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第49話

オリヴァーはほんの少しだけボクに身体を寄せて、眼鏡越しに覗き込むように僕の顔を見つめる。 「なぁ、シー、」 「な、なんですか。」 海のような深い青が、僕を映している。 今日はsikiのマネージャーとしてここにいると言ったのに、そのオーシャンブルーの瞳は仕事相手としてではない熱を孕んでいて、その事実だけで体温が上がっていく。 逃げ出したいのに、身体が動かない。 固まる僕を前に、オリヴァーは肩を竦めた。 「なぁ、平凡とやらにはどうやればなれる?どうすればオレはお前と対等に話が出来る?」 息が止まるかと思った。 優しく笑っていたはずの顔が、急に泣きそうに見えて、僕の心臓はチクリと痛んだ。 オーシャンブルーを直視出来なくて、僕は逃げるように視線を落とす。 「対等なんて……そんなの、無理ですよ。だってあなたは僕が諦めてしまった世界で努力して成功した人なんですから。」 この人は僕なんかじゃ手の届かない遠い世界にいる人だ。知り合えただけでも奇跡みたいな人。対等になんて、なれるはずがないのに。 「オレだってコンサートのたびに緊張してるような平凡で小さな人間なんだがな。」 「それでも……やっぱり貴方と僕は住む世界が違いすぎます。」 顔を直視出来なくて俯いたまま呟けば、ふむ、と少し考え込むようなオリヴァーの声が聞こえて、ぽん、と頭に手を置かれた。 「なるほど。……まぁ、今日は互いに余裕がないからな、この話はここまでにしておいてやる。」 優しく僕の髪をひと撫ぜしてから、言葉通りオリヴァーの気配が僕から少し離れていく。 恐る恐る顔をあげれば、彼は何事も無かったかのように再び金平糖をぽりぽりと味わっていた。 「今はコンサートを成功させることが一番だからな。心配しなくても、終わったらまたたっぷり口説いてやる。」 「そ、そんなことしなくていいです!」 平然と言ってのけたオリヴァーに、僕はあわてて席を立つ。 これ以上この人のペースに飲み込まれてしまう前に、早くこの場から立ち去らないと。 僕は入れてもらっていた紅茶を立ったまま一気に飲み干した。 「も、もう差し入れもお渡ししましたしこれで失礼します!」 一息でそこまで言い切って、僕は逃げるようにオリヴァーに背を向け部屋を後にした。 いや、実際逃げ出したんだ。これ以上ここにいたら色々勘違いしそうだったから。 背後に聞こえたオリヴァーの笑い声を、僕は勢いよく楽屋のドアを閉めて遮断した。 長くてきれいな指が、僕が差し入れたビターチョコレートをつまみ上げ口へと放り込む。 「あ、うまい。」 思わず漏れたのであろう感想を聞く限りでは、どうやらこの差し入れは正解だったらしい。 チョコレートメーカーが期間限定で老舗の日本茶屋とコラボしたビターチョコレート。 いつもは引き結ばれていることの多いその口元が僅かに緩んだのが見えて、僕はほっ、と息を吐いた。 オリヴァーの部屋から逃げ出した僕は、色さんの楽屋の扉に耳を当て、話し声が聞こえないことと、ピアノの音が漏れ聞こえてきたことをしっかりと、しっっかりと確認した上で部屋にお邪魔してようやく差し入れをお渡しすることができた。 食事はどうしても喉を通らなくて、と少し恥ずかしそうに笑った色さんは二つ目のチョコにも手を伸ばす。 「チョコレートは食べるって、俺(すい)さんに話したっけ?」 「何度かお見かけしたことがありましたから。差し入れでいただくお菓子も、抹茶味のものなら毎回多少は召し上がっていらっしゃいましたし。」 色さんは基本甘い物が苦手でいらっしゃる。 コーヒーも紅茶もいつもストレート。好んで召し上がるお菓子は塩味のあるスナック系やお煎餅類だけ。 そんな色さんがチョコレートを口にしているのを数度見かけたことがあるのだけれど、それらは全て締め切り前やテスト前など、少し追い込まれていた時だったと記憶している。 だから、きっと今日もチョコレートならと思ったのだ。 「ほんと、よく見てるよな。」 「マネージャーですから。」 いつも多くは語らない方だから、些細な変化も見逃さないように。色さんのお役に立てればと気を配っていたかいがあったかもしれない。 部屋の隅に置かれたポットと急須をお借りして濃いめの緑茶を入れてお出しすれば、色さんはありがとうと湯呑みを手に取った。 「ん、少し落ち着いた。」 一口すすった緑茶に、色さんは小さく笑う。 それを見届けてから、僕はテーブルを挟んで色さんの向かいに腰を下ろした。 僕と色さん、二人しかいない空間は初めての場所だけれど何だかほっとする。 「正直、めちゃくちゃ緊張してたって言ったら笑う?」 「まさか。ステージに出ない私ですらこの一週間寝不足なんですから。」 「はは、俺も似たようなもんだな。……まぁ、この格好じゃあんまり説得力ないだろうけど。」 色さんは壁際のカウンターに設置された鏡越しに自分の姿を確認して苦笑い。 そして、その視線がそのままちらりと意味ありげに僕へと向けられる。 あ、これはもしかしなくとも無言の抗議なのだろうか。 「数週間前まではまさか自分がコンサートに出るなんて思ってもみなかったからな。……しかも、こんな格好で。」 最後の一言に妙に力が入っていた気がするが、僕は自分用にと用意していた湯呑みをすすり、文字通りお茶を濁した。 色さんも本気で責めるつもりはないようで、視線を泳がせる僕を見てふ、と小さく笑う。僕もつられて笑ってしまった。 オリヴァーが本番用の衣装に着替えていたように、色さんも既に着替えを終えている。正確にはステージ衣装を着るための着替えを終えていると言った方が正しいのだろう。 三つ目のチョコレートに手を伸ばした色さんの服装は、今朝のカジュアルなジャケット姿とはうってかわり……Tシャツにジャージ姿というなんともラフな出で立ちだった。 「顔を出さずにステージに上がるには……やっぱり仮面案の方がよかったです?オリヴァーも一緒につけるってノリノリでしたし。」 「いや、それはそれで恥ずかしい。」 燕尾服に仮面なんてどこぞの舞踏会にでも参加するような煌びやかな衣装案を思い出したのか、色さんはわずかに眉をひそめた。 ゲストとはいえ初めてのコンサートが、格式高い国内最大規模のコンサートホール。三百六十度客席に囲まれた逃げ場のないステージで大勢の観客に見られることになるのだから緊張するのは当たり前なのだけれど……きっと色さんは今別の意味での羞恥と緊張とも戦っているのだろう。 多分おそらくこんな出演の仕方は日本どころか世界初かもしれないのだから。 「……また、あれを着るのか。」 部屋の隅に置かれたステージ衣装を横目に、色さんのため息はひじょーに重かった。

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