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第1話 いきなり捕まりました

平凡、とは諦めの事だと思う。 自分に何も期待しない。期待しないから他人と比べもしない。 僕、小比類巻彗(こひるいまきすい)は、そんな平凡な人生を生きている平凡な人間だ。 ……その、はずなんだけど。 「キサマ英語は喋れるんだろうな?」 どぅーゆーすぴーくいんぐりっしゅ? 基本中の基本の英単語。だけどすごい剣幕で睨みつけられて、僕の脳内では脅しに近い言葉に変換された。 ここでノーなんて答えた日には、たぶん僕の二十七年の人生はその瞬間終わってしまう。それくらい有無を言わせぬ圧があった。 あまりの恐怖に一歩後ずされば、僕の背中はスタジオの壁にぶつかり、衝撃でかけていた黒縁の眼鏡が鼻からずり落ちる。 「え、え、あの……い、YES、」 太陽よりも明るいプラチナブロンドに、ガラス玉のように澄んだオーシャンブルーの瞳。180センチはゆうに超えているであろう長身が、スタジオの隅っこで控えていた僕に詰め寄り、切れ長の瞳を釣り上げて見下ろしてくる。 眼鏡が半分ずり落ちて焦点の合わない視界でもビリビリと感じる。圧が、圧が凄い。 両の手と首をブンブン振ってこれ以上は来ないでくださいと拒絶してはみたものの、目の前のその人はお構い無しにさらに一歩踏み込んできて、僕の手首をガッチリと掴んだ。 「おい、siki!通訳にこいつを借りてくぞ!」 「あ、ちょ、(すい)さんは俺のマネージャーだぞ!」 「うるっさい!キサマは早く編曲とやらを終わらせろ!二時間だ!それ以上は待てんからな!!」 「え、え、あの、」 誰の言葉もお構い無し。スタジオ中にアメリカンイングリッシュで怒声を響かせたかと思えば、掴んだ僕の手を力いっぱい引き、そのままスタジオから引きずり出されてしまった。 「彗さーん、ごめん、適当に観光でもさせといてやってくれ。」 離れゆくスタジオの奥から僕が本来傍についていなければならないはずの人からの諦めと謝罪の声が聞こえてきて、いよいよ味方のいなくなった僕は強引な手に引きずられるまま連れ去られる事となってしまった。 「で、お前誰だ?」 ふーあーゆぅ、なんて基本的な言葉もドスの効いた声で言われれば、やっぱり僕の脳内では圧の強い言葉に変換される。 オリヴァー・グリーンフィールド。 イギリスからの移民でジャズトランペッター奏者である祖父とジャズ作曲家の父を持ち、本人も幼少期にはジャズ音楽にのめり込みピアノ奏者として注目を浴びていた。けれど何故か突如としてイギリスの音楽大学に飛び級で入学しクラシックを学び始め、一昨年の卒業と同時に本格的にヴァイオリニストとして活動している異色の経歴の持ち主だ。 けれどその腕は確かで、在学中にいくつものコンクールで優勝。実力を認められ、卒業した音楽大学の保管するヴァイオリンの名器、グァルネリ・デル・ジェスを永久貸与されているという世界でも希少なグァルネリ奏者だ。 「おい、貴様誰だと聞いている。こんな簡単な英単語もわからないのか?」 来日したばかりで右も左もわからない彼を案内して近くのカフェに腰を落ちつければ、終始不機嫌な顔をしていた目の前の人から開口一番失礼極まりない言葉が飛んできた。 これ、僕の方が怒っていいんじゃないだろうか。 とはいえ相手は僕のような一般市民は本来ならお目にかかることすら難しい世界のヴァイオリニスト様。彼に怒り返す勇気なんて当然持ち合わせていない。なにより、彼は今sikiの仕事相手なんだから。 不満は注文していたエスプレッソと共にゴクリと飲み込んだ。 「えっと、sikiのマネージャーをしています、小比類巻彗と申します。」 イライラも恐怖も苦笑で隠して、スーツの内ポケットから名刺入れを取りだし英字で書かれた名刺を一枚差し出す。 sikiのマネージャーになって六年。いつかは世界に名を知られて使う時が来るはずと用意していた英字の名刺。意外と早く使う時がきたなと思うと感慨深い。 ……いや、この名刺を彼にお渡しするの二回目なんだけども。 先日初めてお会いした際に彼のマネージャーと彼自身にも何かありましたらと会社の連絡先が書かれているこの名刺を渡しはした。あの時はすぐに興味無さそうに一瞥してマネージャーに押し付けていたけど、どうやら今度こそちゃんと目を通してくれるらしい。 「……あ?名前、なんだって?」 じ、と名刺を眺め左から右に視線を流したその眉間に、先程よりも深いシワが刻まれる。 見慣れすぎた光景に、この反応は万国共通なんだなと恐怖を感じるどころか逆に妙に関心してしまった。 「えっと、スイ、コヒルイマキ。」 「Kohi…」 「ファミリーネームは日本人でも聞きなれない上に長いので、皆さんにはファーストネームで呼んでいただいてます。遠慮なくスイとお呼びください。」 このやり取りにももう慣れたものだ。 だけど目の前のグリーンフィールドさんは、何度となく繰り返してきたやり取りの中で、今までに見た事のない反応を返してきた。 「……Sea?」 片眉をはね上げ面倒くさそうに顔を顰めたその人の口から出たのは彗ではなく海。 「S、U、Iでスイです。」 「シー?」 あー、向こうの人には名前も発音しづらいのか。 言い慣れない単語に薄い唇からシィと息が漏れる。数度繰り返してついには諦めたのか、その口元はむすっと不機嫌に引き結ばれた。 長く綺麗な指が柔らかなプラチナブロンドをかき乱す。 「くそ、もうなんでもいい。シー、貴様のボスの我儘の責任を取れ。この俺を退屈させるなよ?」 ビシッと突きつけられた指が、僕の黒縁眼鏡のブリッジを押し上げる。 「くだらん事に連れ回すようなら……わかってるだろうなぁ、シー?」 「ひ、」 ギロリと僕を睨みつけてくるオーシャンブルーに、思わず肩がビクリと震えた。 小比類巻彗改め、小比類巻(シー)。平凡に大人しく目立たず生きてきたはずの人生の大ピンチをむかえていた。

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