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第1話 森

 愛劇草の花は、赤が強いほど価値が高い。朝露に濡れ、日を浴びてきらめくさまは慎ましやかな宝石のようだ。ここらの植物は魔素を多量に含んでいるため、直接口にすると毒になるが、適切な処理を施せば魔法薬や医療に用いることもできる。だが男の目的は花本体ではない。試験管を近づけ指先で花を軽くたたくと、雨とともに垂れる蜜が採取できた。これ以上水で薄まらぬよう手早くコルクで蓋をし、リュックに仕舞った。一連の流れを素早くこなす手つきは無駄のない卓越したもので、男が永くこうして暮らしていることの証明であった。愛劇草の蜜は乾燥させると錬金術の貴重な素材となる。そういった点から言えば、賢者の森は宝庫だ。だが、多くの人間には必要のない素材であるため、立ち入るものは限られる。道の整備もされない雑多な森だが、男には好都合だった。  人の立ち入らぬ森は魔物の領分。だからこそ、不意の物音にも敏感だった。腰のナイフを抜き放ち構えるが、相手はそれより速かった。敵の輪郭が掴めず振り遅れ、どぼんっと腰のあたりまで飲み込まれて初めて、男は魔物の正体を理解した。 「(スライムだと!?)」  粘性のあるボディは確かにスライム特有のものだ。しかし、池と見まごうばかりの巨大なこれが下級モンスターとは到底思えなかった。  魔物の中で最弱と言われるスライムだが、さまざまな種類が存在するため、一様に雑魚モンスターとは呼べない。たしかに大半は自我を持たないアメーバと同等の存在だが、他のモンスターや人間を捕食することで体積を拡大し、長い年月を生きた個体は知恵を持つ。男もここまで大型のものは見たことがない。さらに厄介なことに、溶解捕食型だ。この手のスライムは獲物を見つけると覆いかぶさり、体から溶解液を染み出させて肉を溶かしゆっくりと捕食する。この食事方法は被食者に著しい苦痛を与える。人間を寄せ付けぬ賢者の森。予測を誤ったと歯噛みしつつ、自決用の毒薬を口に運びかけたが触手に阻まれる。 「怯えずとも良い、話がしたいだけだ」  濁った湖面に泡がはじけるような声とともに、スライムは人の形をとった。色はそのままだが、男性の上半身がボディの上に現れる。男が言葉を失うのも無理はなかった。人型のスライムは、現在に至るまで確認されていない。男は史上例のないものを目の当たりにしているのだ。硬直する男を前に、スライムが口に当たる部位を開いた。 「私の名はパルケラィア=イシゥナ=マォトラ。|不定形の君主《スライムロード》……だったものだ。たしか……十数年前に代替わりした」  君主《ロード》とは、種別の等級を指す。魔物は下級から進化し、その都度名前も変わる。ゴブリンでいうなら中級からホブゴブリン、最上がゴブリンロードとなる。目の前のスライムは最上位種というわけだ。しかし、 「スライムロードだと? スライムには変異種しかいないはずじゃ……」  男の反応は一般的なものだった。現在までに確認されているスライムに等級はなく、炎や水などの属性を備えた多様な種類があるのみだ。それを聞いたスライムロード──パルケラィアは静かに首を振った。 「人間は偶然目にしたものしか信じないのだな。錬金術を学ぶ身であればまだ賢しいかと思ったのだが」  素材を集めているところから見られていたらしい。術師だと言い当てられるとは思っていなかった男は言葉に詰まる。 「……ここはお前の領地か? 許可なく立ち入ったことは謝罪する。採取した素材も置いて行けと言うならそうするから、命は助けてほしい」  家族もない独り身ではあるが、男にはやらなければならないことがあった。努めて平静を装って嘆願すると、パルケラィアはまばたきの必要がない瞳で男をじっと見据えた。 「我々の間には、どうやら大きな隔たりがあるようだな、錬金術師」  潮が引くようにスライムが身体から離れ、男は自由の身となった。パルケラィアは困惑している男の前に身をかがめて微笑む。 「引き止め方が乱暴だったのは許せ、話し相手を逃がしたくなかっただけなのだ。知恵を持った生き物とまみえるのは久しい」  男自身も、誰かと長く言葉を交わすのは数年ぶりだ。男が承諾すると、パルケラィアは心なしか満足したように見えた。 「ヒトを見るのは久しぶりだ。名前を尋ねたい、緋色の髪の」  スライムにとっては何の気のない質問だったが、男は言い淀んだ。しばし視線を彷徨わせたのち、苦々しく吐き捨てる。 「……サラマンダーだ」  本名でないことは明白だった。だがパルケラィアにとっては些細な問題らしく、「サラマンダー、私を見て怯えないのは良い」と鷹揚に頷いた。 「火は四元素のひとつ、サラマンダーは司る精霊。錬金術を学ぶものが名乗るにはうってつけの名だな。遠くから観察していた。錬金術師は珍しい。長い年月見ていない」 「……時代遅れの技術だからな」  ぶっきらぼうに答えたサラマンダーに対し、パルケラィアは首を傾けるような仕草をした。人間を真似てのことだろうが、ヒトでないものには完全に不要の動きだからか、ぎこちなく不格好だ。 「時代遅れ? 私がまだ君主であったころは最盛の学問だったはずだが」 「なら、お前は随分と長生きなんだな  いまの時代、錬金術は莫大なコストがかかる一方で大した成果は得られない、魔術の完全劣化だ」 「でも、それを研究している?」 「事情があってな」  男との会話は気遣いもなく隠し事も多いが、スライムはそれすら楽しんでいるようだった。人生の後半に差し掛かろうかという歳の男──サラマンダーは話してみると錬金術に造詣が深い以外に、薬学にも長けているようだった。もともと近しい関係にある技術だが、それぞれを極めるとなれば膨大な時間がかかる。凡人であれば一つの頂上にたどり着くために、人生すべて投げうっても届かぬことすらざらだ。単に頭がいいというよりは、勘に優れているのだろう。それが会話の端々からうかがい知れる。見た目は肌も髪も手入れされずひどい有様だが、旅をする人間はみなこうなので大して気にならなかった。それに、身ぎれいにすればなかなか見られる顔をしている、と考え、パルケラィアはひとり首をひねった。人間の容姿に興味を持ったのは初めてだった。 「お前は想像より聡いな。だからこそ不思議だ、なぜ錬金術に固執する? お前の頭脳なら、現在の主流である魔術とて修めるのに遅くはないだろうに……賢者の石か?」  以前はただの旅人にここまで関心を持つことはなかったのだが、パルケラィア自身これには驚いていた。サラマンダーというと、問いに対して嘲るような態度を示す。 「短絡的だな、石になど興味はないわ。俺には為さねばならないことがある。答えを見つけねば死に切れん、それだけにしがみついている」  言いながら手持ち無沙汰に荷物を漁り、取り出した本の背表紙を指の腹でなぞる。皮がくたびれて、ところどころ折り目のついた本だ。表面に文字はなく、幾何学的な模様が刻まれている。 「教本か?」 「そんなところだな。歴史的価値もなく、道に落とせば古本屋で二束三文で売られる。しかも読めすらしな……おい」  サラマンダーが押しとどめるが、パルケラィアはスライムの中でも知的好奇心が旺盛な個体だった。自在に動く触手で本をからめとると、傷んだ紙面に目を滑らせる。 「月夜草の根を乾かし、エタノールに溶いたものを熱して鉄鉱石に噴きつけ……貴金属の錬成に関する実験記録のようだが、この方法では何も生まれん」 「読めるのか!」  サラマンダーが身を乗り出す。初めて感情をあらわにした彼は興奮冷めやらぬ様子で、はばかりもなくパルケラィアの手元を覗き込んでいる。 「古代文字の一種だ。ヒトの言語ならば読めぬことはないだろうに」  パルケラィアは簡単に言ってのけるが、考古学の権威を訪ねても一向に解析の進まなかった古文書だ。目的のため国立の書庫をひっくり返して探し出したはいいものの、文法の規則性すら読めず持て余していた。これは転機だ。 「パル……」 「パルケラィアだ」  人には複雑な響きだったか、と独り言ちるパルケラィアにしがみつこうとして、腕がゲル状の身体に肘まで埋まる。そもそも流体に近い体構造であるため掴む場所が無いのだ。 「この本の内容を俺に教えてくれ。頼む、何でもする」  真剣な顔で詰め寄る。パルケラィアも、サラマンダーの人が変わったような熱意には驚きを隠せなかった。  森の賢者としては、教えを説くことはやぶさかではない。今まで森へ立ち入った人間にも、数多の知識を見返りも求めず分け与えた。だが何故だかこの時は違った。対価が欲しいと考えたのだ。飢えた犬のようにギラギラした目を向けてくるサラマンダーから、欲しいものがある。 「教えてもいいが……条件がある。私と取引をしよう」 「取引?」  サラマンダーが面食らうのも無理はない。人間と魔物では、モノの価値が異なる。先ほどサラマンダーが蜜を摂取した愛劇草にしても、薬や錬金術の素材として尊ばれる一方、パルケラィアにとってはそこに生えているだけの雑草に過ぎない。対価に何を差し出せと言うのか。サラマンダーは訝しげに次の言葉を待っている。パルケラィアが口を開いた。 「捕食に協力してほしい……なぜ身構える」  身構えるどころか、距離を取り武器を向けようとしている。魔術の行使に用いられるワンドを手に、サラマンダーは警戒した口調で答えた。 「知識を得たところで、死ねば意味がない。食い物になれと言うならこの話は無しだ」 「……私たちの間には、何か誤解があるようだな」  言いつつも、誤解の原因は自分にあると思っていた。パルケラィアはサラマンダーの疑うような視線を真っ向から受ける。 「それ以外に何がある、溶解捕食型だろう?」 「間違っていない。だが、それだけが捕食方法ではない」  つくづく人間は魔物への理解に乏しい。パルケラィアは襲いかかる意志はないことを示し、丁寧に説明し直した。 「糧となるのは、ヒトの体液全般だ。汗、涙、血液──何でも構わないが、たとえば精液であれば死ぬこともあるまい?」  パルケラィアが口にする条件は、スライムにとってはなんら邪な考えを含まないものだった。人間が蛇の交尾に欲情しないのと同じだ。捕食の方法を具体的な手順とともに示し、心配があるのならワンドを持ったままでも良いことを伝えると、サラマンダーは「……考えさせろ」と口元に手を当てている。  考える、と言いつつも、気持ちは傾きかけていた。しかし対峙するスライムはあまりにヒトに似ていて、即答するのははしたないようで気が引けたのだ。実のところ、サラマンダーにはおいそれと性処理をできない理由があった。これから人の多い町で健全な宿屋に泊まることを考えると、ここで発散しておくのも手かもしれない。 「……わかった、それでいい」  たっぷりと悩んだふりをして答えると、気のせいかもしれないが、パルケラィアの瞳の奥で何か燃えたような気配がした。 「決まりだ」  日の暮れるころ、サラマンダーはこの返答が軽率な判断だったと悟ることになる。

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