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第54話 春に聴いた夏

一瞬こちらに向けられた二人の視線の意味も分からないまま、僕はただモニターを見つめ続ける。 オリヴァーと色さんは互いに顔を見合せ小さく頷き、客席が静まるのを待ってからゆっくりと音を奏で始めた。 ホール内に色さんの緩やかなピアノの音が響き、柔らかな音が鼓膜を震わせる。どこか懐かしさを感じさせる……ニ長調の、旋律が……… 「え、」 聞き覚えしかない曲に、頭が真っ白になった。 なんで、 だってこれは、僕の最も大切で、大好きな曲。 「……いつかの、夏…」 色さんの柔らかな音に、オリヴァーのヴァイオリンが高らかに歌い始める。 夏の太陽が降り注ぐ田舎の風景が浮かぶ曲。 世間に発表されたのは五年以上前だ。しかも五月のこの季節の今、クラシックコンサートのアンコールで弾くような曲じゃないはずなのに。 弾く理由なんて、ないはずなのに。 「……なんで、この曲…なんですか、」 思わずそう呟いていたけれど、でも、自分で口にした疑問の答えは僕の脳裏に浮かんでいて。それでも、信じられなくて。 じん、とした熱をまぶたの裏に感じながら隣を見れば、僕の視線に気づいたアマンダさんは呆れ顔でため息をついた。 「感謝は理解できるとして、方や好きな映画の曲だからとか理由つけてはいたけれど完全に下心ありきだもの。……あいつら、コンサートをなんだと思ってるのかしらね。」 「うそ…、っぁ…」 嫌そうに、けれどどこか楽しそうに告げられた言葉に、僕の涙腺はあっけなく決壊してしまった。 口元をおさえ必死に耐えようとするけれど、涙はとめどなく溢れてくる。 なんで、どうして、 格式高い、国内最大規模のコンサートホール。そんな場所で、満員の聴衆を前に、貴方達はたった一人のために音を奏でているっていうんですか……? ありえない。ありえないのに、ホールに響く音は僕の心臓を震わせる。 いつだって、目を閉じていても映像が浮かぶ曲だった。夏の太陽が降り注ぐ、田舎の風景。 揺れる雑木林に風を感じ、川のせせらぎにひとときの涼を感じる。あぜ道を元気に走る子供の息遣いすら聞こえてきそうな、そんな曲なんだ。 それなのに、涙でぐちゃぐちゃな僕の脳裏に今浮かぶのは、あの人たちの優しい笑顔。 小さなモニター越し、ましてや今は涙で何も見えないのに、それでも口元に不器用で優しい笑みを浮かべて弾いてるんだってわかる。 なんで、 なんで、 どうして、 だって色さんもオリヴァーも、たまたま僕がそばにいて、少しだけ僕に出来る程度のお手伝いをさせてもらっただけで。 だから、感謝や愛情を抱いてもらうようなことはなにも、何も、何一つ出来ていないのに…… それなのに、僕の耳に届く音は確かに伝えてくる。 温かな気持ちが曲とともに流れ込んできて、身体の内から僕の心ごと優しく震わせる。 「っう、ぁあ゛……」 周りに人がいることも忘れて、僕はもう完全に号泣してしまっていた。眼鏡を外してハンカチで顔を覆っても、涙はとめどなく溢れてくる。 主旋律を奏でるヴァイオリンは語りかけるような音の連なりで僕の耳を撫でる。そこに色さんのピアノが寄り添って、温かみを増した音の波が穏やかに広がっていく。 ホールいっぱいに、二人の想いが満ちていく。 こんな音を、こんな場所で聴けるなんて。 優しい音は僕の中にある驚きも嬉しさも敬愛も、ありとあらゆる感情をごちゃ混ぜにして 涙と共に外に引きずり出してしまう。 もはやハンカチも役に立たない涙と鼻水と嗚咽。子供みたいに泣き続ける僕の隣で、アマンダさんの小さな笑い声が聞こえた。 醜態を晒しているのはわかってる。それでも、僕は込み上げてくるものを止められなかった。 最後の一音が優しくホールを揺らし終え、湧き起こる拍手喝采。鳴り止まない賞賛の音の中でオリヴァーと色さんは客席に向けゆっくりと頭を下げる。 ぐちゃぐちゃの視界に映る二人がスタンディング・オベーションを受けながら肩を並べてステージ袖へと戻ってくるのがわかって、 「っ……うぁ、あ゛ぁあっ……!」 僕は目の前の扉が開かれた瞬間姿を現した着ぐるみの色さんに、泣きながら思いっきり抱きついてしまっていた。

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