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第2話 ……うそだろ?

 久しぶりのゲイバーに足を踏み入れた。いつもこの瞬間に、完全に“京”から離れたと感じる。 「お、ノブ。久しぶりだな。お疲れさん」  マスターが男前の笑顔で俺を迎え入れた。  俺はここでは“ノブ”になる。  初めてここに来たときに名前を聞かれ、とっさに偽名を考え浮かんだのが織田信長だった。そこから取って“ノブ”と名乗った。だからここでは俺はずっと“ノブ”だ。  ここに来れば自分を偽らなくていい。人の目を意識して気を張らなくていい。肩の力を抜いて素でいられる。  ゲイを隠さず本当の自分でいられる“ノブ”になる。  どこで気づかれるかわからないから、“京”のテンション高めおもしろキャラはここでは封印だ。  カウンターの一番奥に腰をかけ、飲み物を注文したところで顔なじみが来店した。 「あっ。ノブだぁ。久しぶりぃ!」  俺は片手を上げるだけの挨拶をした。苦手なヤツが来た。ツイてないな。  座っていいかの確認もせず隣に腰をかける、いかにもネコな(とも)。  友人としては別にいいが、そういう相手として智は無理だった。可愛すぎる。華奢すぎる。好みじゃない。  それでも智はいつも誘ってくるから疲れるんだ。 「ねぇ、今日こそ相手してよぉ。ね?」 「智なら相手に困らないだろ。なんでいつも俺を誘うんだよ」 「それはぁ。もちろんイケメンだからに決まってるじゃん?」 「こんな疲れ果てたサラリーマンが?」 「ノブはもっとピシッとしたスーツ着なよー。絶対原石なんだから! 絶対もっとカッコイイのにぃ!」  必死でダサくしてるからな。だから智のその発言も結構困ってるよ、と言ってしまいたい。 「でもさ。ノブはちょっと慎重すぎるよね。どんな人でも簡単には相手にしないもんね」 「普通だろ?」  するとマスターが口を挟む。   「ま、こういうとこではありえないくらい慎重だな」 「ほらっ」 「……別に、そこまでがっついてないし。気が合っていいなぁと思ったらじゃない? 普通はさ」  これは本音だ。でも若干ウソだ。“京”バレするのは困るから慎重になるのと、俺の好みは大抵見た目がタチなんだ。あまりにもごっつくていかにもなタチは論外だけど。  まあ要はネコらしくないネコが好きなんだ。    俺は……そう。榊さんみたいな人が理想なんだ。  見た目も中身もすべて……。    でも理想を追うとタチばかりだから、少し理想を下げてタチかネコか微妙なところを狙うが、それでもなかなかネコに出会えない。  もし出会えても気が許せるようになるまではホテルには行かない。身バレの危険を考えると慎重にならざるをえないんだ。 「ノブの好みは凛としたしっかりしてる人だよな。媚びるのはまず無い。智、お前みたいに」  マスターの言葉に「ひっどぉい!」と憤慨する智を横目に、カランと音を立てて開いたドアに視線を向ける。  一瞬、自分の目を疑った。時が止まったように感じた。どこか現実じゃない感じがした。  開いたドアから顔を出したのは、さっき別れたばかりの榊さんだったからだ。  うそだろ……どういうこと……? ここがどういう店か知らずに入ってきたんじゃ……。 「いらっしゃいませ。お客さまはこちらは初めてのようにお見受けしますが……」 「ええ、まぁ」 「どなたかのご紹介でこちらに?」 「いえ。ネットで調べて来ましたが……こちらは紹介制でしたか?」  「ああ、いいえいいえ。調べて来られたのでしたら大丈夫です」  ゲイバーだとわかって来たなら大丈夫、そう濁して告げたマスターは笑顔で榊さんをカウンターに案内した。  榊さんはゲイバーだと知っててここに来た。  なら……そういうこと……?  榊さんが……うそだろ……?  でもそうだとわかると、いろいろなことが腑に落ちた。  七年も一緒にいるのに、その間彼女の一人もいなかったこと。  秋人がBLドラマの相手役と恋仲になっても、なにも言わず協力したこと。男同士は入籍できないからと、二人は極秘で結婚式まで挙げた。それを許した榊さんに、実は俺は少し驚いていた。  だからだったんだ。榊さんも……俺と同じだったんだ……。  俺は秋人が男と恋仲になっても、自分と同じだとは思えなかった。  俺はあんなに綺麗じゃない。ノンケ同士で想い合って結婚式まで挙げるような、そんな綺麗で純粋な恋をしたことがない。  こんな変装でゲイバーに出入りして、爆発しそうになったら相手を探して性欲を満たす。そんなことしてる俺が秋人みたいな綺麗なヤツに、恥ずかしくて情けなくて惨めで、自分も同じだとは口が裂けても言えなかった。  だから嬉しかった。いまここに榊さんがいることが、俺と同じだということが、心が震えるくらい嬉しかった。  近づけばバレるかもしれない。そんな危機感を覚えるよりも先に身体が動いていた。 「どうも。隣、いいかな」  あえて敬語にしなかった。榊さんは見た目が若いから、いまの俺なら同世代に見えるはず。  こちらを振り向いた榊さんが、驚いた顔で俺の顔をじっと見る。  あ、やべ。まさか速攻でバレた?  「別にいいが……なんで俺?」  よかったバレてない、と胸を撫で下ろす。   「ちょっと話がしたくて」 「俺と?」 「そう、あなたと」  頭の上に疑問符が見えるようだった。  榊さんはどう見てもタチだ。だからタチ同士でなんの話が? と思っているんだろう。  メニューを眺める榊さんの前にマスターが立ち、俺を見てかすかに首を横に振った。いつも俺がタチかネコか微妙な線を狙うから、さすがに今回は違うだろとでも言いたいんだろう。  そういうのじゃないからほっとけ、と手で払う仕草をしてみせた。  

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