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動揺と葛藤 3

でも、役を降りるとは言えなかった。 いや、出来れば言いたくない。 午前中に手合わせした東海との殺陣は本当に楽しかった。久しぶりに身体を動かしたが、あの時感じた高揚感や充足感を思い出すだけで自然と頬が緩んでしまうほどに楽しいと感じられた。 だが、これは仕事だ。けして遊びではない。マージンが発生する以上中途半端なものを見せるわけにはいかない。 「……別に今すぐ結論を急ぐ必要はないだろう。もう少し段階を経て挑むべきだったな」 すまない。と運転席から凛の声が聞こえてきて、蓮は小さく息を吐いた。 「兄さんが謝ることじゃないよ。……遅かれ早かれわかる事だっただろうし、寧ろみっともない姿をみんなに見られなかった事、感謝してる」 「……」 再び車内には沈黙が訪れ、スタジオに戻るまでの間、誰も口を開こうとはしなかった。 スタジオが近付くにつれ、約束を反故にしてしまったナギの事が気になった。 流石にもう待ってはいないだろうが、彼には悪い事をしたと思っている。 せめて一言詫びの言葉だけでも伝えられたらよかったのに……。 そんな事を考えながら窓の外を眺めていると、目の前の横断歩道に彼らしきが立っている事に気が付いた。 一瞬、幻覚でも見たかと目を瞬かせるが、確かにそこに居るのは彼のように見える。 よく似たそっくりさんだろうか? もしかしたら別人かもしれない。 でも、もし本人だとしたら? 「――蓮君? どうか、した?」 雪之丞の声にハッとして我に返る。いつの間にか信号は青に変わっており、車はゆっくりと進み始めていた。 「あ、いや……」 慌てて視線を窓の外へと向けるが、迷っているうちに彼は雑踏の中へと消えてしまていた。 「……なんでもない」 蓮は再び窓の外をじっと見つめる。 さっきのアレは見間違いだったのだろうか? 彼が来るかもわからない自分を何時間も待ち続けていたとは考えにくい。 でも、でももし……彼だったら? 蓮は無意識のうちに拳を強く握りしめていた――。

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