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第2話

ことの始まりはsiki、もとい(しき)さんの一言だった。 「……やっぱり、加工(エフェクト)かけたいな。」 テーマ曲の録音を終え、レコーディングエンジニアと色さん、それにグリーンフィールドさんで音を確認していたのだけれど、顎に手を当て無言で音を聴いていた色さんの眉間のしわが次第に深くなっていくのを僕は見逃さなかった。 ああ、これは長くなりそうだな。 長年の感がそう告げたため、僕はその時点でそっとスタジオを出てコンサートの打ち合わせのために席を外していたグリーンフィールドさんのマネージャーに電話をかけて予定時間を大幅におしそうだと言うことを伝え、彼のスケジュールを確認した。 そうして再びそっとスタジオに戻った途端にエフェクトの発言が飛び込んできたわけだ。 映画音楽にCM曲、ピアノ曲を中心に数多くの曲を発表しながらも決して表に姿を現すことの無い正体不明の音楽家sikiこと櫻井色(さくらいしき)。僕がマネージャーを務めるうちの看板アーティストの正体は、なんと十七歳の現役高校生だ。そんな若い彼の一言で、スタジオに緊張が走る。 「はぁ!?エフェクトだと!?貴様オレの音にケチをつける気か!」 「ちげぇよ、お前のヴァイオリンじゃなくて俺のピアノの方だ。」 激高して胸ぐらを掴んだグリーンフィールドさんの手を、色さんが冷静に払う。 まさに一触即発の空気に仲裁するべきかと手を伸ばし、いや、下手に触れない方がいいのかと伸ばした手を戻し。 おろおろするばかりの僕を横目にレコーディングエンジニアの黒澤(くろさわ)さんは何食わぬ顔でエフェクトの準備に取り掛かっている。若いなぁとあえて日本語で呟いた言葉はグリーンフィールドさんには届いていないだろう。うう、その豪胆さが僕も欲しいです。 今回の映画音楽の仕事は、病気で入院しているフィギュアスケーターの女性と、事故で肩を負傷したヴァイオリニストの男性との恋物語。 若い女性を中心に大ヒットしている小説の映画化で、鍵となっているヴァイオリンの音と音楽にはとことんこだわりたいと監督がオファーしたのが、音楽家sikiと若干二十歳の天才ヴァイオリニスト、オリヴァー・グリーンフィールドだったわけだ。 色さんにとって他人のために曲を書き、尚且つ重奏するのは初めての事。しかも自身初の全国ツアーの下見と宣伝の合間を縫って参加しているグリーンフィールドさんのわずかな隙間時間で打ち合わせとほぼ一発勝負の録音となれば……まぁ、イレギュラーは出てくるわけで。 「映画館で流すにはヴァイオリン一本だと物足りないかと思ってピアノ付けたけど……これだけの音出されたら、正直ピアノ邪魔だろ、これ。」 基本的に劇中音楽は色さんの作曲、演奏になっている。けれど、ストーリー上で主人公の男性が演奏するヴァイオリン曲と、テーマ曲の二曲だけはグリーンフィールドさんの演奏に色さんのピアノ伴奏が入ると決まっていた。 ヴァイオリンの貴公子とも言われアメリカのみならず日本国内にもファンの多い彼の起用で世間からの注目を集めるために。グリーンフィールドさん側としては、初のワールドツアー、初の日本公演の宣伝のために。利権の絡んだクライアントからの依頼に、けれど色さんは作曲家として手を抜くことはしなかった。 「とにかく、あんたのヴァイオリンには問題ないから後で別録りしてる俺のピアノにエフェクトかけて編曲すればそれでいいけど…」 「ふざっけるな!それでは俺が完成を聴けないだろうが。今すぐやれ!」 「いや、すぐって言っても時間かか…」 「いいからやれ!俺の関わる曲で変なものを作られたら困るからな。曲の出来次第では俺はこの仕事降りるぞ!」 殴り合いでも始まるんじゃないかとい う空気の中、キッパリと言いきったグリーンフィールドさんはそのままくるりと踵を返した。 ぱちりと、スタジオの隅で小さくなっていた僕と目が合う。 あ、まずい。 「おい、そこのお前!」 オーシャンブルーの瞳がまっすぐに僕を見つめたまま詰め寄ってくる。 逃げ場のない狭いスタジオ。色さんは既に黒澤さんとアレンジの準備を始めている。この場でこの不機嫌マックスなヴァイオリンの貴公子様のお相手が出来るのは、どう考えても僕一人。 「あ、あの……」 レコード会社に務める所詮しがないサラリーマンの僕に、拒否権なんてあるはずもなかった。 「ん。これでいいか?」 「はい。絶対、絶対脱がないでくださいね。」 色さんが曲をアレンジして作り上げるまでの時間。グリーンフィールドさんのお相手を仰せつかった僕は、とりあえず絶対ここにいてください。どこにも行かないでくださいと念押して彼がカフェでキャラメルラテを飲んでいる間に、大急ぎで向かいの百貨店でブランド物のサングラスとキャップを購入してきた。 とにかく彼は目立つ。 太陽より明るいプラチナブロンドの髪にオーシャンブルーの瞳。そのうえ彼の傍らにはオリヴァーの名前が彫られたヴァイオリンケース。中身は言わずもがな、家一軒余裕で買えてしまう名器中の名器、グァルネリ・デル・ジェスだ。 最近日本公演が決まったとメディアでとりあげられている有名人なんだから少しは密やかに行動してほしいのだけれど、本人はそんなことお構いなしの尊大な態度。とりあえず目立つ髪と瞳を何とかしなければとキャップを被せ、サングラスをかけてはもらったけれど……うう、やっぱり目立つ。 圧倒的なオーラとでも言うべきだろうか。とにかくこの人はその場にいるだけで人目をひいてしまう。 手鏡で自らの姿を確認する彼にいくつもの視線がチラチラと注がれている事にこの人は気づいているんだろうか。 「おい、シー。……お前、何故このブランドを選んだ?」 「お好きなブランドだと雑誌で拝見しましたので。……あ、もしかして既にお持ちでした?私はセンスがないので、できればアメリカでは取扱のないものでと店員さんにお願いして選んでもらったのですが。」 「……いや、これでいい。」 先程までの剣が少し和らいだところを見ると、どうやら気に入ってもらえたみたいでホッと一安心だ。……どうか経費で落ちますように。 グリーンフィールドさんはキャップのツバを持ち鏡で何度も角度を確認してからパタンと折りたたみ式の手鏡を閉じた。 かけたサングラスを少しだけズラして、オーシャンブルーの瞳が僕を覗き込む。 「で、シーよ。デートプランは決まったのか?」 「あ、え、えーっと…」 じ、と見つめられるとドキリと心臓が跳ねる。やっぱりこの人は圧が強い。 こんな人を接待だなんて、果たしてどこに連れていけばいいのやら。 目立たない場所で、それでも彼を楽しませなければ……多分命が危ない。 なにせこの人は世界のヴァイオリニスト様、オリヴァー・グリーンフィールドなんだから。 「……あ。」 そうか、目の前のこの人はオリヴァー・グリーンフィールド。だとすれば、僕のやるべき事は決まっているじゃないか。 「あの……お連れしたいところがあります。」 ガラス玉みたいに綺麗なオーシャンブルーを見つめながら申し出れば、不機嫌にゆがめられてばかりだった彼の口元は、初めて優しく弧を描いた。

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