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第50話
オリヴァー・グリーンフィールドのコンサートにゲスト出演する条件としてsikiが出したのはただ一つ、顔を出さないということ。
ご両親が世界的に名の知れた指揮者と元オペラ歌手であることはもちろん、年齢やさらには性別すら公にはしていないsikiこと色 さんをいかにしてステージに上げるのか。悩んだ結果は――
防音の施された室内にすら漏れ聞こえてきた拍手の波。
扉一枚隔てた向こうの空気がピリついたのがわかる。
「……はじまったな。」
ポツリと漏らされた色さんの声に、僕は頷いた。
いよいよだ。
オリヴァー・グリーンフィールド日本初のソロ公演。ヨーロッパ、アメリカを中心に幾度もコンサートを行ってきて、その全てを成功させた人だ。彼はこの日本公演も間違いなく成功させる。
そう、信じているけれど。
どうか緊張せず、コンサートを楽しんでいますように。僕はテーブルの下で指を組み、咄嗟にそう祈ってしまっていた。
かすかに聴こえてくるヴァイオリンの音に耳を澄ませる。
物音を立てないようにしていないと聞こえないくらい小さな音だったけれど、それはどこか楽しそうに歌っているような気がして、僕は色さんに気づかれないようほっ、と息を吐いた。
「……そろそろこっちも準備するか。」
「あ、は、はいっ。」
立ち上がる色さんに、我に返る。
そうだ。今日は色さんの初めてのコンサートでもあるんだ。マネージャーとして僕は色さんに付いて全力で応援しなければ。
頭をふって気持ちを切り替え、ズレた眼鏡をかけ直す。
今はオリヴァーじゃなくて、色さんだ。
ゲストとはいえ初めてのコンサート。色々と大変なんだから……色々と。
緊張の面持ち……ではなくゲンナリした顔で、色さんは部屋の隅に用意されていた衣装を座っていた椅子まで引きずってきた。
「……いまさらだけど、本気でこの格好で出るの?」
「いまさら変更はなしですよ?出てください。」
あえてにっこりと笑みを作れば、色さんはがっくりと肩を落とす。
腹をくくったのか、椅子に腰かけ靴を脱いでから袖、ではなく脚から衣装を通していく。
――本日の為にレンタルした、黒猫の着ぐるみに。
「まさか本気でこの案を通すとは思わなかった。」
「いいじゃないですか。以前も大人気でしたし。」
「いや、高校生のボランティアイベントと一緒にしちゃ駄目だろ……」
色さんが袖を通したのを確認して、僕は一声かけてから後ろのファスナーを閉める。
以前使用したことがあるからわかってはいたが、サイズは問題なさそうだ。
オリヴァー側とうちの会社側との協議の結果、採用された着ぐるみ案。何を隠そう、発案者はこの僕だったりする。
以前、色さんが所属している高校の部活のイベントで、どうしても人前でsikiの曲を弾かなければならない事態になった時に一度この着ぐるみを利用したことがある。
子供が多く集まるイベントだったために、結果は大盛況。つい一ヶ月前に行われたそのイベントはまだ記憶に新しく、今回どうやって素性を隠してステージに上がるかという話にたった時に、僕は真っ先に提案してしまっていた。……いや、まぁ、半ば冗談だったのだけれども。
けれどこの黒猫さん、実はsikiが音楽監督を務めたあの映画『ともだち トクベツ 六花とキトリ』に出てくるマスコットキャラクター的な存在だったりする。作中では名前はなく、主人公姉妹に「まっくろ猫さん」と呼ばれていたこのキャラクター。
姿を見せずともこの姿でsikiの曲を弾けば、わかる人にはわかってもらえるだろうというのが皆の最終的な見解だった。
オリヴァーがヴァイオリンケースにキーホルダーを付けるくらいに気に入っているキャラクターだったというのも大きい。
大抵の事は「いいんじゃないかな」と許容してしまううちの社長と、コンサートが進行するなら何でもいいというドライなアマンダさん、それに何より今日の主役がこの着ぐるみをいたく気に入ってしまった為に賛成多数でこうなってしまったのだ。
僕の案が通っちゃいましたと告げた時の、色さんの愕然とした表情は忘れられない。
「歴史あるコンサートホールでこんなこと許されるのか……」
色さんのぼやきはごもっともだ。
全身真っ黒な丸みを帯びたボディ。ピンクの肉球の付いた大きな手。デフォルメされた大きな足の裏にも同じく肉球が付いている。
そこに今僕が抱えているペロリと舌を出した愛嬌のあるお顔をかぶれば、どこからどう見ても可愛い黒猫さんの完成だ。
どう考えても格式高いコンサートホールに出る格好では無い。自分で提案しておきながらなんだけれど、ホールの責任者もよく許可をしたなと本気で思う。
それでもここまできてしまったらもうやるしかないんだ。
「行くか。」
「はい!」
色さんの言葉に、僕は大きく答えた。
色さんの、初めてのコンサートだ。色さんの音が、このホールに響くんだ。
ずっとずっと夢見てきたことが、ついに現実になるんだ。
嬉しさで泣きそうな気持ちと、緊張と、興奮と。僕はまっくろ猫さんの頭部をしっかりと抱え直した。
手を上手く使えない色さんの前に立ち、僕がドアノブに手をかける。よし、と勢いよく開ければ、ビリリと空気を震わせたヴァイオリンの音が、鼓膜を通り全身を震わせた。
このホールでは、室内で高めた緊張感をそのままステージまで維持できるようにと楽屋のすぐ向こうがステージという珍しい構造になっている。
歩数にしてわずか十一歩。僕はその十一歩をしっかりと踏みしめた。
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まっくろ猫さん。以前着ていた時には別の名前で呼ばれてたんですけど……覚えてる方いらっしゃるかな?
答えは前作「スカイブルーは藍の空」に。
読み返してくすっとしていただけたら嬉しいです😊
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