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uno.サブマリン・カクテル

「あー…、えーっと…レネ…?」  チャイムが鳴りドアを開けたジーノは、くわえ煙草を落としそうになった。ダークブラウンの短髪をかきむしり、不規則な生活でぼんやりした頭を働かせながら、言葉を探す。少し見上げた琥珀色の目が、何度もまばたきをする。 「嘘…だろ」  ドアの向こうの青年――レネは、肩まで伸びたクセのある金髪をかき上げ、アイリッシュ系の母親譲りの青い目を丸くして、ジーノを見下ろしている。  休暇で、シチリア島に一人で来たジーノは昨夜、ゲイが集まるというバーに出かけた。そこで、パナマ帽に麻のスーツを着こなした男に、“いい子を紹介するよ”と口髭を持ち上げてニヤリと言われ、この貸しコテージの場所を教え、午後三時に寄越してくれと頼んだ。  パナマ帽の男は、旅行者に売り専ボーイを紹介する、公にはできない業者だった。  まさか、顔も体もよく知った元恋人がボーイとは。“ロッシなんて偽名使うなよ”とため息をつく金髪青年に、ジーノは煙草をくわえなおし、“火遊びのときの習慣だ”と肩をすくめる。 レネも肩をすくめた。 「どうする? 嫌ならチェンジしてもいいけど」  パレルモの太陽の下、薄く微笑む表情が意図的でなくてもコケティッシュだ。素肌にぴったりとしたTシャツは、多すぎない筋肉の隆起を目立たせる。下着をはかずに股間を強調させたジーンズ。別れた恋人とはいえ、ジーノの火遊びしたい欲望に、オイルを注ぐのに充分だった。 「いや、いい。そこのトラットリアで出前を頼んだんだ。チェンジすると、せっかくのカクテルとフルーツがぬるくなってしまう」  ジーノは親指を立てて、部屋の奥を指差す。テラスの向こうに海が見える。シチリア島最大の都市パレルモの人気スポットだけあって海水浴客も多く、高級レストランから大衆レストランまで点在している。多彩なカクテルとつまみで、シチリアのバカンスを楽しめるのだ。    貸しコテージには冷蔵庫もある。フルーツやカクテルがぬるくなることはない。元恋人とはいえ、返してしまうのは気の毒に思った。 「レネも楽しんでいけ。今日は客とボーイだ。それにチェンジすれば、お前の株が下がるだろう?」 「元彼だった、って話せば“災難だったな”って笑い話になるだけだよ」  ほどなくプエルトリコ系の親父が、カクテルのグラス二つとフルーツを盛り合わせた皿を届けに来た。ジーノは多めのチップを加算した代金を払い、カクテルとフルーツをテラスのテーブルに置いた。 「何これ? 真ん中に青いのが入ってる。きれいだね」  レネは海の色そっくりな青いショットグラスが沈む、透明な炭酸のカクテルに釘づけになった。 「『サブマリン』だ。普通はビールに、テキーラを入れたショットグラスを沈めるんだがな。傾けるたびにアルコール度が増していく」  ホワイトキュラソーとトニックウォーターの泡の中に沈むのは、テキーラが混じったブルーキュラソーの小さなショットグラス。はじける透明の泡に包まれた、青い潜水艦。見た目が涼しげだ。  テラスのデッキチェアーに、テーブルを挟んでジーノとレネが座り、グラスを持ち上げる。 「ジーノ、何に乾杯? まさか、“再会に”って言うんじゃないだろうな」 「ありえない偶然に、だ」  グラス同士が小さな音を鳴らす。静かに合わせたグラスはさざ波しか立てず、泡の中の潜水艦は沈んだまま。  テラスの向こうに自生している大きなヤシの木が、ビーチパラソル代わりに強い日差しを遮ってくれる。その緑色の陰からは、右手に岩山を臨む、大きく湾曲した砂浜に囲まれた青い海が見える。テラスの柵を飛び越え、石段を降りて道路を渡ると、パラソルの花が満開のビーチだ。  ヤシが木陰を作ってくれるが、午後の日差しは眩しく照りつける。    パレルモ市内はビザンチン風やアラブ風などの建築物が混在し、独特の趣がある。だが、この別荘地はシンプルな造りが多く、おまけに静かで、一人やカップルで穏やかに過ごすのにもってこいだ。    ジーノはグラスを傾けた。青い“サブマリン”が、透明な海にほんの少し混じる。 「レネ、いったい何だってまた、売り専なんてやってるんだ。ミラノでモデルをしてただろう」  ミラノ・コレクションに出るほどではないが、小さなショーにも出ていた。ファッション雑誌や、大勢でだがテレビCMに出演の経験もある。 「バイクの事故で後遺症が残ってさ、普通に歩くのはいいけど、ウォーキングに差し支えるんだよ。手術跡もすねに残って」  右のすねを手のひらで叩くレネを横目に、ジーノはサボテンの実を口に運ぶ。 「なら、整形手術で傷跡を消して、雑誌のモデル専属でやるっていう選択肢もあっただろう」 「どっちにしたって、トップモデルでもない限り収入は限られてるし。こうやって、観光客の相手してる方が金になるからさ」  みずみずしいメロンにかぶりつくレネに、ジーノは苦笑する。別れずにいれば、こんな警察に怯えるような仕事をさせずにすんだだろうか。まだ二十四歳というレネは、夢を諦めるには若すぎる。 「ジーノは何でイタリアにいるんだよ。スペインに行ったって、あんたのダチのアントニオって人に聞いたぜ」  ショットグラスのブルーキュラソーは、炭酸の海を徐々に青く染めていく。 「休暇だ。今住んでるのはスペインだ」 「へーえ。新聞記者様というのは、儲かるもんだね」 「フリー記者風情なんざ、別に儲からないさ。貢ぐ恋人もいないしな」  フリーの新聞記者をしているジーノは金融情報に強く、株価や為替相場の予想に関しての記事が的確だ。各地の新聞社からツテで仕事が舞い込み、食いっぱぐれない。 「よく言うよ。俺は貢がれた記憶はないけど」  とげのある言い方だが、その表情に怒りはない。サブマリンのアルコールが、七歳下の元恋人を陽気にさせるのか。  陽はよりいっそう、強く海を照らす。グラスの潜水艦は、よりアルコール度数を上げる。 「…あのときは悪かったな」  別れた原因は、ジーノの浮気。  レネのグラスも、徐々に青く染まる。 「まあ、俺の態度も端から見れば、誤解を招くよな」  モデル仲間とよくパーティーをしていたレネ。モデルという職業柄、暴飲暴食ができない分、ダーツなどのゲームやダンス、ドラッグなどで盛り上がる。体が密着したり、ふざけてキスをすることもあった。携帯で撮った画像が、ジーノに見つかったのだ。  口論になった。すっかりふてくされたジーノは、腹いせに行きずりの男を抱いた。ただ一夜のつもりが、連絡先を教え合い、何度も肌を重ねた。二年前の出来事だ。 「いい年した大人が、ガキみたいだな」  潜水艦は、浮上する。心の奥に長くとどまり過ぎて、忘れてしまった感情。深海に押しこめられた気持ちは、二度と太陽のもとに出ることはないと思ったのに。トニックウォーターの泡が浮かび上がらせる。  琥珀色の目が、グラスの泡からかつての恋人に移る。 「レネ、ボーイとやらのテクニックはどんなものだ?」  そんな挑戦的な言葉に、もう一隻の潜水艦も浮上する。レネはデッキチェアーを下りると、ジーノの上にまたがった。  テーブルの上のオレンジを一つつまむ。皮をむかれて一口大にカットされたそれを、青いカクテルに漬ける。『サブマリン』を染みこませたオレンジを白い歯で挟むと、ジーノの両肩に手を置き顔を近づけた。  口移しで、アルコールが染みたオレンジを食べさせる。ジーノがそれを噛むと、果汁が一筋、顎を伝う。髭剃り跡がザラつく顎を、レネが舐める。赤い舌は、まるで果実。上目づかいでジーノを誘い、今度はこの赤い果実はいかが、と見せつけながら顎をなぞる。  その誘いにのったジーノが、唇を半開きにして果実が這い上がってくるのを待つ。オレンジの味がほんのり残る赤い果実は、煙草の香りがする口内にすべりこんだ。 「んっ…ふ…」  すぐにレネからせつない吐息が漏れた。ジーノの手がレネのウエストに回る。ピッタリと貼りつくTシャツをたくし上げ、ほどよく筋肉がついた体をまさぐる。  赤い果実は、ただむさぼられるだけではない。ジーノの口内を暴れ回る。レネはジーノの舌に吸いつきながら、テーブルの上のグラスに、カットされたグレープフルーツを漬けた。青い海に沈んだ実はすぐにサルベージされ、レネの歯に挟まれる。グレープフルーツを挟んだまま、ジーノの顔に近づけたが、今度は片手で制された。 「待て、俺はグレープフルーツの実が苦手なんだ」  レネは蠱惑的に細めていた目を見開いた。 「嘘っ、グレープフルーツのドレッシングとかカクテルとか大丈夫だったろ」 「ああ、果汁はいいんだ。だが、実はあんまり好きじゃない」  変なの、とレネは無邪気に笑い、グレープフルーツを噛む。と、すぐにジーノと唇を合わせた。唇の隙間から果汁を流しこむ。少し苦味のある爽やかな果汁が、ジーノの舌に乗った。喉仏を動かせ、果汁を飲み下したジーノは、クセのある金髪に指を梳き入れ、レネを抱き寄せた。

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