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第51話

「……来たわね。」 扉一枚向こうでオリヴァーのヴァイオリンが響く中アマンダさんが僕達を振り返り、眼鏡のブリッジをく、と押し上げた。 ステージを客席が360度ぐるりと囲んでいるヴィンヤード形式のこのホールでは、客席から隠れるという事が出来ないために、ステージ袖とステージはしっかりと扉で仕切られている。両腕を組み、ステージ扉のすぐ脇で流されていたリアルタイムの映像を注視していたらしいアマンダさんは、(しき)さんに向き直り丁寧に一礼した。 「次がプログラム上の最後の曲になります。その後オリヴァーが挨拶とサプライズゲストの紹介をしますので、そのタイミングでステージへ。」 流暢な日本語に、色さんはわかりましたと大きく頷く。 僕は思わずゴクリと息を飲んだ。 心臓が破裂しそうな勢いで拍を刻んでいる。ぐっ、と力を入れていなければ、この場にへたりこんでしまいそうだった。 「ふふ、あなたの方がステージに上がるみたいね、シー。」 「ううっ。」 アマンダさんに笑われるくらいには、周りに緊張が伝わってしまっているのだろう。 僕の顔を覗きこんだ色さんの口元がふ、と緩んだ。 「……大丈夫。ほんの少し伴奏してくるだけだから。」 それは、ご自身に言い聞かせているようにも聞こえた。 頭部こそまだ僕が抱えているけれど、黒猫の着ぐるみなんて愛嬌のある衣装に身を包んだ色さん。けれど、その表情は既に怖いくらい真剣だった。 僕がずっと側で見てきた、音楽家sikiの顔。 色さんの視線がステージを映すモニターを見上げ、僕もアマンダさんも同じようにモニターを見つめた。 割れんばかりの拍手が静まったタイミングで、ステージ中央に立つオリヴァーはふ、と小さく息を吐く。 ステージ全体を映す引きの映像しかない為その表情は伺いしれなかったけれど、僕には笑っているように見えた。 日本での初めてのコンサート、楽しめているのかもしれない。 オリヴァーは一度下ろしていたヴァイオリンを再び肩に乗せて弓を構えた。 高らかに、どこか愛らしさすら感じる音がホールに響き渡る。 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲の「無伴奏ヴァイオリンの為のソナタとパルティータ」。曲名は知らなくとも、一度は耳にしたことがあるであろう有名な旋律。 それぞれ三曲ずつ作られているソナタとパルティータからなるこの楽曲。その中でも有名なのがこのパルティータ三番の三楽章じゃないだろうか。 パルティータ(組曲)が示すとおり、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグとそれぞれ曲調の違う舞曲を並べるというのが当時の一般的なパルティータだったはずなのだけれど、この三番はその一般的な並びから大きく逸脱している。 バッハが型にはまることなく、自由に思う通りに作った曲。だからこそこうして今なお人々に愛されているのかもしれない。 オリヴァーがプラチナブロンドを揺らし、緩やかに弦を引く。穏やかな波が、会場を飲み込んでいく。気がつけば皆、深く深く、音の海に溺れてしまっていた。 超絶技巧に重厚な音で聴衆を魅了しておいて、最後にこの優しい音はずるい。聞きなれた旋律は、緊張した空気を溶かして穏やかに優しく身体に入ってくる。 「……文句のつけようがないな。」 隣から聞こえてきた色さんの言葉が全てだった。 アマンダさんがありがとうございますと色さんに一礼する隣で、僕はモニターから目が離せなかった。 やっぱりこの人は凄い。 一音一音、弓が弦に触れる度に会場全体が震える。モニター越しでも伝わってくるその音の重みに、僕はただ圧倒された。 優しい音なのに、ぎゅっと心臓が苦しくなる。目頭が熱くなる。 ……華のある音って、たぶんこういう事なんだ。 天国のようだと評されることもある三楽章。扉から漏れる音、モニターの画面越しだけれど、僕には天からオリヴァーに降り注ぐ光がたしかに見えていた。 オリヴァー・グリーンフィールド、初の日本公演は間違いなく大成功だろう。 最後の一音を弾ききったオリヴァーがヴァイオリンを肩からおろせば、ステージには割れんばかりの拍手と喝采が降り注いだ。 「……それでは、ご準備をお願いしますね。」 アマンダさんの言葉に、僕と色さんは無言で頷いた。 アマンダさんが色さんに一礼し、傍らに準備されていたスタンドマイクを手にする。 スタッフさんが素早く開けた扉をくぐり、アマンダさんはステージで喝采を受けるオリヴァーへと向かっていった。 ほどなくしてモニターにアマンダさんの姿が映る。通常ならば鳴り止まない拍手喝采に応えてアンコールの曲を弾くところのはずなのに、突然現れたアマンダさんに何が始まるのかと会場はざわめき始めた。 そんな客席の変化にも一切動じす、アマンダさんはオリヴァーの前にスタンドマイクを置き、彼の半歩後に立つ。その手には自分用のマイクが握られていた。 オリヴァーは客席をぐるりと見渡し、ゆっくりと目の前のマイクに一歩近づく。 『Thank you for coming to my first performance in Japan tonight…』 『今宵は私の初の日本公演におこしいただき、ありがとうございます…』 アマンダさんの通訳でオリヴァーの挨拶が始まれば、ざわめきはいっそう大きくなった。 基本的にクラシックコンサートで演奏家がこうしてマイクを手にMCをすることはない。観客はまさかオリヴァーの生の声が聞けるとは思わなかったのだろう。彼が喋り始めた途端、客席のあちこちから悲鳴に近い声があがった。この会場の興奮を鎮めるのは大変そうだ。 隣でモニターを見つめる色さんの顔にも苦笑いが浮かぶ。 「色さん、そろそろ。」 「……うん。」 沸き立つ客席の声を聞きながら、僕はずっと大事に抱えていた着ぐるみの頭を色さんに渡した。色さんは受け取った頭部を抱え、見上げていたモニターから、ステージへと向き直り、大きく息を吐いた。 熱を帯びるホールとは対照的に、ステージ袖の空気はピンと張り詰めていくのがわかる。 扉の向こうでは、客席に軽く挨拶をしたオリヴァーがこの冬日本で公開される映画に協力をする事になったと説明し、会場をさらに沸かせていた。 いよいよ。いよいよだ。 「あ、あの……楽しんできてくださいね。」 その背中に声をかければ、色さんは抱えていた着ぐるみの頭部を被る前にゆっくりと僕の方を振り返る。 その表情は、緊張なんて全く感じさせない穏やかなものだった。 「練習のつもりで行ってくるよ。……来年高校を卒業したら、今度は一人でここに立てるように。」 「色さん、」 照れくさそうに僅かに微笑んだ色さんは、その表情を隠すようにすぐに黒猫の頭部を被ってしまった。 「今からの時間は(すい)さんも楽しんで。俺がここにいるのはマネージャーのおかげなんだから、胸張ってそこで聴いててよ。」 ぽん、と肉球のついた大きな手が僕の肩を優しく叩いた。 ……たぶん、きっと、傍から見れば非常にシュールな光景なんだと思う。だけど僕は、目の前のまっ黒猫さんに泣きついてしまいそうだった。 出会った時は十二歳の少年だった色さんが、日本の最高峰ともいえるこのコンサートホールに立とうとしている。ずっとずっと夢見てきた瞬間なんだ。 目の奥がツンとして、今にもこぼれおちそうな涙をぐっとこらえる。 泣くのはまだ早い。僕はマネージャーとして、この人を送り出さなければいけないんだから。 「色さん、いってらっしゃい!」 「いってきます。」 笑顔で力強くそれだけ伝えれば、色さんはこくりと頷いてくれた。 そうして再びステージ扉に向き直る。 『今夜のためにかけつけてくれた、私の友人をご紹介します。』 オリヴァーとアマンダさんの言葉に沸き立つ会場。 スタッフさんがドアを開いてくれて、色さんはゆっくりとステージへと消えていった。

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