、一生懸命働く。 「長澄(ながすみ)さん、昨日の客注なんですけど、やっぱりキャンセルでいいそうです」「あれ、そうなんだ」「なんかよくよく考えたらそんなにいらないとか言われちゃって…とにかく急げっていうからメーカーに無理言って特急で用意してもらったのに、アクリル絵の具の白50本も用意したのに、どうしましょう」 「じゃあ、カート作って特売で出しちゃえばいいんじゃないかな。新学期だし、美大生とか新学期の用意する人が喜ぶんじゃないのかな」 他の店では売ってない画材が欲しい、という人は大体うちの店に来る。アクリル、水彩、顔彩、油絵具、ガッシュ、ここに来れば大体何でもそろってしまう。 規模が大きいから、色んな人が来る。初めて絵を描く人も来るし、有名な画家も来るし、自分の知識をひけらかしたいだけの迷惑な人も来る。 俺がいるのは紙をメインに扱っているところ。まず入社した時に全部のフロアを経験するが、なにしろ覚えるものがあまりにも多い。ある日突然上司にランプブラックとジェットブラックの違いを説明しろだのアクリル絵の具とアクリルガッシュの違いを言ってみろだの問題を出され、ひいひい言いながら頭に知識を叩き込んでいく。 レジ打ち自体も初めてだったから、苦労した。今は最新のレジが導入されたため、前みたいに釣銭の打ち間違いがなくなったのが本当にありがたい。 「最近どこのメーカーも廃盤続いてますね。特殊な加工してある奴なんか特にそう」「まあねー。ずっと長く使ってる人には申し訳ないけど…こればっかりは俺たちにもどうしようもできないから」紙といってもピンキリで、絵を描く紙なのかペーパークラフトをしたいのかで案内するものが変わってくる。昨今のデジタルの波に押され、アナログな画材なんかは軒並み値上げや廃盤に追い込まれている。長年愛用していたメーカーが倒産してしまった、とレジでぼやくおじいさんや、好きな色に限って廃盤になると嘆いていた若手の画家。 皆、自分が思うような作品を作りたいのに、メーカーのやむを得ない事情で消えていく画材の多さに嘆き困惑しているのだ。 こういうところにまた、時間の流れというものの速さを感じて不安になる。忙しい状態になりたい、と心の内で思いながら俺は段ボールの山を見つめていた。 「新しいバイト?」「そう、ここのフロアに入ってくる予定なんだけど、長澄君指導係になってくれない?」お昼休みがかぶった時、上長にそういわれた。 「いいですけど、俺あんま指導するの得意じゃないんですけど」「何言ってんの、長澄君が教えた人たち皆、立派に働いてるのに」相変わらずお世辞がうまいなと思いつつも、このまま会話するのも時間の無駄なので快諾してしまった。 「どんなひとなんですか?」「確か元々デザイン会社で働いてたみたいだよ。25か26くらいだったかな?」俺よりずっと若いなぁ、と思った。たった4つ3つでも今の俺にはとても大きい。「結構いい大学出ててさ、なんでアルバイトとして志望してきたんだろう」「社員としてじゃないんですか?」「そうなんだよ、俺も聞いたんだよアルバイトで間違いないかって。そしたら、はいって言うからさ。なんか訳ありなのかな」 訳あり、という言葉に昔ここで働いていたやんちゃな子の事を思い出した。家庭環境が複雑で親とも仲が悪く、お客さん相手にケンカしたりなんてしょっちゅうだった。 そんな子だったけど、ラッピングをするのがとても上手だった。レジ打ちが苦手ならしばらくラッピング専門になってみようか、というと、嫌そうな顔をしながらも頷いた。 結果は大活躍で、特にクリスマスシーズンにはその手先の器用さを生かして膨大な量のラッピングを素早く、それは見事に仕上げてくれた。百貨店の包装にも引けを取らない出来栄えで、かわいい、とお客さんからも評判がよく、その子も働くことがちょっと楽しくなってきたようだった。結婚を機に退職した時、お世話になりましたと渡されたちぐはぐな敬語でつづられた手紙を今も持っている。 訳ありって、何がどう訳ありなんだろう、と思いながら自販機でコーヒーを買う。 コーヒーのカフェインさえ俺の胃は受け付けなくなってきたようで、きりきりと痛み出す。 もっと忙しくならないかなと考えながらうっすらと流れる雲を見た。 新人さんは、背の高い、スポーツ経験者のようないで立ちの男性だった。 「岩間澪利(いわまみおり)です。よろしくお願いします。」低い声で淡々と言う。声に抑揚がないけど、不機嫌そうというわけではない。 黒いフレームの眼鏡に、黒髪で、前髪がちょっとだけ長い。精悍な顔立ち、という感じがする。 「長澄です、これからよろしくね。綺麗な名前だね」若くていいなぁ、という気持ちを心の奥に閉じ込め、笑顔を作った。岩間君は表情一つ変えずお辞儀をする。どこかロボットのような、感情のない動きだった。「じゃあまずは、フロアの説明からしようかな」「はい」岩間君は俺の後を2,3歩開けてついてくる。雰囲気から真面目な感じが伝わってくる。上長が言っていたような訳ありの雰囲気は今のところ感じない。 でも俺は、後に彼が、「長澄さんと付き合いたいです」と言ってくることを、まだ知らない。

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