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第2話

退職願 このあとの事とか、貯金とか家賃とか、不安は山ほどあるけれど、それよりも何よりも、もうあの連中と顔を合わせなくていいんだと思うと、それだけで心が軽くなる。 ネットで拾った退職届の例文をそのまま張り付けて作った紙っぺらを印刷して、百均で買った封筒に入れて差し出した。もともと私物が少なかった机の上は適当に拭き掃除をし、特に誰からも感謝とかねぎらいとか、そういう言葉も投げかけられなかった。 そもそも望んでいない。 最後の出勤日は、何もしなかった。ただ窓の外を眺めたり、メールを適当にみたりして過ごした。体中が筋肉痛になったような、痛くて軋んでて、何もしたくなかった。 昼休み、自販機でコーヒーを買って、誰も来ない倉庫に入ろうとすると、「岩間君」と声をかけられる。掃除のおばさんだ。社内で唯一、味方と呼べる人だった。 「やっぱり辞めんの」「はい」「そうなの。でも、私はよかったと思うよ。あんな子供みたいないじめする馬鹿どもから離れられるんだから」「俺も、そう思ってます」 「私がこの会社の社員だったらな…所詮私は仲介業者だから、なんもできなくて申し訳なかったね。自分の息子と年の近い人がひどい目にあってるとこ、見てられなくて思わず声かけちゃったけど」ある事件が起きた次の日から、俺の周りには誰も近づかなくなった。 そこにいるのにそこにいない存在として扱われる俺を、人として最後まで扱ってくれたのはこの人だけだった。 「俺は話聞いてくれる人がいただけで救いでしたよ」「そう言ってもらえてうれしいよ。ちゃんとご飯食べなね、お腹すいたままでいるんじゃないよ」掃除のおばさんはポケットからお饅頭を出して俺の手にのせる。頭を下げると、おばさんは目元をぬぐいながら手を振っていた。 貰った饅頭は、薄皮の中にぎっしり粒あんが入っていておいしかった。 就業を告げるチャイムとともに立ち上がり、俺は最後の出社を終えた。デザイナーとしての人生を終えたのだ。あまりにも呆気ない終わり。涙も何も出ない。かといって解放感に包まれるわけでもない。もしかしたら、精神的な何かが壊れてしまったんだろうか、と一瞬焦った。 電車の窓にうつる自分の顔は、感情というものが全くない。怒ってもないし、笑ってもいない。ただよどんだ瞳が二つ付いただけの顔。この顔が人並みに笑う日は来るんだろうか。 自分の事なのに、分からなかった。 翌朝、時計を見ると9時だった。寝すぎたからか頭が重い。こんな時間に起きたら間違いなく遅刻だ。でも俺はもう社員じゃないから出社しなくていい。 本当だったら、この際、無職を楽しんでやろうくらいの気持ちでいた方がいいのかもしれない。でも、全然そんな気持ちにはならなかった。 自分で自分の精神状況がどうなっているのか分からなかった。元気なのか、そうじゃないのか、次に働くところを見つける気力もなかなかでなくて、いくら貯金が少しはあるとはいえいつか必ず底をつく。そうなったら引っ越しや実家に帰ることも検討しなきゃいけない。 実家だけは帰れない。あんな理由で退職して無職になったなんて言えない。今すぐに解決することができない不安ばかりが脳みそを支配し、吐き気がしてくる。 このまま家にいると気が変になりそうだったから、俺は外に出た。  有給でもない平日のこんな時間に出歩くなんて、何年ぶりだろうか。ふと目をやると、「短時間で30万!」と書かれた頭の悪そうなチラシが見える。怪しい仕事のバイトだろう。自分の中にそういうものの善悪を判断する能力が残っていたことに安心する。でも、一歩間違えたらこういう世界に飛び込んでいたかもしれない。世の中は意外と、薄氷一枚で区切られた凄く脆いものなのかも、とぼんやり思った。 適当に入ったカフェでバイト情報誌をパラパラめくる。正直もう、正社員として働くことに疲れてしまった。寝る間も惜しんで校正の連絡を待ち、訂正し、送付し、またケチを出され、時間だけが流れ、というサイクルに、耐えられなかった。 家から近くて、給料が最低賃金より高くて、休みがほどほどあるところ。 それならば、どこでも良かった。 例えほとんど知識がない画材の世界でも。 面接の日があれよあれよと決まり、本社に赴く。そしてあれよあれよと出勤日が決まる。 人手が足りない中に入ってきたからか、面接担当をした社員からはとてもありがたいと言われた。 それがお世辞だとしても本音だとしても、どうでもいい。 こんなにも簡単に決まるということは、簡単に切られてしまうという事でもあるんだろうな、と冷静な自分がいることに驚く。 東京以外にも支店があるが、ここが一番大きい、いわゆる本店というやつだ。 デザインの仕事をしていた頃、何度か備品を買いに来たことがある。かといって画材の知識があるわけではないのでほぼ素人同然だった。 俺は紙専門のフロアに入ることになった。初出勤日、ほんの少しだけ緊張しながら電車に乗る。前の会社とは反対方向だから、車窓から見る景色もだいぶ違う。たったそれだけの事が凄く新鮮に感じる。 「初めまして、長澄です。よろしくね」俺よりも背が低いその人は、にへらと笑ってそう言った。 坊主頭で、顔立ちが幼い。俺よりは年上らしいけど、年齢不詳という感じがしてなんだか不思議な人だった。 制服を着て促されるままに長澄さんの後をついていく。 「レジの仕事ってしたことある?」「学生の頃ちょっとだけあります、スーパーのバイトで」「そっか、初めてではないんだ。ここのレジ、何年か前に全部自動釣銭機に変わったんだ。だから初めての人でもたぶん使いやすいと思うんだけど、それでもわかんないもんはわかんないだろうから、何でも聞いてね」 客でごった返す棚の隙間をするすると通り抜けながら話す長澄さんに付いていきながら、大体の流れを説明される。 他の職員の前で簡単に挨拶をし、今日は一日職場の見学をすることになった。 正直、周りの人から根掘り葉掘り聞かれると思っていた。なんで前の会社辞めたのとか、なんでバイトなのとか。 でも誰も聞いてこなかった。もしかしたら、他の人たちも俺と同じように訳があるのかもしれない。 都内にあるからか、開店直後から店の中は混み合っていた。 美大生らしいグループが課題の材料を買いに来ていたり、子供が親に高い色鉛筆を催促していたり、今まで使っていた和紙が廃盤になっていて困ると嘆くじいさん。客層は幅広く、いろんな年代の人が来る。 「今日ちょっと人が足りないから、一緒にレジに入ってみようか。俺がレジ打つから、簡単な包装だけやってもらおうかな」「はい」 最初は忙しさに追われ付いていくのに精いっぱいだったけど、慣れてくると周りを見る余裕が出てくる。 長澄さんは客が持ってきた白い紙の束を分け、枚数を数える。 「アラベールとヴァンヌーボが10枚ずつ、タントが15枚、バロンケントが20枚でいいですか?」「はい」俺には全部同じにしか見えないけど、全部種類が違うらしい。見ただけで分かるものなのか、と感心しながら見ていた。 その他にも色々な知識が頭の中に入っているようで、レジに来た客からの疑問や質問や文句をすらすらと消化し、混んでいた列も長澄さんが入ってからどんどん消化されていく。 この人は「仕事が出来る人」であるのと同時に、「まともな人」なんだなと感じた。 というのも、若い学生のバイトも年配のパートさんも、気軽に彼に話しかける。「長澄さん聞いて下さいよー、こないだ他のバイト先でもっと出勤しろって言われたんですよー」「あー、あの暴言がひどいって人?」「そうなんですよ、あそこ給料はいいけどその人が嫌すぎて正直辞めたいんですよー」 「そしたら、こっちでの勤務時間増やせないか相談してみようか?」「そうしようかなーと思ってたんですよ、精神的にもしんどくて。なんだかんだ長い間世話になってたから辞めづらいなーとか思ってたんですけど…精神削ってまでする仕事でもないかなー…」 「勤務先ほかにもあると年末調整大変だもんね。来週中に調整の相談しておくよ」「わーい、ありがたい」 そんなやり取りを、一日の間に何度も見た。休みの相談や勤務時間に関する相談をしやすい人が職場にいるかいないかで、居心地がだいぶ変わると思っている。 あと一番印象に残ったのは、分からないところを聞いた時の受け答えだった。 例えば俺がシャーペンを紙袋に入れるとき、芯が出る方を下に向けて入れていると、「特に製図用のシャーペンとかは普通のよりも先が細くてとがってるから、折れやすいんだ。だから芯が出る方を上を向けて入れてあげてね。それ以外にも筆とかも穂先がぼさぼさにならないように上向きにしてあげてね」と教えてくれた。 自分がやった事がどんなふうに間違っていて、どんなふうに改善するといいかを伝えてくれる。これって凄く大きいことだと個人的に思っている。 前の職場では「感覚で覚えろ」とかざっくりしたいいかたでしか仕事を襲われなかったので、慣れるまで非常に困っていた。 「わかんないことは何回でも聞いてね。前にも聞いたよなってことでもどんどん聞いてね。それって俺の教え方が悪いせいだから、遠慮しないでね」と一言添えて、長澄さんは客に向き直る。 こんな上司がいてくれたらな、という想像を形にしたような人だった。 もし前の職場に長澄さんがいたら、俺はまだデザイナーをしていたんだろうか。そもそも、俺はデザインの仕事自体嫌になってしまったんだろうか。 俺が本当に嫌だったのはどれだったんだろう。思わずそんなことを考えてしまう。 「疲れた?」「ちょっとだけ」「だよね」 昼時、同じタイミングで休憩をとる。休憩室では皆思い思いに過ごしていて、昼寝をしている人もいるし談笑している人もいる。 「立ちっぱなし辛くない?」「そうですね、前デスクワークだったんで」「あ、そうなんだ」「デザイナーだったんですけど」と言ったところでハッとする。 前の職場の事は離さないつもりでいたのに、この人にだったらいいかなと自然と心が傾いていた。むしろ、聞いてほしいと思ったのかもしれない。 黙り込む俺に対して、 「そっかー、俺転職したことないんだよな」と長澄さんは自分から話を切り出す。「ずっとここで?」「そうだよ。他の仕事もしてみたいっていえばしてみたいけど、長い事働いてるからほかの所に行く勇気が出ないんだよなー」 もしかして、さりげなく話題をかえてくれたんだろうか、とふと思った。 初対面の人に、ここまで自分の心が開くことがあるんだな、とどこか他人事のような気持ちになる。 そしてこの気持ちが、恋だと気づくのはもう少し後になる。

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