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第57話
「…いさん、……おーい、彗 さん。大丈夫?」
信号待ちで、色 さんの声にはっと我に返る。
集中して運転していたつもりだったのに、いつの間にか景色はコンサートホールを離れ、色さんのご自宅近くの見慣れた街並みに変わっていた。
大事なアーティストの命をお預かりしているというのに、失態どころではすまされない。
「す、すみません、」
あわててハンドルを握り直し助手席に座る色さんに頭を下げるが、手で制されてしまった。
「あ、いや、別に責めてるわけじゃなくて。彗さんも今日は大変だったろうし、疲れた?」
「いえ、その……まだ実感がわかないといいますか、現実味がないといいますか。」
色々ありすぎて混乱していますと事実を濁して伝えれば、色さんはふ、と笑う。
「俺も似たようなもんかも。……ホールで弾いたんだよな。しかも三曲も。」
隣から聞こえてきて声はどこか呆然としていて、でもどこか嬉しそうで。
青に変わった信号を確認してゆっくりと車を走らせながら、僕は一瞬だけその横顔を覗き込む。
「楽しかった、ですか?」
視線は直ぐに前に。けれど、色さんの視線がこちらに向けられたのがわかった。その口元が優しく弧を描いたのも。
「ん。……楽しかった、な。」
噛み締めるように呟かれた短い言葉には、色さんの思い全てがこもっていた気がする。
あの状況下で、あれだけの音を響かせて多くの人を感動させた。やっぱりこの人は、ステージに立って多くの人に音を届けるべき人なんだ。この先も、ずっと。
ああ、どんどん遠くなっていくな。
長い時間を共にして、今もこうして隣に座っているのに、色さんの存在が遠い。僕の手の届かない人になってしまうのもきっと時間の問題なんだろう。
sikiはいずれオリヴァー・グリーンフィールドのように世界に名を知られる音楽家になる。いや、色そんはもう既に彼の隣に並び立つ事ができる人だ。
それは僕にとって、嬉しくて、寂しい。
「……また、sikiの音をコンサートホールで聴ける日を楽しみにしていますね。」
努めて明るくそうお伝えすれば、色さんはありがとうと言いかけた口をなぜか噤み、車内に沈黙が訪れる。
「……あのさ、俺、ちゃんと考えてるから。」
ややあってぽっりと落とされた言葉は、しんとした車内にはっきりと響いた。
「色……さん?」
思わず隣を振り返れば、色さんは頬杖をつきぼんやりと窓の外を眺めていた。
「来年……高校卒業したら、もっと活動の幅広げたいと思ってる。今日みたいなコンサートも、その、ソロとか、オケととか。観客に直に反応もらえることもやりたいって今日改めて思った。」
「色さん、」
彼の口から具体的な話が出たのは初めてかもしれない。
お父様はご高名な指揮者。お母様はかつて伝説とまで言われたオペラ歌手。そんな事実を伏せて、いかに隠れて自分の音楽を作っていくのか。そんな苦悩を聞くことはごく稀にあってもこんな、こんな言葉は――
「ちゃんと考えてるから。まぁその……レーベルに入るのか、独立するのか、まだ決めてはないんだけど。」
あまりに突然の事に、思考が追いついていかない。
何とか平静を保って車を走らせながらも、色さんに視線を向けずにはいられなかった。
けれど、色さんは僕に背を向け窓の外を眺めたまま。もしかしたら、初めて自分の将来を語ることに照れていらっしゃるのかもしれない。
色さんは今高校三年生。しかもあと三ヶ月後には十八歳になる。
……そうか、色さんは巣立っていかれるつもりなんだ。僕の勤めるレコード会社から、もっと大きな、広い世界へ。
いつか、と思っていた事がもう目の前に迫っているのだと、僕は今ようやく実感した。
色さんは遠くへ行ってしまうんだ。
「……応援、してます。」
喜ばしいことのはずなのに、胸がつまって言葉が上手く出てこない。
結局何も言えないまま、色さんのご自宅前に到着して、僕はハザードランプを点灯させて車を停車させた。色さんがシートに座ったままゆっくりとこちらを振り向く。
「あのさ、彗さん。」
シートベルトは外したけれど、色さんは車から降りることなくなぜだか僕にしっかりと向き直った。
「…………ついてきて、くれないか?」
何を言われたのか、僕はすぐには理解できなかった。
言葉にならない吐息が漏れる。
ついて行く、どこに?
困惑する僕を、真剣な眼差しが射抜く。
「まだ決めきれてない状況でこんな事言うべきじゃないのかもしれないけど、彗さんにも考えておいてほしくて。」
考える、何を?
「彗さんが今の会社好きで、事務の仕事にやりがい感じてるのも知ってる。けど、俺には彗さんが必要なんだ。」
必要って……
居住まいを正す色さんに、僕はわけもわからないまま息を飲んだ。
「俺についてきてほしい。」
力強く落とされた言葉は、波紋のように身体の内に広がってじん、と心臓を震わせた。
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