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第53話
鳴り止まない拍手とざわめき。先程の演奏と曲で観客はおそらく着ぐるみの中にいるのは誰なのか気づいたのだろう。
sikiが公の場に姿を表すのは初めての事だ。まさかのサプライズゲストに客席の半信半疑のどよめきは次第に大きくなっていく。
そんなざわつくホールを鎮めたのは、ヴァイオリンの和音だった。
突如響いた音に、人々の視線がまっくろ猫さんから再びオリヴァーへと集まる。わざとマイクを通したのだろう。大きく響いた音に客席ははっと息を飲み、ホールに再び静寂が訪れた。
おそらく今の音は客席に向けてというだけではない。その証拠にオリヴァーはヴァイオリンの糸巻きに触れわずかに音を調整していた。
442Hz。最後の一曲を弾くために色さんのピアノに合わせて調弦し直したんだ。
オリヴァーはマイクを通して客席に語りかける。
『さあ、最後の曲だ。日本の友人との初めての二重奏は、音楽史に残るステージになるだろう。オレとsikiの音を最後まで聴いていくといい。』
尊大なオリヴァーの言葉を、アマンダさんが丁寧な言葉に訳して伝えた。
期待の拍手が響く中でアマンダさんが一礼してスタンドマイクを回収しステージを後にする。
ほどなくしてスタッフさんが僕の目の前の扉を開いて、戻ってきたアマンダさんは待機していたスタッフさんにマイクを渡してから僕の隣へと歩み寄る。
「おつかれさまです。」
該当する英語が思いつかなかったのでそう日本語で声をかけたのだけれど、アマンダさんはありがとうと小さく笑った。
「でも、まだそう言うには早いでしょ。」
視線はすぐにステージを映したモニターへ。
「見届けてやりましょ。」
「……はい。」
アンコールをのぞけば、これが最後の一曲。アマンダさんの言う通り、僕達はマネージャーとしてこのステージの終わりを見届けなければ。
見上げたモニターの先で、オリヴァーがヴァイオリンを構えなおし、色さんはピアノに座り直す。顔を合わせて小さく頷き、二人の肩が小さく動いた。
歌うように響くヴァイオリン。そこに、柔らかく落とされるピアノの音。歌い上げるヴァイオリンの音色を消さないようにと収録したピアノの音にはエフェクトを加えていたけれど、色さんはその伴奏をステージ用に編曲した上で、エフェクトした音に近い音を自らの指で奏でている。
一音が小さく柔らかく震えるように響くトレモロ奏法。 ぽ、と音が落とされては高らかに歌い上げるヴァイオリンの背後で柔らかく響いてオリヴァーの奏でる主旋律と混じりあっていく。
力強く自由な音で人々を惹き付けるオリヴァーに、その音を後ろから支え、引き立て導いていくsikiの音。
この時代、この二人が出会って、この場所で一つの曲を奏でている。その奇跡を、今僕達は目撃している。
どちらが欠けても成立しない音色。合同での練習なんて今日のリハ一度だけのはずなのに、まるで初めからひとつの音のように見事なハーモニーだった。
言葉が出てこない。
心臓の奥底から湧き上がり身体を震わせるこの感情をなんと呼べばいいんだろう。
誰の心をも捉えて離さない鮮烈な音。それを奏でているのがあの二人なんだ。
近しいはずの人達がステージの扉一枚隔てた向こうで奏でる音は、まるで別次元から聴こえているみたいだった。
高らかに歌い上げるオリヴァーのヴァイオリンの主旋律をsikiの音が引き継いでホール内に響き渡る。
ヴァイオリニストの青年とフィギュアスケーターの女性との恋物語。互いに寄り添い、鼓舞し、最後には共に手を取り目標と未来に駆けていくあの映画のように、ピアノの音をヴァイオリンが引き継ぎ、それをまたピアノが奏で、次第に一つの音に溶け合いながら曲を紡いでいく。
最後には二人がピタリと同じ旋律を奏でて、客席の興奮を最高潮へと導いていく。
会場の空気が変わっていくのがわかる。
終わりへ向かう期待と興奮、終わらないで欲しいと願う渇望。全ての感情を二人の音が巻き込み攫って昇華していく。
最後の和音が落とされた時、客席はしんと静まりかえり、その余韻にひたる間もなく――
わあぁっ
すぐにホール内に拍手の嵐が巻き起こった。
沸き上がる客席。人々はみな立ち上がり、ステージの二人へと賞賛の拍手を送る。
扉の向こうから聴こえる鳴り止まない喝采。モニターに映る二人が客席に深々と頭を下げるその様子を見ながら、僕も二人に拍手を送りたかったのだけれど……出来なかった。
込み上げるものを抑えるために咄嗟に口元を抑える。
すごい、やっぱり二人は凄い。
こんな、こんな音を聴けるなんて。
喉の奥からせり上ってくるものは、観客としての感動なのか、マネージャーとして関わった人達がこの国で認められ賞賛されているという感慨なのか。
わからない。わからないけれど、瞳からこぼれ落ちそうになる涙を必死に耐える。
アマンダさんはそんな僕を横目に優しく口の端に笑みを浮かべた。
「まだ早いわよ。……あなたは特にね。」
「っ、?」
言葉の意味を問うより早く、わぁっ、と客席から一際大きい歓声が上がる。
モニターの向こうでオリヴァーが一度はおろしたヴァイオリンを再び構えていた。
アンコールが始まるんだ。
……だけど、アンコールはオリヴァーのソロで、色さんはここでステージを後にするはずなのに。
期待に沸く拍手の中で、色さんはピアノに座り直してオリヴァーと無言でタイミングを合わせているように見えた。
リハーサルの時とは違う。
いったい何が、始まる?
思考が追いつかずに隣のアマンダさんに視線を移せば、彼女は動じることなくモニターを見つめ続けていた。
イレギュラーじゃ、ない?
その視線が、アンダーリムの眼鏡越しに僕を見つめた。
「見届けてあげなさい。」
視線で指し示されるままにモニターを見上げれば、ステージの上、色さんとオリヴァーは互いに顔を見合せてから、その視線をステージ袖の扉に向ける。
「え……」
僕達が立っているすぐ側の、この扉をだ。
なに?
わからなかったけれど、でもモニター越しの二人はこちらを見つめ笑っているような気がした。
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