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第52話

ステージに突如現れた着ぐるみのまっくろ猫さんに会場はどよめく。 まぁ、ヴァイオリンコンサートに来ていきなり着ぐるみがステージに現れれば反応に困るのは当然だろう。何事かとざわめく客席の中でよく知った声が大爆笑している気がしたのは……きっと気のせいだ。いや、ステージの上で腹を抱えて爆笑しているオリヴァーは間違いなく現実だけれど。 頭が重いのか右に左にふらふらしながらオリヴァー達に歩み寄ったまっくろ猫さん、もとい(しき)さんは、大きく両手を広げて笑いのおさまらないオリヴァーの肩を抱き寄せ……ているように見せかけてヘッドロックを決めようとしているのは気のせいではないんだろう。「何笑ってんだこのやろう」と聞こえないはずの声が僕にはたしかに聞こえた。 けれどもちろん二人とも本気ではない。 モニター越しでは判別できなかったけれど、じゃれ合いという名の攻防は二言三言会話を交わすためのものだったのかもしれない。二人は互いに顔を見合せ小さく頷くと、拳と肉球のついた手をコツンと軽く合わせてから何事も無かったかのようにステージに並び立つ。オリヴァーはマイクの前に立ち客席をぐるりと見渡した。 『みなさんに今度の映画で協奏する本日の特別ゲストをご紹介しま……』 アマンダさんに訳されながら進行しようとしたオリヴァーが、突然言葉を止めた。 色さんを紹介しようと伸ばした手を引っ込めて、弓を持ったまま器用に自らの顎のラインをなぞりながら考え込む。 ああ、これはまた何かよからぬ事を企んでいるな。 そう理解して僕達が焦るよりも早く、オリヴァーは口を開いていた。 『そうだ、自己紹介代わりに何か一曲弾いてもらおうか。』 「え、」 リハーサルにはなかった発言。数秒置いてこめかみを抑えながらアマンダさんが丁寧な言葉に直して訳せば、客席からは拍手が起こる。 ステージ上でまっくろ猫さんは完全に固まってしまっていた。 「一曲増えるのか」「聞いてないぞ」「また、あの人は……」英語日本語入り交じりざわつくステージ裏で僕は一人モニターを見上げたまま息を飲んだ。 弾かせてくれるつもりなんだ。 伴奏ではなくて、ソロで。このホールで。 オリヴァーから、色さんへ。これは一人の音楽家から、音楽家への激励なんだ。 しばし固まっていた色さんだったけれど、オリヴァーの言葉の意味はわかっているのだろう。じ、とオリヴァーの顔を見つめ、それからくるりと背を向けて真っ直ぐに背後のピアノへと向かった。 ピアノの前に座り、大きな肉球のついた手袋を外して足元に置く。着ぐるみのその肩が、ふう、と大きく上下したのがモニター越しでもわかった。 やがてゆっくりと鍵盤に手が伸ばされ、いつの間にかしんと静まり返っていたホールに、ピアノの音が響きはじめる。 小さく跳ねる音。 軽やかに跳ねてするりとなめらかに鍵盤を滑り出ていく音。テンポよく跳ね回っていた音は、いつしか緩やかに歌うように、ホールに華やかな色をつけていく。 ああ、やっぱりこの曲だった。 sikiとして初めてのステージ。観客を前にして初めての演奏。色さんが選んだのは、自身が作曲したピアノ曲「Midori」。 アニメ映画の音楽を担当して一躍脚光を浴びた色さんが、その年に初めて出したアルバムの中の一曲。この曲はもう五年以上前に出されたものではあるのだけれど、つい最近再び脚光を浴びた曲だった。 とあるフィギュアスケーター選手が、規定に囚われない自由な演技をしていきたいと選手を電撃引退した、その最後の大会に選んだ曲。色さんにとって、この曲はきっと特別な一曲なんだと思う。 ゆっくりと流れるト長調の三拍子。 そこに低音が入り、いつの間にか短調へ。明るく無邪気に、不安に迷い。次々と違う側面を見せる音は駆けるように速度を上げ空気をかき乱していく。 「……すごい、」 会場が音の渦に飲まれていくのがわかった。スタジオで聴く音とは全然違う。オリヴァーの演奏に酔いしれていた人達をあっと言う間に惹きこんでいく。今この瞬間だけは、そこはsikiのステージだった。 オリヴァーもヴァイオリンを下ろして、ただまっすぐに色さんを見つめている。 やっぱりsikiは世界最高の音楽家だ。 この瞬間に立ち会えた事がうれしい。わずかでもsikiに関われて、この場所でこの光景を見れた事が誇らしい。 僕は涙腺が緩みそうになるのをギュッと拳を握りしめて耐えた。 泣いてる場合じゃないんだ。一秒も逃さずこの光景を、この音を自分の身体に刻みつけたい。最後まで見届けたい。 会場からは物音一つ聞こえなかった。誰もが皆、限界まで速度を上げて駆け上がっていく音に、呼吸すら忘れて聴き入っていた。 早く、高く。不安と興奮と期待と。そうしてそれらが限界まで高まった時、突然、ピタリと音が止まる。 時が止まったかのような静寂に皆が息を飲む頃、緩やかに聞こえた主旋律。 最後の一音が、会場に凛、と響き渡った。 わぁっ、と沸き起こる拍手に、色さんはゆっくりとその場に立ち上がり一礼して応えた。 sikiの音が認められた。 これだけの拍手と共に受け入れられた。 それはもう、僕にとっては歴史的瞬間だった。 眼鏡をずらし、ぐにゃりと歪みそうになった視界をスーツの袖で拭ってから、僕は他のスタッフさん達に迷惑にならないよう、音を立てないようにモニター越しに色さんに拍手を送り続けた。

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