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due.火遊びの後で…

 キュラソーのオレンジとグレープフルーツの苦味が混じったキスは、二年前に深海に沈んだ熱を、太陽のもとに誘い出す。角度を変えては吐息が漏れ、小さな喘ぎ声とともに舌の動きは激しくなる。  少し唇を離す。唇同士が触れ合う距離で、ジーノがささやいた。 「キスがうまくなったんじゃないのか?」  自分の欲望より、相手を感じさせるキス。空白の二年間、どうやってそんなキスを覚えたのか、ジーノの"深海"に自分勝手な嫉妬心という難破船が沈んでいる。救いようのない、難破船。 サブマリンを一口飲み、ジーノの首に腕を絡ませて、レネが耳元でささやく。 「お望みならば」  冷たい唇が、ジーノの耳たぶをキュッと冷やす。 「どこにでもキスするよ」  耳たぶから首筋と、唇はすべり落ちる。官能的な唇に合わせて指の動きもエロティックになり、ジーノの開襟シャツの上を優雅に泳ぐ。  次はどこにしてほしい? と襟の間から鎖骨にキスをする。指はジーノのベルトにかかり、外すフリをしながらコットンパンツのジッパーをなぞる。  そのうちジーノのコットンパンツもレネのジーンズも窮屈になり、二人は寝室に移動した。もちろん、グラスとフルーツもいっしょに。  アジア風の織物の大きなタペストリーが枕元に下がるダブルベッド。天井のシーリングファンが、寝室の濃密な空気をかき混ぜる。  日差しは傾きかけている。窓から差しこんだ濃い黄色の日光は、ジーノの上にまたがったレネの裸体をまぶしく照らし、筋肉の隆起をより際立たせる。照明をつけていない部屋は薄暗く、美しいトルソーがジーノの上で浮かび上がっている。  ジーノが少し体を起こす。手にはオレンジの実。荒い息づかいで上下するレネの胸元に、オレンジの実をしぼる。果汁は硬い乳首を垂れ、腹筋の薄い溝をすべり、鼠径部を流れる。 「知らなかった…ジーノがカクテル以外に、オレンジしぼるものがあったなんてさ」  金髪をかき上げて艶めかしく微笑むレネの乳首に、ジーノが吸いついた。汗の塩味とオレンジの味が、舌の上で混じり合う。 「あ…んっ…、もっと…、すごくいいよ…、は…ぁ」    アルコールが入っているからか、売り専ボーイとしての職業柄か、ジーノがあまり聞き覚えのないほどの甘い喘ぎ声が聞こえる。 「おいしいものには、何だって果汁をかけるさ」 「じゃあ、そんなおいしいものを肴に、カクテルでも飲む?」  いたずらっぽく舌なめずりをして、レネはグラスを取る。サブマリンを一口含むと、ジーノと唇を合わせて流しこんだ。  開放的なリゾート地での、いつもと違うプレイ。  これはたった一日だけの火遊びなのか。  もう二度と、肌を重ねることはないのか。夢から覚めれば、せっかく太陽のもとに浮上した潜水艦は、また深い海に潜るのか――  太陽が、海の向こうに沈もうとしている。海水浴客に変わって、砂浜にいるのは散歩をしている人たちだ。  プエルトリコ系の親父が経営するトラットリアからは、日に灼けた海水浴客たちの喧騒が聞こえる。  レネはベッドにうつぶせになり、かつての恋人をじっと見ていた。  ジーノはベッドに腰かけ、煙草を吸っている。  プレイの合間に飲んだカクテルのグラスは二つとも空になり、フルーツの皿もほとんど無くなっている。 「いつまでシチリアにいるんだ?」  煙草を灰皿に押しつけ、ジーノは立ち上がった。 「明日の朝の便で、バルセロナに帰る」  コットンパンツをはき、開襟シャツを羽織る。シチリアでの最後の晩餐に出る準備をする。 「…なんだ、あと何日かいるなら、また呼んでもらえると思ったのにな」  開襟シャツのボタンを留めると、レネに代金の200ユーロを100ユーロ札二枚で渡し、札入れをコットンパンツのポケットにしまう。 「よせよ。金ヅルなら、もっと羽振りのいい観光客がいるだろう」  レネは気だるい体を起こす。オレンジ色の弱い日光が、元モデルの美しいトルソーを照らす。 「…どうだった、俺?」  ジーノが再び、ベッドに腰かける。残ったグレープフルーツの実を、レネの口に放りこんでやった。 「お前の客に嫉妬する」  レネは膝を抱え、グレープフルーツを噛みつぶして飲みこんだ。その実を食べさせてくれた手を、じっと見つめる。煙草の匂いがする、懐かしい手。寂しい気持ちにさせる夕闇と、爽やかに苦味が残るグレープフルーツの味は、浮上した潜水艦を再び底に沈める。 「俺も…、あんたは手放すのが惜しい客だよ」  ジーノの頬骨が張った、柔らかくもない頬にキスをすると、レネは長い脚に細いジーンズを通した。 「あの親父のトラットリアにでも行くかな。皿とグラスを返すついでだ」  部屋の外に置いておけば、翌朝にでも回収に来るだろうが、あの店の料理を食べてみたくなった。  ジーノがそんなふうにつぶやいたのは、レネもその気があればついて来るかと思ったからだ。 「じゃ、俺はもう行くよ。まだ仕事中だし」  美しいトルソーがTシャツで覆われた。少し残念に思い、レネに背中を向けてため息をつく。  キッチンのシンクで皿とグラスを水洗いしていると、背後からレネがジーノのウエストに手を添え、少し背をかがめて耳元に唇を近づける。 「じゃあね、シニョーレ。いい夢見ろよ」 “シニョーレ”という、名前も知らない相手に対する呼び方は、レネが仮初めの恋を売る者だという事実を突きつけられる。  小さなささやきに、ジーノは振り返りもせず答えた。 「いい夢なら、さっき見たさ」  振り返れば、キスができる距離なのに。ジーノはあえて振り向かなかった。情事は終わったのに唇を重ねれば、明日の便をキャンセルしてしまいそうだった。  背後から手を伸ばし、レネはジーノの胸ポケットに畳んだ紙幣を入れる。 「これ、カクテルとフルーツ代。それに、俺も同じ夢を見せてくれたお礼」  ポケットを覗いたジーノは驚いた。100ユーロだった。レネの手元に残るのは100ユーロ。店に落とす分を差し引くと、レネの取り分はわずかしかない。  くるりと背を向けたレネの腕をつかむ。 「待て、それじゃお前が困るだろう」 「いいよ、別に。じゃ、代わりにタクシー呼んでくれる?」  言い出したら聞かないレネと口論するわけにいかず、ジーノは携帯電話でタクシーを呼んだ。   荷物はないかなどと運転手がやけに親切なのは、貸しコテージの客はよほど金払いがいいのだろう。  タクシーに乗りこむレネに、ジーノは無理やり、真新しい100ユーロ紙幣を握らせる。 「タクシー代だ。持っとけ」  ジーノも言い出せば聞かないところがある。レネはにっこり笑って紙幣を受け取った。  ポケットの100ユーロをそのまま返せば、レネの気持ちを突き返すような気がして、ジーノは札入れの新札を渡した。  タクシー代にしては多すぎる紙幣を握り、レネは“チャオ”と一言告げてドアを閉めた。  そうさ、一日だけの火遊び。それでいい。…のはずなのに、最後に一縷の望みをかける。  部屋に入り、ジーノは胸ポケットから、レネがくれた100ユーロ紙幣を取り出した。札入れにしまうために広げ、一瞬驚いた表情になった。が、口元に笑みを浮かべると、それを大事そうに札入れにしまった。  九月半ば。朝晩は冷えるが、昼間はビーチで泳げる気温だ。ミラノ・マルペンサ空港のロビーで、ジーノはジャケットを脱ぎ、携帯電話を操作した。 「レネか、もう飛行機は着いただろう? 今どこだ?」  聞くまでもなかった。元モデルで長身の金髪男は、嫌でも目立つ。  携帯電話を切り、ボストンバッグにスーツケース、それにリュックを背負ったレネのそばに駆け寄った。 「…まったく…。札に携帯番号なんて書かなくても。あいにく、レネの番号は消し忘れてたんだぞ」  ジャケットを肩に引っかけ、ジーノはレネを見上げて苦笑した。  レネも汗だくで苦笑する。 「ジーノこそ、俺の真似すんなよ。あんたの番号なんて、運悪く残ってたさ」  あの日、二人は偶然にも同じことをした。押しつけた紙幣には、携帯番号が書かれてあった。別れてから二年しかたっておらず、どちらも番号は変わっていない。だが、“連絡をしてほしい”という言葉を、数字のメッセージに変えて渡した。  もう一つのこめられた意味、“やり直さないか”もいっしょに――  ジーノがスーツケースを持つ。 「外に車を止めている」 「そっか、車買ったんだよな」 「ああ、中古だがな。今まではあちこちに住んでたから、車は借りた方が楽だったが」  スペインでの契約が切れた後、ジーノはミラノに戻った。しばらくはミラノに腰を落ち着ける。  駐車場で、ジーノは緑色の車のトランクを開け、レネの荷物を積む。 「アルファ・ロメオとか期待したんだけどな。貸しコテージでバカンスするぐらいだから」 「言ったろ。フリーの新聞記者の稼ぎなんざ、そんなもんさ」  それぞれ、運転席と助手席に座り、ドアを閉める。車は北に向かった。これから二人で住むアパートに―― ――――

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