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第55話

「っうお、っ」 僕が思いっきり駆け寄り抱きついたせいで、着ぐるみの色さんは勢いに押されて数歩後ろによろついた。そのままバランスを崩して倒れそうになったところでオリヴァーの手がささえてくれる。 オリヴァーはしたり顔で口元を歪めた。 「なんだシー、泣くほど良かったのか。」 僕はオリヴァーの言葉に何度も頷きながらも、(しき)さんに抱きついたまま着ぐるみの胸に顔を埋める。 「っ、うぅぁ、」 ステージを終えたオリヴァーを数名のスタッフが拍手で迎える中で、僕は思いっきり邪魔をしている自覚はあった。あったけれど、もうどうにも止められなかった。 「し、じぎさ……、曲、あんこ…っ、ありが、ぅぁ、っ、」 ひくひくと言葉にならない嗚咽に周囲のスタッフさん達からクスリと優しい笑いが漏れる。抱きつく着ぐるみの中から優しい声がした。 「うん。伝わったならよかった。」 黒猫の顔に隠れてその表情はわからなかったけど、たぶんきっと、色さんは照れくさそうに笑ったんだと思う。 ぽん、と肉球のついた大きな手が僕の頭に乗せられる。優しく僕の頭に触れる手に僕の涙は止まるどころか激しくなる一方だ。 オリヴァーにも、お礼を言わなきゃ。そう思うけれどなんと声をかけていいのかわからなくて。顔を見ることすらできずにいれば、ふん、とオリヴァーが不機嫌に鼻を鳴らしたのが聞こえた。 「皆のおかげで最高のステージになった。礼を言う。……ゲストにもな。」 「俺も楽しかったよ。ありがとうな。」 オリヴァーと色さんが互いに感謝を述べ、お疲れ様ですと口々にスタッフさん達が労いの言葉をかける中で、僕は必死に涙を止めようと着ぐるみの色さんに顔を埋めて声を殺す。 ありがとうございましたって、感動しましたって僕も周りの人達のように伝えたいのに、そう思えば思うほど子供みたいにヒクヒクと情けない嗚咽が漏れるだけ。それでも色さんには伝わったみたいで、ありがとうと大きな手がそっと僕の背を撫ぜてくれた。 思っていることの百分の一も伝えられないまま、パンパンッとアマンダさんの手が場の空気を変えるかのように音を立てる。 「さぁ、誰かさんが一曲増やしてくれちゃったせいで予定が押してるわ。撤収作業を急ぎましょう。」 演奏が終わっても、コンサートは終わりじゃない。アマンダさんの言葉に、スタッフさん達は慌ただしく撤収作業に戻っていく。 「俺達も撤収しなくちゃ、だな。」 着ぐるみの中から聞こえてきた声に、僕はようやく嗚咽を止め色さんから顔を上げた。 溢れ出る涙のせいでスーツの胸ポケットにしまっていた黒縁の眼鏡をかけ直す。 「あの、予定通り、色さんは着替えを済ませてから、一般のお客に紛れて外に出られて下さい。」 ずびずびと鼻を鳴らしながらも何とか伝えれば、まっ黒猫さんの頭が大きく頷いた。 一般客の中にビジネススーツを着た自分がいれば怪しまれることになる。かといってスタッフ通用口は張り込まれていないとも限らない。念には念をと、僕達は一度別行動をとってから会場地下駐車場ではなく近くのコインパーキングに停めている車で落ち合うと予め決めていた。 色さんはその大きな着ぐるみの頭をぐるりとオリヴァーとアマンダさんへ向ける。 「じゃあオリー、俺はここで。お前はまぁ……出待ちのファンに気をつけろよ。」 「ふん。……次は明日、スタジオだな。」 他のスタッフさん達の目がある手前着ぐるみを着たままで、色さんとオリヴァーが力強くハイタッチする。 そんなふたりの様子を視界の隅に入れながら、僕はアマンダさんに深々と頭を下げた。 「あの、お、お世話になりました。」 「こちらこそ。出演ありがとうございました。」 マネージャーとして互いに手短に挨拶を交わしながらも、視線はどうしてもアマンダさんの後ろへ。 そのオーシャンブルーの瞳が色さんから僕へと移る前に、僕は着替えのために楽屋に戻る色さんに付き添うためにその視線から背を向けた。 『おい、シ…』 『ほら、オリヴァー。時間が無いんだから貴方も着替え急ぎなさい。』 『……ふん、わかっている。』 背後で交わされるそんな会話が遠ざかるのを聞きながら、僕は早足で着ぐるみの色さんの隣に並ぶ。 楽屋までわずか十一歩の距離なのだけれど、どうにも頭が重たいらしく右に左にユラユラ揺れる色さんの肩を支え、肉球のついた手の代わりに楽屋のドアを開けた。 「私はここで待機していますから、着替え終わったら声をかけてくださいね。」 「わかった。」 色さんの着ている着ぐるみの返却手続きや楽屋の片付けも僕の仕事のうちだ。 いつまでも感情に流されて涙している場合じゃない。色さんが着替えを終える前にホールの責任者にお世話になった礼を言って、会社へ報告も入れて。今はまだ、僕個人の感情を優先させていい時じゃないんだ。 僕は色さんが楽屋へ入るのを見送ってから、気持ちを切り替えるためにもう一度眼鏡を外して、いまだ涙腺の緩い瞳を擦る。 自分自身を叱咤して、よしっと気合を入れて。そうして眼鏡をかけ直そうとしたのだけれど、 「え、」 突然背後から腕を捕まれぐいっと引かれた。 予期せぬことに身体は抵抗することすらできずに後に引きずられる。数歩よろけて連れ込まれた先は、色さんの隣の楽屋。 「ちょっ、」 抗議の声をあげるより早く目の前の扉は勢いよく閉まって部屋に閉じこめてられてしまった。 駄目だ、ここから出なきゃ。 考えるより先に身体はこの場から逃げ出そうとドアノブに手を伸ばしたのだけど、 「……逃げるな。」 耳元で聞こえた英語。背後から伸びてきた手が、僕の身体を抱き寄せる。 「っ、」 もがく僕の身体を押さえ込むように回された腕に僕の心臓はドクリと音を立て、手にしていたままになっていた眼鏡が僕の手からカシャンと床に滑り落ちた。

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