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第56話

ふわりと香るシトラスの香り。 ぎゅと背中に感じる温もりの相手なんて、振り返って確認せずともわかった。背後から僕の肩口に顔を埋めるプラチナブロンドを僕は手で押して拒絶しようとしたけれど、ビクともしない。 「っ、オリヴァー、離してっ。」 「嫌だ。……シキには自分からハグしたくせに。」 「……へ?」 耳元で聞こえる声は、酷く不機嫌そうだった。 「オレだって演奏したんだからな。」 えっと、つまりこれは……嫉妬、というより拗ねているんだろうか。 肩口に埋められていた顔が上げられ、不機嫌に歪められたオーシャンブルーが僕を見つめる。 「あ、あの……感動、しました。」 子供のように口を尖らせるその頭に思わず手を伸ばしてひと撫ぜ。 駄々っ子をなだめるようなそんな感覚で伸ばした手は、けれど大きな手に捕まれ指に唇を寄せられた。 ちゅ、と立てられたリップ音に心臓が跳ねる。 「ちょ、」 「シキだけじゃなくて、オレの音も伝わったか?」 じ、と背後から真剣な眼差しに射抜かれて、呼吸が止まる。……オーシャンブルーに飲み込まれていく。 思わず僕は逃げるように視線を泳がせた。 「あの、それは……その、」 なんでこの人はこんなにも真っ直ぐ感情をぶつけてくるんだろう。 音も言葉も真っ直ぐすぎて、僕には苦しいだけなのに。 「……伝わりましたよ、痛いくらいに。」 「むぅ。だったら…」 「っ、駄目です。」 握られた手を振り払い、背後から僕を抱きしめる腕に手を重ね、拘束から抜け出す。 床に落ちていた眼鏡を拾い上げてぼやけていた視界を元に戻したけれど、真っ直ぐ前を見ることは出来なかった。 面と向き合っても、気まずさからオーシャンブルーを直視出来なくて。僕はオリヴァーに深々と頭を下げる。 「……今日の音、私は一生忘れません。ありがとうございました。」 そう告げて呼吸を整え、ゆっくりと顔を上げた。 たぶん上手く笑えていなかったと思う。でも、こう言うしかないじゃないか。 だって、思い知らされたんだから。この人がどれだけの想いを一曲に込めてくれたのか、それと同時にこの人の音が僕にとってどれほど遠くにあるのかを。 色さんの音を聴きながら、僕には胸が軋むくらいにこの人の音も届いていた。でも、こみ上げてくるこの思いは告げていいものではないんだから。 だから御礼を、他人行儀に。 再び緩む涙腺を作り笑いで必死に止めれば、オリヴァーの顔はわかりやすく歪んでいった。 むっすりとへの字に曲がった口から、ふん、と息が漏れる。 「どうあってもシーはオレを受け入れないつもりだな?」 「当たり前です。……あなたと私じゃ釣り合わないと、何度も言ってるじゃないで…っ、」 いきなり腕を掴まれて、引き寄せられる。 今度は正面から思いっきり抱きしめられてしまった。 「ちょっ、離して。」 「嫌だ。ありがとうと礼を言うくらいなら褒美にこれくらいさせろ。」 「そ、れは、困ります……」 胸を押して離れようとしてもビクともしない。 「少しだけだ。大人しくしていろ。」 埋めた彼の胸からトクトクと早鐘を打つ心音が聞こえる。じんわりと伝わる温もりに、僕自身の心臓も早鐘を打ち始めた。 駄目、なのに。 「シー、」 オリヴァーの手がのばされ、僕の顔から眼鏡を抜きとる。 トクンっと心臓が一際大きく跳ねた瞬間、唇を重ねられた。 一瞬だけ唇に感じた温もりはすぐに離れたはずなのに、じくじくと痛みをもって全身に広がっていく。 すぐに眼鏡は戻されたのに、僕の視界はじわりと滲んだ。ぽろりと瞳から一筋こぼれた涙の意味は、流した僕自身にさえわからない。 「……もう、やめてください。」 痛みにこらえながら声を絞り出せば、拘束は簡単に解かれた。 逃げるように一歩後ろに距離をとれば、背中が楽屋のドアに触れた。 「もう触れないで。僕にはもう、頂いたあの音だけで十分ですから。」 お願いだからもう触れないでほしい。あとわずかな時間、距離を保たせてほしい。 あんな音を聴かされて、こんなことをされて。これ以上近づけば、別れが辛くなるだけなのに。 「……明後日には日本をたつんでしょう?次は中国公演でしたっけ。その次はシンガポール?……日本の平凡なサラリーマンに構っている暇なんてないでしょ?」 僕の精一杯の拒絶をオリヴァーは鼻で笑い飛ばした。 「なんだ、つまりシーは遠距離になるのが嫌なのか。」 「そうではないんです。……そうじゃなくて、」 「ではなんだと言うんだ。」 理解できないと次第にイライラを募らせるオリヴァー。彼にはきっと、僕の気持ちは一生わからないんだろう。 「これから先も貴方は行く先々でコンサートを成功させ、賞賛され、世界中の人達からその音を求められるんです。……そんな人の隣に、音楽を諦めた何もない僕が立つことは出来ないんです。」 「はぁ?」 「あなたの隣にいても、僕は惨めになるだけなんです!」 ついには声を荒げてしまっていた。 「もう、ほっといてください!」 「っ、シー!」 伸ばされた手を払いのけ、後ろ手にドアノブに手をかけ僕はその場から逃げ出していた。 背後から投げられた声を振り払うように勢いよく楽屋のドアを締め、そのままこの場から駆け出したかったのだけれど、 「うぉっ、と。す、(すい)さん?」 「あ、す、すみません。」 隣の楽屋から出てきた色さんに危うくぶつかりそうになって慌てて足を止めた。どうやらちょうど着替えを終えて出てきたタイミングだったらしい。 カジュアルなジャケット姿に戻った色さんは、僕を見るなり目を丸く見開いた。 「なに、どうした?なんか顔色悪いけど。」 「いえ、大丈夫です。ちょっと、その、ご、ご挨拶をしていただけで。」 「オリヴァー?明日も会うのに?」 色さんは僕の背後を覗き込むけれど、そこにオリヴァーの姿はない。 どうやら追いかけてくるつもりはないようで、僕は色さんに気づかれないようにそっと息を吐いた。 「あの、お世話になったお礼を…」 「ああ。まぁ、今日は世話になったからな。」 マネージャーとして、お礼くらいちゃんと言えればよかったな。そう思ったところでいまさら戻ることもできない。 でもきっと、これでいいんだ。こうしなきゃ、僕はオーシャンブルーに溺れて息もできなくなってしまうから。 「……それでは、私は着ぐるみの返却手続きと、ホールの責任者にご挨拶してからここを出ますので。」 「ああ、また後で。俺もその、飛鳥達と少し話してから行くから、ゆっくりでいいよ。」 「わかりました。」 ぐちゃぐちゃな感情を鎮めるように両手で眼鏡をかけ直す。 先に行くねと背を向けた色さんを見送って、僕はもう一度深く息を吐き、そしてゆっくりと吸い込んだ。 「……よし。」 大丈夫。 わかってる。僕はsikiのマネージャーで、平凡なサラリーマンで。 大丈夫。ちゃんと、僕は……諦められるから。 いまだに心臓の奥で響き続けているヴァイオリンの音。 消したくても消えないその音は、僕にとってはあまりに苦しくて。軋む心臓を、スーツの上からギュッと握りしめた。

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